リネアの故郷
「フィル様、こちらです」
リネアは隣を歩くフィルの手を引いた。
サエイレムの街区は、街を東西と南北で十字に区切る大通りによって、大きく4つに分かれている。まず西側が人間の居住地、東側が魔族の居住地、それぞれ北側が商業地や比較的裕福な者が住む高級住宅地、南側が職人街や庶民の住む下町、という具合だ。
東西の大通りの先には城門があり、最初にフィルが破壊したのが西門。帝国側からの街道がつながっている。魔王国側となるのは東門だが、こちらは国境が閉じられていることもあり、ほとんど出入りはない。そして、南北の大通りは北端一帯が総督府や軍の駐屯地、南端は大河ホルムスに面した河港となっていた。
大河ホルムスはサエイレムを通過してから船で半日ほど下ると海に出て、そのまま帝国本国まで続く海上航路が開拓されている。帝国が戦争においてサエイレムを重視し、戦後に領有を希望したのは、この地理的条件が大きい。海路で帝国本国と結ばれたサエイレムは、対魔王国の前線基地として最適だったからだ。
なお、街の東西で人間街と魔族街に分かれているのは、価値観や生活習慣などの違いから自然にそうなっていっただけで、それぞれの側に立ち入ってはいけないという決まりはない。一般の庶民でも買い物などで人間街と魔族街をお互い行き来することは珍しくないし、商人たちの中には人間、魔族とも相手の街に店を出している者さえいる。人間と魔族で互いに相手を敬遠する者もいるが、互いに深く干渉しない一定の距離感は持ちつつ、うまく付き合っているというのが現状である。
フィルとリネアは、総督府を出て南北の大通りを南へと進み、魔族街の下町へと向かっていた。以前、リネアが住んでいた場所がどうなっているのか、見に行くためだ。
リネアは総督府で働いている時と同じ服装。フィルは、先日の練習試合の時に着ていた一般兵の衣装にマントを羽織り、愛用の剣を腰に下げている。さらに、狐耳と尻尾を出した狐人姿である。一応、総督府のお使いで下町に来た侍女とその護衛、という設定のつもりだ。
リネアに案内され、フィルは初めて魔族街へと足を踏み入れた。
一言で表すなら、雑然とした街である。通りに面した建物の軒先には様々な露店が並び、多くの人々が行き来している。露店の商品は食べ物や日用品が大半だが、中には装飾品や武具、薬なのか得体のしれない草や乾物などを売っている店も見受けられた。
サエイレムに住む魔族の中でも数が多いのは、人に近い姿に獣の特徴を持つ、狼人族、狐人族などの獣人である。下町を行き交う人々もほとんどが彼らのため、正直言って、かなり獣臭がひどい。特に下町で暮らす人々は毎日体を洗う習慣もなく、生活排水や排泄物の処理にも無頓着なため、たちこめる匂いにフィルは少し顔をしかめている。
街に必ず安価で利用できる公衆浴場があり、庶民に至るまで風呂好きの傾向がある帝国の人間からすれば、こういうところが魔族を野蛮だと見る一因になるのだろう。
サエイレムでも人間街には公衆浴場が複数あるが、わざわざそこまで行くような魔族はほとんどいない。だが、単に匂いの問題だけではなく、街の衛生状態が悪いと疫病が発生する危険もある。こういうところは何とか改善できないかとフィルは考えていた。
ちなみにリネアは森で暮らしていた時からすぐそばの湖で水浴びをしていたし、サエイレムに来てからもフィルのお世話を兼ねて一緒に入浴しているため、いつもふかふかいい匂いである。
「大丈夫ですか?」
リネアが心配そうにフィルの顔をのぞきこむ。
「え、えぇ。大丈夫。…だけど、少し人混みから離れたい…」
「私が住んでいたあたりまで行けば人も少なくなると思います。早く行きましょう」
フィルの手を引き、リネアは通りを進んでいく。やはり、自分の住んでいた場所がどうなったのか、気になるのだろう。
やがて、露店の列が途切れ、リネアは路地へと進んでいく。人の往来はぐっと減り、路地の奥からは風も流れてくる。おかげで匂いもだいぶマシになった。
リネアの足が徐々に速くなる。おそらく目的地は近い。フィルはリネアに引かれるまま黙って後に続いた。
「…!」
リネアが息を飲んだ。路地が終わり、広い空が見える場所。そこには、まだ戦争の名残が色濃く残っていた。東門から近いこの辺りは、街に侵入した魔王国の軍に取って格好の標的となった。街は焼き払われ、住民にも多くの犠牲が出た。リネアの両親もその中に含まれる。
