1. 旅の始まり
『地獄の主、地獄の王、フェルと名付けよう。そして、我が名を託す。これから、フェル・アルタイルと名乗るが良い。それはそなたの本当の名とした』
その言葉は彼の耳から離れなかった。その渦に投げ込まれた彼は、必死に短剣を握りしめた。
怖い。
この状況は理解できない。
彼はただその人が言った言葉を頭に刻んでいる。
フェル・アルタイル
それは自分の名前だ。今まで名無しだった自分が始めて名前を持った。
渦に吸い込まれている感覚がしばらく続いた。彼はどこへ飛ばされてしまったか、見当もつかない。
バーン!
大きな衝撃が彼の全身を襲う。地面に叩きつけられた彼の体がしばらく動けなかった。痛みを耐えて、彼が目を閉じた。
彼が知らない場所だ。
彼は起き上がって、周囲を見ている。彼の手に、その短剣があった。
手・・。
彼は気づいた。今まで手がなかった。彼は自分の手を見つめている。そして足・・。
彼の体には手と足があった。
彼は人となった。名前もある。そして、その手には短剣がある。禍々しい力を帯びたその武器は恐ろしい。彼は武器を見つめている。
あの人がくれた武器だ。けれど、彼の頭に、その人の名前が出て来なかった。
自分に名を与えた人なのに・・、と彼が頭を手で触れた。思い出せない。
ガー・・
その音で彼が顔を上げた。目の前に恐ろしい猛獣が現れた。彼は素早く構えた。
なぜか、その短剣を抜いた。鞘を片手でしっかりとにぎった。
猛獣が小さな獲物を見て、前に動き出した。そして凄まじい早さでその前足で彼をつかもうとした。けれど、彼が動いて、その攻撃を交わした。
このままでは、死ぬ。
彼は瞬きせず、目の前にいる猛獣を見つめている。
一度獲物を見失った猛獣がまた動き出した。猛獣が口を大きくあけて、彼を一口で呑み込もうとしたけれど、彼はまたそれを交わした。それどころか、手にした短剣で猛獣の舌を切った。痛みに耐えず、猛獣が大きく暴れてしまった。その尻尾で、周囲の木々が左右に倒れた。けれども、彼はずっと猛獣を見ている。そして、一瞬にして、彼は手を振り上げた。下から上へ、彼の攻撃がきれいに入って、猛獣を間二つに斬った。大きなうめき声とともに、その猛獣が崩れ落ちた。
死んだ。
彼はしばらく死んだ猛獣を見つめている。そして手にしている短剣を見て、またその猛獣を見つめている。
彼は短剣を鞘に入れて、その猛獣の血を手で取って、口に入れた。
生臭い。
彼はかつて蛇だった。細かく言うと、海蛇だった。蛇だった彼はほとんど獲物を丸呑みにした。けれど、今の彼は蛇ではなく、人だ。
彼はその猛獣の肉を一欠片取って、口に入れた。美味しくなかった。けれど、次の瞬間、彼が瞬いた。
味。
なぜ美味しくなかったことが分かった。なぜなら、その答えは簡単だった。味が分かるからだ。
どうしたら良いのか、彼がまた考え込んだ。
「炎」
彼の口からその言葉を出て来た瞬間、その猛獣に炎がついた。そして焼けた肉を手にして食べると、先ほどとはまったく違う味がした。
美味しい。
彼はまた一欠片の肉を取って、口に入れた。そしてゆっくりと噛んで、呑み込んだ。美味しい、と彼が何度も思って、おなかを満たした。
食事を終えると、彼は座り込んで、周囲を見渡した。この場所は彼が知った場所ではない。そもそも彼はずっと海の中にいた。ごくたまに陸に上がって、日向ぼっこした。時にある島から聞こえてきた歌声を求めて、あの狭い岩の上に行った。
その岩の向こうには、小さな島がある。その島から、美しい歌声が聞こえていた、と彼が必死に思い出そうとした。けれど、誰が歌ったのか、思い出せなかった。彼がため息ついた。自分の名前をくれた人と、歌声のことも、忘れてしまった。とても大事なことなのに、と彼が頭を抱えた。
寒い。
突然彼が震えている。風が吹いている、と彼が頭を上げて、周囲を見渡した。
彼は立ち上がって、歩き始めた。途中でとてもふかふかな毛皮をしている鹿がいたから、彼はその鹿を殺して、毛皮を取って、自分の体にまとった。肉がもったいないから、彼はその鹿を背中に固定して、また歩いた。
何かを探さないといけない。
けれども、彼がそれを覚えていなかった。考えても、考えても、思い出せなかった。だから彼は歩き続けている。
