リネアの事情
フィルがサエイレム総督になることが決まったのは、ほんの1ヶ月前のこと。父である帝国の将軍、アルヴィン・バレリアス・エルフォリアが急死したためだった。
魔王国との戦争で、自ら率いる軍団とともに長年にわたり前線を支えたアルヴィンに対する恩賞として与えられたのが、サエイレム総督の地位である。
恩賞とは言え、戦争中からサエイレム周辺に展開しているエルフォリア軍をそのまま現地駐屯軍とし、魔王国に対する盾として使いたいというのが帝国の本音だった。
しかし、アルヴィンは、戦場で受けた傷が原因となって、皇帝から正式に総督に任命される勅任式を数日後に控えて急死。
問題は、その時点でアルヴィンの血縁が、一人娘のフィルしかいなかったことだ。養子もおらず、帝国の法の定めに従えば、エルフォリア家を相続できるのはフィルのみ。成人した男子ならばすぐさま家督を継がせて、総督就任も引き継がれるところだが、フィルはまだ成人前の14歳の娘。そんな若い、しかも女性の属州総督など前例がない。
さりとて、現地を掌握しているエルフォリア軍は帝国の国軍ではなくエルフォリア家の私設軍である。指揮権はエルフォリア家の相続者にあり、他の総督を送り込んでもその指揮下には入らない。些細なきっかけで魔王国と再戦が始まってもおかしくない最前線から戦力を引き上げることもできない。
フィルの総督就任に反対する者は多く、表に裏に幾度となく嫌がらせや妨害を受けたものの、最終的には帝国皇帝の裁可によって、フィルがエルフォリア家の家督を継ぎ、サエイレム総督になることに決まった。
そんな事情から、目立つ勅任式も省略され、皇帝から送られた信任状を受け取ったフィルは、本国から逃げるように任地に向かうことになった。
エルフォリア家が擁する大部分の兵力は、領内の治安維持と国境の警備のため、戦争終結からそのままサエイレム周辺に駐屯している。
新たに領地となったサエイレム属州に向けて、旧領であるリンドニア属州に住んでいた将兵たちの家族や、移住を希望する市民たちに護衛の部隊を付けて送り出すと、数日遅れてフィルも出発した。
帝国領内の移動で、せいぜい脅威は盗賊程度。フィルを守る護衛兵は10人ほどだったが、それで十分なはずだった。しかし、あと3日もすればサエイレムに到着という地点で、夜営中に突然の急襲を受けた。
相手はおそらく20人以上、しかも最初に矢による狙撃を行い、見張りに当たっていた兵を倒しておく周到さ。おかげで敵の発見が遅れ、あっという間に乱戦になった。
数で劣る上に、夜間に奇襲を受けての防戦、しかも相手は盗賊らしからぬ組織だった動きを見せた。フィル自身も剣を抜いて戦ったが重傷を負い、護衛兵の一人がフィルを馬に乗せて森の中へと逃がしたのだ。
「馬からも振り落とされて…、とうとう動けなくなって、死ぬのを待っていた時に、リネアが来てくれた」
「フィル様…」
リネアは泣きそうな顔でフィルを見つめている。
「そんな顔しないで。こうして助かったんだから。…そういえば、九尾はわたしを食べたと言っていたんだけど、耳と尻尾も生えてるし、これはわたしの元の身体じゃないのかな…?」
ふと九尾の言葉を思い出し、…耳と尻尾はともかく…元の自分と違うところがないか見回していると、ふっと違和感を感じた。
「あっ…!」
リネアが驚きの声を上げる。
「どうかした?」
「フィル様の、耳と尻尾が…」
「え?」
頭を触る。ぴょこんと突き出していた獣耳がなくなっていた。お尻から生えていた尻尾もない。
「どうして…?」
人間の姿に戻ったのはありがたいが、どうしてなのか…疑問に思った瞬間『思い出した』。
この身体は、フィルと九尾が同化したもの。人間の姿と九尾の狐の姿、どちらにもなれる。ただ、九尾の力の方が圧倒的に強いため、慣れないうちは狐の姿が『漏れてしまう』ことがある。それが耳と尻尾だった。
元の人間の姿を意識すれば戻り、すぐに自分の意思で姿を変えられるようになる…脳裏に浮かんだ答えに、フィルは大きなため息をついた。
「わたしは、なるべく急いでサエイレムに行かなくちゃいけないんだけど…」
フィルは、一番気になっていたことをリネアに尋ねた。
「リネア、あなたはどうしてこんな森の奥に一人で住んでいるの?」
「私は、戦争でお父さんとお母さんを亡くしました」
リネアは、俯いて答える。
「ここは、猟師だったお父さんが仲間と建てた山小屋です。狩り場がサエイレムから遠いので、狩りの季節はここに寝泊まりしながら狩りをしていました。私もここに泊まってお父さんたちを手伝ったことがあって……サエイレムにあった家も焼かれて、一人になってしまった私が逃げられる場所は、ここしかありませんでした」
フィルの手元で、カップが大きな音をたてた。
「ごめんなさい!わたしたちのせいで!」
フィルは、椅子から立ち上がり、リネアの前で床に膝をついた。
「フィ、フィル様、やめてください。フィル様たちのせいではありません」
「わたしの父は帝国の将軍。父の軍は、サエイレムを戦場として戦っていたの。だから、もしかしたら…!」
