アセトの望み 1
深い大河の底、そこに巨体を横たえたアペプの姿があった。
もう少しでバステトたちを倒せるというところで、予想外に早く戻って来たティフォンと九尾によって、邪魔をされた。
さすがに、セトとティフォン、それに九尾まで一度に相手をするのは分が悪い。そう判断してアセトは撤退を選んだが、アペプはどうもそれが不満だったらしい。
今は大人しくしているものの、先ほどまで宥めるのに一苦労だった。
アセトは少し顔をしかめて先の戦いのことを思い返していた。
ティフォンの気配は、確かに遠く南へと向かったはずだった。だからこそ、その機を逃さずバステトたちを襲ったのだ。ティフォンが何をしに南に向かったのかはわからないが、わずか1日で戻ってくるとは思わなかった。
しかも、直前までティフォンの気配を感じなかった…アセトはやや首を傾げる。
ティフォンの気配が近づけば、同じ竜族であるアペプが気付いたはずだ。それに気付かなかったということは、ティフォンが竜の姿をとっていなかったということ…。
(わたくしたちに気付いていた…?)
だから、自分の気配を悟られないように竜の姿を解いた状態で駆け付けてきたのだ。
ならば、リネアはどうしてアペプよりも先にアペプの気配に気づいたのか。リネアは元々竜族ではない。ティフォンの姿を解いていたら、竜としての感覚も落ち、アペプの気配も感じにくくなるはず。
(フィル様とリネアさんが向かったのは、メネス王国の南……まさか…?)
王国の南、シエネの近郊にあるイシスの神殿跡には、かつて封印した片割れの魂が眠っている。もしかすると、フィルたちはイシスと会ったのか。
どうしてフィルたちが急にヒクソス領を離れて南へ向かったのか、アセトは疑問に思っていたのだが、イシスを探すためだったとしたら説明はつく…。
フィル達がどうしてイシスの存在を知ったのかはわからないが、イシスがフィルたちと会い、フィルたちに味方しているとしたら、少々面倒だとアセトは顔をしかめた。
魂だけの存在となっているイシスの気配は感じにくいが、実体を持つ自分はイシスの側から容易に気配を悟られる。だから、ティフォンの奇襲を許してしまったのだ。
元々、フィルたちがこの大陸にやって来たこと自体が、アセトの計画には無かったことなのだが、特にリネアがティフォンの力を受け継いでいたのは大きな誤算だった。
アペプの力ならばセトには勝てる。バステトやオシリスはもう力を失っていて敵ではない。だから、アセトはアペプを復活させ、この大陸の神と人間たちへの復讐を成し遂げようとした。
しかし、ティフォンがいるとなると、その目論見は大きく狂う。ティフォン自身、かつてアペプが敗れた竜王と同等の力はないとしても、セトに味方されたら2頭の竜相手に戦うことになる。
戦力ではティフォンに及ばないとは言え、フィルが持つ九尾という神獣の力も侮れない。だからこそ、フィルの身体と力を奪おうとしたのだが、まさかフィルの中にすでに別の魂がいようとは…。
「母上…」
不意にアペプが話しかけて来た。
「何かしら、アペプ」
「母上は、この大陸の人間を皆殺しにしたいの?」
「…そ、そうね…その通りよ」
やや言葉に詰まりながら、アセトは肯定する。人間たちは、イシスがもちらした知恵と魔術によって恩恵を受けたにも関わらず、ラーやホルスを信じてイシスに手のひらを返した。あの時の悔しさは忘れてはいない。
だが、アペプの復活を画策して数百年の時が過ぎる間に、人間たちは代を重ね、神々すら世界に溶けて消えていった。
残っているのは、テトやオシリスたち、アセトの企みで閉じ込められていた神だけだ。しかも、テトたちはアペプを封じた相手ではあるが、アセトに対しては特に何もしていない。
アセト自身、テトたちを特別に恨んでいるかと言われれば、微妙だ。アペプ復活の企みに利用はしたものの、それはアペプの封印を守っていたのが彼女たちだったから。憎きラーの眷族を騙し討ちにするのに躊躇いはなかったが、それだけだ。
テトたちを狙うのは、アペプの恨みを晴らすためという側面の方が強い。
テトたちに…フィルたちに勝ったとして、この大陸の人間たちを蹂躙して…その先に、何をしたいのか。
フィルたちの話が本当ならば、北の大陸に舞い戻ったところで、メーデイアを陥れた神々はもういない。自分を追い出した故郷コルキスも、自分を魔女と呼んで迫害したコリントスもアテナイも、すでに滅び去った。
次回予定「アセトの望み 2」




