森の迷い子
…どれくらいたっただろうか。
ピクリとリネアの耳が反応した。ごく小さくだが、森の草を踏む音がする。
目を覚ましたリネアは注意深く、意識を音に向ける。フィルはまだ、リネアの膝の上で気持ちよさそうに眠っていた。
音は近づいているのか、遠ざかるのか…少しづつだが近づいていると気付き、リネアはそっとフィルに囁いた。
「フィル様」
「…ん、リネア?」
「何かが近づいてきます」
そっと、フィルは身を起こす。リネアが音が近づいてくる方向を指さした。
「リネア、わたしから離れないでね」
音を立てないようにゆっくりと立ち上がり、フィルはリネアを背に庇う。
カサ、とフィルの耳にも下草を踏む音が聞こえ、少し先の木の影に、何か動くものが見えた。
「誰っ?!」
「ひっ!」
フィルの声の直後に小さな悲鳴がして、誰かが木の影に座り込んだ。
フィルはリネアと頷き合うと、ゆっくりと近づく。
「子供…?」
木の影に座り込んでいたのは、まだ5歳くらいの女の子だった。背中の中程まで伸びた灰色の髪に緑色の瞳、小さく震えながら両手で頭を抱え、上目遣いにフィルたちを見上げている。
服装は灰色の袖なしシャツに、薄紫色のスカート。元々は質の良い服だったように見えるが、汚れたり擦り切れたりして、かなり痛んでいた。
スカートには腰から裾に向かって細長い鳥の羽を模した刺繍がぐるりと施されており、そこに目玉のような模様がたくさん付いている。それは、帝都の庭園で飼われていた『孔雀』という鳥の羽によく似ていた。
「大丈夫?…驚かせてごめんね」
声をかけたフィルに反応し、ただの模様だと思っていたスカートの上の目玉が、ギロリと一斉にフィルに視線を向けた。何十という視線に見つめられ、流石にフィルも息を呑む。
思わず身構えたフィルを、女の子はただ不安げな表情で見つめている。魔族なのは間違いないと思うが、初めて見る種族だった。とりあえず危険はなさそうだと判断し、フィルは緊張を解いた。
「あの…」
女の子は、小さな声を上げる。フィルは、怯えさせないようゆっくりと女の子の前にしゃがんだ。
「わたしはフィル」
自分を指さし、続いて女の子に手を差し出す。
「あなたは?」
「…メリシャ」
「メリシャ、立てる?」
こくりと頷いて、メリシャはフィルの手を取り、立ち上がった。体中薄汚れているが、特に怪我などはしていないようだ。
「私はリネアです。メリシャ、よろしくお願いしますね」
優しく微笑んで、リネアも自己紹介した。
「フィル…、リネア…ほんとに?」
少し首をかしげてメリシャはフィルとリネアを交互に見上げた。
「えぇ、そうよ。メリシャは、一人なの?お父さんかお母さんは一緒じゃないの?」
「よかった…やっと会えた…」
嬉しそうに笑ったメリシャはフィルの手を握り、引っ張る。
「来て」
フィルとリネアは頷き合い、とりあえずメリシャに従った。メリシャは迷うことなく森の中を奥へと進んでいく。方角からすると、国境の方に向かっている。するとやはり魔族の側から国境を越えてこちらに来たのか。
30分ほど歩いたところでメリシャは立ち止まり、少し先にある崖を指さす。
「お母さん、あそこから…落ちた」
「えっ?!」
フィルは慌てて崖に駆け寄る。下を見るが、高い崖の下は森で覆われており、見通しはきかない。
「『お母さんは行くけど、あなたは来てはダメ。必ず助けてくれる人が来るから』って」
それは落ちたというより、自殺だ。こんな子を残して、一体、どうして…
「リネア、メリシャをお願い。ここで待ってて!」
「はい。フィル様、お気をつけて」
フィルは、躊躇いなく崖から飛び降りた。
「フィル!」
背後でメリシャが悲鳴のような声を上げるのが聞こえた。母と同じようにいなくなると思ったのだろうか。ちゃんと言い聞かせておくべきだったと、フィルは反省する。後で謝らなくては。