火災の名残だろうか、煤けたように黒っぽい地面には粗末な木造の家々が並び、大通り沿いのようなきちんとした建物は数えるほど。しかし、家の周りには自給自足のための畑が作られ、ここに住む人たちが強く生き抜こうとしている様子がうかがえた。
決して楽な暮らしではないだろうが、生きることをあきらめない人々の姿は、フィルにとって嬉しいものだった。
フィルは何も言わず、辺りの様子を眺めているリネアの顔を見る。リネアの顔は少し悲しそうに、しかしどこかホッとしたように見えた。
「フィル様、私の家があった場所、行ってみてもいいですか?」
「大丈夫?…辛くない?」
そこは、おそらくリネアの両親が殺された場所だ。心配そうなフィルに、リネアは顔を上げて言う。
「はい。お父さんとお母さんに、今の私の姿を見せて安心させたいです。それに、フィル様のことも紹介させてください」
「わかった。…娘さんをわたしに下さい、必ず幸せにしますって、挨拶しなきゃね」
フィルの言葉にリネアはくすりと笑った。
リネアと連れ立って歩く。リネアの家があったのは、もう少し城壁に近い場所だそうだ。
時折住民とすれ違う。みんな狐人族だ。兵士姿のフィルを連れたリネアに不思議そうな視線を向けてくるが、あえて声をかけてくる者もいない。
10分ほど歩いた頃、リネアが足を止めた。
「…ここ、です」
そこには、何もなかった。ぽっかりと空き地が広がっている。まばらに草が生えた地面には、もはや営みの跡は伺えない。
敷地の中に踏み出そうとして、足が止まる。
あの日、逃げ出してから初めて戻ってきた。もう家がないことはわかっていた。でも、見慣れた風景の中に、当然のようにあるはずの自分の家が無い。それを実際に見た時、言いようのない寂しさがリネアの心を塗りつぶした。
森で暮らした3年間で、立ち直ったつもりだった。でもそうではなかった、森の中では生きるのに必死で、振り返る余裕がなかっただけだ。
リネアは、呆然と立ち尽くす。目の前の風景が、無理やり記憶を呼び覚まし、呼吸が荒くなり、半開きになった唇が震えている。
炎に包まれた家、地面に倒れて動かない両親の姿、大きな魔族の影に怯えて必死に逃げた自分。街を出て、たった一人で泣きながら歩いた。
リネアの脳裏にあの時の辛さ、悲しさが鮮明に蘇る。何もなくなってしまった家の跡を見て、両親との思い出まで跡形もなく消えてしまったように思えて、ポロポロと涙があふれる。
フィルは、震えるリネアの背中をそっと抱いた。
「…お父さん、お母さん…!」
「リネア、…泣いていいんだよ」
「…うぐ…うぅ…ぅ…」
フィルの腕の中で、リネアは声を殺して泣いた。
フィルは、リネアを抱く腕に力を込める。思い切り、気が済むまで泣いていい、わたしもそうしなければ前を向けなかったから…フィルは、心の中で語りかけた。
どれくらい、そうしていただろうか。
「フィル様…」
リネアは、涙に濡れた顔を上げる。
「もう少し、こうしてていいよ」
フィルはリネアの頭をそっと撫でた。
「はい。ありがとうございます…でも、もう大丈夫です。私にはフィル様がいてくださいますから」
リネアは、そっと身体を離すと、涙を拭って笑って見せた。
「じゃ、わたしもリネアのご両親に挨拶させてもらうわね」
フィルは、その場に跪いて、胸の前で手を組み、祈りの姿勢をとる。
「リネアのお父様、お母様、はじめまして。わたしは、フィル・ユリス・エルフォリアと申します。リネアはわたしを助け、わたしの家族になってくれました。わたしにはリネアが必要です。これからずっと側にいてほしいと思っています。…わたしは、必ずリネアを守り、幸せにするとお約束します」
リネアも同じように跪く。
「お父さん、お母さん、森の中に逃げて、独りぼっちで暮らしていた私に、フィル様は家族になって欲しい、側にいてほしいと言って下さいました。私は、これからフィル様と一緒に生きていきます。フィル様が苦しい時には私が支えになりたいと思っています。…私は、今、とても幸せです」
『だから、安心して見守っていてください』
声が重なった。フィルとリネアは手を繋いで立ち上がる。
「リネア、ここをこのまま残しておくこともできるけど?」
「私の居場所はフィル様の傍です。…だから、この場所はここで暮らす皆さんで役立ててもらえばいいと思います」
「わかった」
フィルは穏やかに微笑んで、提案する。
「ここに何か実のなる木を植えましょう…そうね、林檎の木がいいかな。いい匂いの花が咲いて、お腹が空いたらみんなが食べられるように。リネアの思い出の場所の目印になるように」