「それでも、フィル様たちのせいではないんです。私のお父さんとお母さんを殺したのは、魔王国の軍勢なんです!」
リネアは叫ぶように言った。フィルは、驚いて反射的に顔を上げる。
「どうして?!…魔王国は魔族たちの国のはずじゃ…」
「魔族と言ってもみな同じ種族ではありません。そして、彼らにとって同胞というのは同じ種族だけ。種族が違えば人間も魔族も関係ないんです」
リネアは床についたフィルの手を取り、悔しそうに訴えた。
「魔王国の兵士は、サエイレムに住む魔族も人間も見境なく殺しました」
「なんてことを…!」
「逆に、帝国の軍の中には、私たちの住む地区を守ろうとしてくれた人たちもいたんですよ。きっと、それがフィル様のお父様だったんですね」
「リネア…」
フィルはリネアの手を引き、ゆっくりと立ち上がる。
「もう戦争は終わったわ」
「はい、知っています。森の街道を通る行商人さんたちから聞きました。サエイレムが帝国の街になったことも」
「ここで一人で暮らすのは、辛くない?」
優しいフィルの問いかけに、リネアはピクリと体を震わせた。
「辛い、わけではないです。ここは水にも困りませんし、一人で食べていくくらいの食べ物も手に入ります。…でも」
「でも…?」
リネアは顔を上げた。その琥珀色の瞳に涙がたまる。これまでずっと一人だった。生きるのに精いっぱいで、だから気にならなかった。でも、誰かが側にいてくれる温もりを思い出してしまった。
しばらくの間、躊躇うように口をつぐんでいたが、やがてリネアは震える声で訴えた。
「…寂しいです。一人なのは、とても寂しいです!…お父さんもお母さんももういなくて、フィル様もここを出て行って、また独りぼっちに戻るのかと思うと、私は…」
フィルは、黙ってリネアを抱きしめた。そして、しばらくの沈黙の後、静かに言った。
「リネア、わたしと一緒にサエイレムに行こう。あなたをわたしの側付侍女にします」
「フィル様!…私は魔族です。総督様の側付なんて、とても…!」
リネアは慌てて身体を離そうとするが、フィルは離さない。
「リネアだって、人間のわたしを助けてくれた。魔族も人間も関係ないよ」
「どうしてフィル様は、今日会ったばかりの私を気にして下さるのですか?」
フィルは、にこりと笑った。
「リネアはわたしの命の恩人だから…いえ、本当はリネアのことが好きになったから、これからも側にいてほしいから。…わたしもね、もう家族がいないの…リネア、一緒にサエイレムに来て、…その、わたしがリネアの新しい家族になっちゃ、ダメかな?」
リネアはそっとフィルの腕を解くと、服の袖で涙を拭い、フィルの目を見つめた。その顔は、もう泣いてはいなかった。
寂しく一人で暮らすのはもう嫌だ。フィルは魔族の自分を毛嫌いせず、自分を助けてくれた。そんなフィルの側にいたい、差し出された手を放したくない、そう思った。
「フィル様…一緒に行きます。私もフィル様の側にいたいです」
「ありがとう、リネア。…これから、よろしくね」
「はい、フィル様」
いつも静寂に包まれていた山小屋に、明るい笑い声が響いていた。
翌朝、リネアは、わずかな手荷物を愛用の背嚢に詰めた。
これからフィルととともにサエイレムに向かう。もう二度とここに戻れないわけではないが、しばらくのお別れである。
ここに逃げて来て3年、リネアはたった一人で暮らしてきた。
森の中で大怪我をしたフィルの姿を見つけた時、正直、人間に近づくのは怖かった。でも、苦しんでいたのは自分と同じくらいの歳の女の子で、放ってはおけなかった。もしも彼女の命が助かったら、仲良くなれるかもしれない、そんなことも考えた。だからリネアはフィルの前に姿を現した。
これから私は、フィル様と一緒にいていいんだ、リネアは口元をほころばせた。
「フィル様、お待たせしました」
小屋を戸締りをして背嚢を背負い、小屋を出る。外でフィルが待っていた。
「忘れ物はない?」
「はい。大丈夫です」
「じゃ、行こうか」
そして、フィルは一瞬にして金色の光に包まれ、九尾の狐へと姿を変えた。細身の体は4mほど、そして、その体と同じほどの長い尻尾が9本、揺れている。
「きれい…」
思わずリネアが感嘆の声を上げる。しなやかな全身を染み一つない金色の毛並みで覆われ、尻尾の先と足先は白、耳の先端は黒。フィルの面影を残す紅い瞳が、リネアを見つめている。
「サエイレムまで走るから、リネア、背中に乗って道案内をお願いできる?」
フィルは、リネアが乗りやすいように身を伏せる。
「いいんでしょうか…フィル様の背中に乗るなんて」
「いいのいいの。この方が速いんだから、毛を握って、落ちないようにしっかり掴まっててね」
「では、失礼します」
リネアがしっかり背中に跨ると、フィルは4本の脚で立ち上がる。
「行くよ!」
「はいっ!」
地面を蹴る。そして、馬よりも速く走り出した。一旦走り出すと足は地面に付いていない。フィルは、風を蹴って湖の上を走り、森を抜け、荒野を走った。
そして、歩きで3日かかる距離をわずか2時間ほどで走り抜け、サエイレムに到着したのだった。
次回予定「フィルの方針」