九尾の姿で風を蹴る時のように、何度か風を踏んで速度を落としながら身軽に崖下に着地する。
鬱蒼とした森の中を見回し、フィルは顔を強張らせた。薄く漂う異臭に気が付いたからだ。恐る恐る、辺りの藪をかき分け、メリシャの母の姿を探す。
「…っ!」
想像はしていたが、フィルは思わず口元を押さえた。崖から少し離れた地面に、もはや男女の区別もつかないほどひどく痛んだ遺体があった。メリシャと似た衣装はボロボロで、マダラオオカミあたりに漁られたのか、ところどころ肉がはげ落ち、骨が覗いている。身体の表面をメリシャと同じような目玉の模様が入れ墨のように覆っているが、その目は虚ろで黒く染まっていた。
「これが、メリシャのお母さん…可哀想に」
境遇を悲観しての自殺だったのだろうか。だとすればメリシャに生きろなんて言わない。一緒に死のうとするはずだ。
助けが来るという確信の根拠はわからないが、彼女がそう信じていたのだとしたら、メリシャを遠ざけるために身を投げたのだと思う。
病気か衰弱か、自分が助けが来るまでもたないことを悟っての自害。もしもメリシャの前で死んでしまったら、きっとメリシャは遺体の側を離れない。遺体はすぐに腐る。近くにいれば病気になる可能性もあるし、死肉を漁る獣だって集まってくる。メリシャの身が危険にさらされる。だから…。その気持ちを思うとやるせない。
遺体の状態からして、ここ何日かで死んだというわけではない。少なくとも一月以上はたっている。その間、メリシャはたった一人で森の中を彷徨っていたのか。
「可哀想に……メリシャはわたしたちが引き受けます。安心してお休み下さい」
フィルは遺体の脇に跪いて胸の前に手を組み、祈りを捧げる。そして、手のひらの上に青白い狐火を灯すと、そっと遺体の上に放った。ポッと遺体全体を炎が包み、炎の中で遺体がゆっくりと崩れていく。
遺体が跡形もなく燃え尽きるのを見届け、フィルは、崖の上で待つリネアとメリシャの所に戻った。
「ただいま」
崖の向こうから身軽に姿を現したフィルに、リネアに抱き着いていたメリシャが驚いて振り返る。
「ごめんなさい。メリシャ、驚かせてしまったわね。でも、わたしはいなくなったりしないよ」
「フィル、良かった」
メリシャはリネアから離れてフィルの腰にひしと抱き着いた。その健気な様子にフィルはメリシャの髪をそっと撫でる。
「フィル様、メリシャのお母さんは…?」
心配そうな表情で訊くリネアに、フィルは小さく首を振った。
「崖下に遺体があった。ここ数日で亡くなった様子ではなかったわ…狐火で火葬してきた」
「そうですか…メリシャも独りぼっちなんですね」
悲しそうな目でメリシャを見るリネアに、フィルの心も決まる。
「メリシャ、わたし達と一緒に行こう…そう、まずは体を洗って、それから食事にしましょう」
食事と聞いたメリシャの表情が、ぱあっと明るくなる。森の中でどうやって生きてきたのかわからないが、満足に食べていないのは間違いないだろう。
フィルとリネアが両側で手を繋いで、リネアの小屋へと向かう。途中でメリシャが辛そうにしていたので、フィルがおんぶしたら、そのまま背中で眠ってしまった。
メリシャが眠っている間も、彼女のスカートに浮かんだ目は、周りを油断なく伺っている。この目のおかげで、森の中でも獣たちに襲われることなく、生き延びられたのかもしれない。
「なんじゃ、その娘は?」
小屋に戻ると、テーブルに向かって書物を読んでいた玉藻が、フィルの背中で寝ているメリシャの姿を見て目を細めた。
「森の中で助けたの。こんな小さな子を放っておけないでしょ」
「それはそうじゃろうが…一人か?」
「母親は、もう亡くなっていたわ…」