彼がこの世界でやるべきことを、思い出せるまで、歩き続けるしかない。
夜になると、彼が木々の下で休む。手にした動物を焼いて、食べる。少し眠った後、彼はまた歩き出した。
一晩を寝たのに、頭のモヤモヤが消えていなかった。彼にとって、これが最初の地獄だった。
彼がどのぐらい歩いたか、自分でさえ分からない。疲れた足を少し休ませて、彼は水辺に行って、足を冷たい水の中に入れた。
ズサ
茂みの中から一人の男が現れた。彼と違う種族だった。けれど、彼が敵対するような感じがしなかった。そのどころか、彼はとても苦しそうだった。
「助けてくれ」
その男が言うと、彼が立ち上がった。
「あ」
始めて口にした言葉がそれだった。なぜか、彼がその男の言葉を理解した。世界が違ったのに、と彼が思った。
「助けてくれ・・」
その男が瞬いた。彼が酷い怪我をして、血を流している。
「助ける」
彼がそう言いながら、その男の後ろを見ている。飢えている獣が一匹いた。彼は素早く短剣を鞘から抜いて、構えた。そしてその獣が飛び込んだこととともに、彼も飛び込んで、短剣で獣の首を一瞬にして刎ねた。
あっという間の出来事だった。彼はその獣を触れて、血を口にした。
やはり生臭い。
そして彼が振り向くと、男が嬉しそうにうなずいた。
「助かった」
その男が言うと、彼が無表情で短剣を鞘に入れた。
「ああ」
彼はそう言いながら、死んだ獣を水辺に引っ張った。彼がその獣の肉を切って、乾いた石や枝の上に置いた。そして彼がまた手をその肉に向けて、炎を唱えた。
すると、男が驚いて、手を炎に触れた。熱い、とその男が言うと、彼もうなずいた。魔法に驚いたのか、炎に驚いたのか、彼は知らない。けれど、焼いた肉の味が美味しかった。二人は無言で食事をした。
その男がしばらく彼と一緒にいた。歩けるようになると、その男が彼を自分の群に連れて行った。互いの言葉がカタゴトだけれど、なんとか二人が会話できるようになった。そしてその男が彼の腰にぶら下がっているあの短剣に興味を示した。けれど、彼はそれを見せなかった。
「妹、ミルカ」
その男は一人の女性を彼に紹介した。そして自分の名前をマルカと名乗った。
彼は何を名乗れば良いのか、と迷った。あの男がくれた名前で名乗れば良いのか、あるいは別の名前で名乗れば良いのか、と彼がしばらく考え込んだ。
「ロッコ」
彼が言うと、彼らがうなずいた。その名前は彼の腕にある六つの色違い鱗のことだった。
『立派な青い鱗だ。あ、ここだけ違う鱗があったな。一、二、三、全部、六個だ。しかし、本当に珍しいウミヘビだね。しま模様ではなく、きれいな青だ。まるで海の宝石のようだ』
自分に名前をくれたあの人が教えてくれた。青い鱗の海蛇なのに、色違いの鱗が六つあった。そう思うと、なぜか彼がとてもその人のことを懐かしく思った。会いたい。また二人で岩の上で歌を聴きたい。
「ロッコか。どこから来た?」
一人の男が聞いた。けれど、彼はどう答えれば良いのか分からない。別の世界から来たと言っても、誰も信じなかっただろう。彼はただ首を振っただけだった。
「ここから遠い」
「海の向こうか?」
その群の男の一人が広がった海を示すと、ロッコがうなずいた。
「どうやって来た?」
「・・・」
ロッコが困った。その答えなんて、一度も考えたことがなかった。
「泳いで来た」
「嘘だ!」
その男が反論した。今まで海を泳いで無事の人なんていないからだ。
「好きにしろ」
ロッコが立ち上がった。別に彼がその群にいなくても良いと思っている。
「マルカ、助けた。それだけだ」
ロッコが立ち上がって、群を後にしようとした。けれど、ミルカが彼の手をつかんだ。
「ミルカ、ロッコを信じる!」
彼女が言うと、ロッコが振り向いた。ロッコが微笑んで、ミルカを見ている。
「さようなら」
ロッコがそう言って、ミルカの手を自分の手から外した。そして彼がまた歩いて、群を離れた。
あの群の人々が何かを怯えていた、と彼が思った。海の向こうから来たと言ったことがまずかったのか、あるいは何かの原因で怯えているのか、ロッコが分からない。
けれど、彼は気にしなかった。ロッコは森に入って、暗い夜の中に一人で座った。