「素敵です。…ありがとうございます。フィル様」
リネアも嬉しそうに笑った。
「もしかして、リネアちゃんかい?」
声に振り返ると、数人の狐人族の女性が立っていた。声をかけた年配の女性が、驚いた表情で口元に手をかざしている。
「エルナおばさん、ですか?」
リネアも驚いて目を丸くした。
「そうだよ。リネアちゃん、生きていたんだね…よかった!」
エルナは、パタパタとリネアに駆け寄り、手を取る。
「お父さんが狩場に建てていた山小屋に逃げて、ずっとそこで暮らしていました。つい1週間ほど前にサエイレムに戻ってきたところです」
リネアは簡単に説明する。
「そうかい、そうかい。ご両親は残念だったけど、リネアちゃんが無事で良かったよ。…あの時に、死んでしまったとばっかり思っていたから」
「エルナおばさんも無事で良かったです。ここで暮らしているんですか?」
「他に行くところもないからね」
エルナは、リネアの隣に立つフィルに目を止める。
「リネアちゃん、こちらは?」
「こちらは、フィルさ…ん、軍の方です。私が元々住んでいた場所を見に行くと言ったので、護衛についてきてくれたんです」
リネアは、あらかじめ決めていた設定で説明する。
「はじめまして」
フィルは軽く頭を下げる。
「あんたも狐人族だろう?軍隊に?」
エルナは訝し気に言う。人間の国である帝国の軍隊は当然、人間だけで組織されていたから、疑問に思うのも当然だ。
「新しく帝国の総督様が来られたのは知っていますよね?」
「あぁ、なんでもまだ子供だとか、西門の衛兵がなかなか門を開けなかったから、怒って門を吹っ飛ばしたとか、噂には聞いてるけど…」
ひくっとフィルの頬がひきつった。怒ったわけじゃないんだけどな…でも、そう見えるか。フィルは内心ため息をつく。
「総督様は、人間も魔族も同じように暮らせるようにしたいと仰っています。だからフィルさんも兵士になれたし、私も今は総督府で働いているんです」
「総督府で?!」
リネアの言葉に、エルナだけでなくその場にいた獣人たち全員が驚きの声を上げる。
「新しい総督様は、エルフォリアの兵隊さんたちの主なんだろ?確かに、エルフォリアの兵隊さんたちには、色々助けてもらったし、あの人たちは魔族も毛嫌いしなかったけど、総督府や軍隊に魔族を入れるなんて、ちょっと信じられない」
「でも、言われてみれば、確かにあんた身ぎれいにしているし、いい服を着ているね」
「はい。総督様にもお目にかかりました。私と同い年の女の子なんですけど、とても賢くて、強くて、お優しい方なんですよ」
リネアの褒め殺しに、フィルは顔を伏せてもじもじしている。
「リネアちゃんと同い年ってことは、14、5歳ってことかい?そりゃまたお若い総督様だ…けど、そんな方に狼人の連中やラミアたちが従うかねぇ。今はまだ総督様の様子を伺ってるみたいだけど、あいつらがまた好き勝手するんじゃないかと心配だよ」
エルナが表情を曇らせると、他の狐人たちも心配そうに顔を見合わせる。
「わたしはサエイレムの出身ではないので、よく知らないのですが、狼人族やラミアは、前に何かやったんですか?」
フィルがエルナに尋ねた。
「あぁ、戦争の前もサエイレムの領主は人間だったんだけどね。こっち側、魔族の住む地区はほとんど放置だったんだよ。狼人やラミアの連中相手じゃ、衛兵隊も分が悪かったからね。領主もどうにもできなかったのかもしれないけど…だから、こっち側は狼人とラミアが牛耳り、私達はそれに従うしかなかったのさ」
「それに、魔王国の軍が攻め込んできた時に、裏切って前の領主を魔王国に突き出したのも、あいつらだって噂だよ」
「エルフォリアの兵隊さんたちが街を取り戻したから、あいつらも大人しくなったけどね」
「そういうことですか…なるほど」
フィルは頷く。
(フィル、狼人とラミアとの関係について訊いてもらえるか。対等に手を組んでいるのか、どちらかが上か、それとも反目しているか、それによって今後の対応が変わりそうじゃ)
フィルの頭の中で玉藻の声が響いた。
「狼人とラミアは、どちらが上なんですか?」
「そうだねぇ。うまくやっているのはラミアの方じゃないかい?狼人の連中は腕っぷしはあるが、頭の方はちょっとね…その点、頭もいいラミアにうまく丸め込まれていることが多い気がするね。狼人の連中は、それにも気が付いていないかもしれないけど」
(なるほどの…サエイレムが帝国領になったことは、魔族にとってはどうなんじゃろうな?)