「何か事情があるようだが…まあ、悪意は感じぬな」
玉藻は探るようにメリシャを見つめていたが、すぐに書物へと視線を戻した。
「フィル、その娘、何か言いたいことがあるようじゃぞ」
「え?」
フィルが背中のメリシャを振り返ると、メリシャは目を覚まして、ぎゅっとフィルの服を握りしめていた。
「あの、このお家、フィルのお家なの?」
「ここはリネアのお家なんだよ。どうかした?」
「ごめんなさい。誰もいないと思って、中にあった食べ物を食べちゃった」
怒られると思ったのか、メリシャは、フィルの背に顔を押し付けながら言った。
「そういえば、床下の収納庫に、干した野草や燻製にした肉や魚が少し残っていたはず…」
リネアは、思い出したようにつぶやく。フィルと出発する時に小屋の窓や入口の扉には戸締りをしたが、ウッドデッキの床下にある収納庫のことは忘れていた。
「その中で寝たりもしてた…ごめんなさい」
「謝らなくてもいいんですよ。それでメリシャが助かったのなら、良かったです」
リネアは少し目を潤ませて、メリシャに微笑んだ。
フィルは、リネアから着替えとタオルを受け取ると、食事の用意を頼み、メリシャの手を引いて湖へと連れて行く。
「さあ、まずは身体をきれいにしようね。服、自分で脱げる?」
「うん」
メリシャは、もそもそとシャツを脱ぎ、スカートを降ろす。すると、スカートの表面を覆っていた目が消え、メリシャの肌の上に現れた。
なるほど、この目は常に身体の一番外側に現れるらしい。素肌を見せているときは素肌に、服着たときには服の表面に、という具合だ。生物的な目ではなく、何か能力のようなものなのだろうか。
フィルは、スカートの裾と袖をまくり上げ、メリシャの手を引いて湖の中へと入る。水の中に足を浸けたメリシャは、ぶるっと小さく震えた。
「冷たかった?」
「ううん、大丈夫」
メリシャは、フィルを見上げてにこりと笑う。
「洗ってあげるから、じっとしててね」
フィルは、タオルを水に濡らして石鹸を泡立て、メリシャの身体を洗っていく。素肌のあちこちに浮かんだ目の上を擦っても、メリシャは痛がる素振りを見せない。
土埃と皮脂でボサボサになっていた髪も石鹸の泡をぬり付けて梳かすように馴染ませ、桶ですくった湖の水をかけて濯ぐ。くすんで暗灰色になっていたメリシャの髪は、いぶし銀ともいうべき艶のある明るい灰色になった。
きれいになったところで乾いたタオルを被せて水滴を拭い、着替えのワンピースを着せた。メリシャには少し大きかったが、腰帯で締めて調節する。メリシャが身に着けた瞬間、ワンピースの上に、まるで水玉模様のように目玉が浮かんだ。
「ただいま」
小屋に入った瞬間、くぅっと可愛らしい音がした。メリシャが恥ずかしそうにお腹を押さえて俯く。漂ってくる良い匂いに身体が反応したらしい。
「お腹空いてるよね。リネア、どう?」
「はい、できてますよ」
リネアがテーブルの上に置いた深めのボウルの中身は、ミルクで煮込んだ麦粥だった。ケンタウロス族のチーズも使っているらしく、食欲をそそる匂いが立ち上っている。いきなりたくさん食べるのは良くないので、量は控えめにしてある。
「メリシャ、熱いから気を付けてください」
リネアは、椅子に座ったメリシャに木のスプーンを渡す。食べていいの?というように、メリシャはフィルとリネアの顔を見る。
「どうぞ、召し上がれ」
リネアが微笑むと、メリシャはそっとスプーンで麦粥にを掬い、ふうふうと吹いてから口に運ぶ。
「…おいしい」
メリシャは次の一口を勢いよく口に運び、熱さに驚く。ハフハフと息を吐くメリシャに、慌ててリネアが水の入ったコップを差し出した。
「よかった…」
一心に麦粥を頬張るメリシャの様子を眺め、フィルは口元を綻ばせた。
次回予定「アルゴスの娘」