あの日で聞いた歌声は女性の声だった。けれども、ロッコはその声の持ち主の顔が覚えていない。けれど、岩の上からあの歌声が心の中へ入り込んだことを思い出すと、とても居心地が良かった、と彼がまた思った。
だからあの男がその歌声が好きだった。顔も覚えていない人なのに、とても懐かしく感じた。
ロッコが目を閉じて、ミルカを思い出した。彼女は、女性だ。この世界では、女性が普通にいる。群に行けば、普通にいるようだ、とロッコが思った。
足音が聞こえた。
ロッコが目を開けて、周囲を見ている。そして彼が立ち上がって、短剣を触れた。
「ロッコ、ロッコ」
ミルカの声がした。
「ミルカか?」
ロッコが言うと、暗闇からミルカの姿が見えた。今日は曇り空で、とても暗かった。けれど、ロッコがミルカの姿をよく見える。
血が、彼女の頭から流れている。
「ミルカ、どうした?」
ロッコが素早くミルカを助けた。ミルカが目を開けて、ロッコを見つめている。
「オミ、襲った」
「オミは何だ?誰なんだ?」
けれど、ミルカの答えはなかった。彼女が目を開いたまま、死んだ。
この世界に来て、初めての「死」だった。ロッコがしばらくミルカを見つめてから、立ち上がった。そして彼女を彼の休んだ場所へ運んでから、あの群へ戻った。
けれど、その群はもうない。あったのは残骸だけだった。殺された群の人々があちらこちらで転がっている。彼が助けたマルカも、その一人だった。
何があったんだ?
ロッコが周囲を警戒して、その集落を見渡した。けれども、もう死んだその集落の人々以外、誰もいない。子どもでさえ、殺された。
オミとは何だ?
ロッコが近くにいる男の手を見て、手を伸ばした。
斧。
その斧に血がついている。彼がその血を触れて口に入れると、すぐに吐き出した。
人の血だった。
と言うことは、この集落が「同じ人々」に襲撃されて、滅んだ。
どこからか、血のにおいがした。
ロッコが走って、その血のにおいを追った。あの斧で怪我した人だったかもしれない。そうなると、彼らがその集落の人々を殺した可能性がある。
たいまつの灯りが見えた。そして、そのたいまつの先には別の集落が見えた。男らが笑いながら戦利品を眺めている。
あの群の女性らが、戦利品だ。彼女たちが集められて、たき火の近くに立たされた。一番偉い男が座って、笑いながら女性らを品定めしている。
そして彼の近くに座った男の手が怪我している。数人の女性らが彼の傷を手当てしている様子が見えた。
ロッコが現れると、彼らの笑いが止まった。数人の男らがロッコの前に立ちはだかった。
「止まれ!」
彼が言うと、ロッコが答えなかった。
「止まれ、と言ったんだ!」
一人の男が斧を振り下ろした。けれど、ロッコがそれを交わして、素早く動いた。
ザッシュ!
その一瞬で、彼の首が地面に転がっている。男らが一斉にして、斧を持って、構えた。女性らがあまりの恐怖にしゃがんで、大声で叫びながら耳を塞ぎ、目を閉じた。
「何者だ?!」
彼らが驚いて、ロッコに聞いたけれど、彼の口から答えはなかった。
ザッシュ!ザッシュ!
次々と彼を襲った男らが首を失った。最後に、その長が一人になった。
「オミか?」
「そうだ」
「ミルカが死んだ」
「ミルカ?」
「だから、あなたも死ね」
「な・・」
ザッシュ!
彼の首が地面に転がった。ロッコが周囲を見て、女性達を見て、そのままその集落を後にした。
彼がミルカの所へ戻ると、遺体がまだそのままだった。ミルカの遺体の前に彼が座って考え込んだ。
なぜ彼がオミを殺したか。
ミルカが死んだからと言って、彼が彼女のことが何も知らなかった。
けれど、何かの感情が湧いて、彼をそのままあの集落に導いた。そして、最終的にオミを殺した。
彼を襲った男らを殺したのが、本能だった。けれど、オミとは違う。あの男が斧すら振り下ろしていなかった。
ミルカを殺したから、ロッコがオミを殺した。
自分の感情が矛盾している。
ロッコがそう気づいた瞬間、立ち上がった。
「ミルカは信じてくれた。しかし、ミルカがオミに殺された」
ロッコがそう言いながら、近くにある花を摘んで、ミルカの体の上に置いた。
月のない夜に、ロッコがしばらくミルカを見てから、またどこかへ歩いた。