「サエイレムは帝国領になりましたけど、人間の国がこの街を支配することは、皆さんは不安じゃないですか?」
フィルの質問に獣人たちは口々に答えた。
「そいつは新しい総督様次第さ。総督様がリネアちゃんの言う通り、人間も魔族も同じように扱ってくれるならありがたいね」
「不安と言えば、また魔王国と戦争になるのは勘弁してほしいよ」
「帝国領になったって庶民の生活にはあまり関係ないさ。それより、総督様はリネアちゃんと同い年なんだろ?ちゃんと街を治めてくれるのか、その方が不安だよ」
「そうだね。さっきエルナが言った通り、総督様が狼人やラミアの連中をちゃんと抑えてくれるといいんだけど」
「総督様が帝国の役人やラミアの言いなりになっちまわないかね」
「そんな若い総督様じゃ、本当はただのお飾りじゃないのかい?いくら総督様がご立派なことを考えていても、子供の夢物語じゃどうしようもないよ」
「こう言っちゃ悪いけど、リネアちゃんを総督府に雇ったのだって、総督様の取り巻きがご機嫌を取りのためにしたのかもしれないしね」
帝国のことよりフィルのことを不安視する意見が多くなり、リネアは居心地悪そうにフィルを見つめる。
(くくっ、フィル、ずいぶんと不安に思われているようじゃのう。だが、最初はそんなものじゃ。まだ子供と言って良い歳なのも事実じゃしな)
玉藻の含み笑いが聞こえるが、彼女たちの言うことも当然だ。これからの行動で信用を得ていくしかない。
「あんたやリネアちゃんを雇ってくれた総督様を悪く言いたかないけど、やっぱり不安なんだよ。戦争が終わってまだ半年もたっていないんだから」
「わかります。戦争から立ち直ろうって時に、頼りない総督様だったら、困りますからね」
フィルは腕組みしながら、うんうんと頷く。
「あ、あの…きっと大丈夫だと思います!総督様は頼りなくないですから!」
頬を赤くして言ったリネアに、フィルは少し照れたように口元を綻ばせた。
「リネアちゃん、家はもう無くなってしまったけど、ちゃんと暮らしていけそうかい?」
「はい。総督府にお部屋を頂いているので、大丈夫です。人間の皆さんも親切です。第二軍団のエリン様も良くお話しして下さいます」
リネアはにこりと笑って答える。
「そうかい。いい暮らしで少し羨ましいくらいだ。それならご両親も安心だろうさ。総督府の仕事じゃ毎日忙しいかもしれないけど、たまにはこっちにも遊びに来ておくれ。…じゃ、またね」
エルナたちは笑って手を振ると、道の先へと歩いて行った。
「エルナおばさんは近所に住んでて、私が小さい時から可愛がってくれたんです。…無事で良かった…」
リネアは、エルナたちを見送りながら言う。
「あの人たちの期待に応えないとね…色々話が聞けて良かったわ」
「申し訳ありません。…フィル様は、魔族のこともちゃんと考えていらっしゃるのに」
「ううん、いいの。不安に思われるのは当たり前。早く『頼りない総督様』から卒業しなくちゃね」
フィルは、リネアの手を引く。
「せっかくここまで来たんだから、もう少し見て回ろうよ」
「あぁっ!フィル様、待って下さい~」
駆け出したフィルにひきずられ、リネアが悲鳴を上げる。しかし、その手はしっかりとフィルの手を握り返していた。
次回予定「ラミア族の姫」