ヒクソス 1
ヒクソスの王にと請われたフィルたち。
その大地は多くが不毛の砂漠に覆われていた。だが、その中に南から北へと流れる1本の大河がある。
土地の言葉で「大きな川」を意味する「イテル」という名の大河は、悠久の時をかけて大地を削り、両岸に緩やかな河谷を作り上げた。そこに人が住むようになったのは、いつの頃からなのか、正確にはわからない。
だが、文明が起こり、人が農耕という手段で生きる糧を得るようになると、大河イテルの河岸は恵みの大地となっていく。
大河イテルは雨季になると毎年洪水を起こす。だがそれは農地や家を押し流す災害ではなく、ゆっくりと増水して水位が上がり、乾季に向けてまたゆっくりと水がひいていくというもの。
洪水の間、農地は冠水してしまうが、水がひいた後には上流から流れてきた肥沃な土が残り、作物の栽培によって土が痩せることを心配する必要がなかった。
その肥沃な大地は、"黒い土地"を意味する『ケテル』という名で呼ばれ、そこで暮らす人々に豊かな実りを約束していた。
そこに成立したのがメネス王国である。その王は、現世の神を意味する『ファラオ』という称号で呼ばれ、その権威の下で、王国は彼らの知る世界の範囲において最も強大な国家となっていた。
豊かな国力を背景に高度な文明を築いた王国は、その軍事力で周辺の土地や種族を征服し、または屈服させて、大河イテルに沿った南北に領土を広げていた。
そして、大河イテルの最も下流、川が北の海へと注ぐ場所は、横断するのに人の足で数日かかるほどの大きな三角州となっていた。
大河は三角州に入ると東西二つに分かれ、そしてそこからさらに箒の先のように枝分かれし、最終的には10本以上の流れとなって海へと注いでいた。
この三角州の部分は、長年にわたって上流から流れて来た砂が堆積した土地であり、砂に含まれている鉄分の赤みが目立つため、"赤い土地"を意味する『デシュレト』と呼ばれている。
上流のケテルと比較すると高低差が少ないため、洪水が引くのに時間がかかり、農耕できる時期が短いという問題はあったが、上流と比べると自然の雨も多く、ケテルでは作られない作物、葉野菜や果実なども数多く栽培することができた。
また、下流にはすぐ海があることから、海岸には塩田が作られ、貴重な塩の生産も行われていた。
ヒクソスの民はデシュレトで暮らす種族だった。
中心となる都の名はアヴァリス。人口は約5千。ヒクソスの人口の約半数がこの都市に暮らしているという。
フィルたちの召喚の儀式が行われたのは、そのアヴァリスの中心部にあるセト神殿であった。
ヒクソスは、20年ほど前に、上流から侵略してきたメネス王国に敗れ、メネス王国に対して毎年莫大な量の上納を強いられることとなった。このため、ヒクソスの民は、苦しい生活を強いられる状況に陥っていたのである。
この世界とヒクソスの状況について、ざっと話を聞いた3人は、神殿からすぐ近くにある王城へと案内された。
アヴァリス市街の建物は主に日干し煉瓦で造られていた。石造りの建物は、王城や神殿の主要な建物のみで数えるほどしかない。文明自体が異なるとわかっていても、見慣れたサエイレムの街と比べ…正直、みすぼらしく見える。
時刻はちょうど夜明けを迎えた頃。明るい朝日が照らす中、王城へと続く大通りでは街の人々が動き始めていた。
「フィル、ここにはどんな食べ物があるんだろうね」
そっとメリシャが囁いた。視線の先では、穀物が入っていると思われる袋をたくさん積んだ荷車が、立派な角のある牛のような動物に引かれている。
誰に似たのか、食べ物のことがまず第一とは…フィルは苦笑する。
(そりゃフィルに似たに決まってるじゃない?)
フィルの中でくすくすと笑う声がした。かつて九尾の意識だった者の一人、妲己。古代中国、殷王朝最後の王妃である。紂王を誑かし、国を破滅に追い込んだ悪女と語られる彼女だったが、その実は、武芸に秀でたまっすぐな女性であり、フィルも何度も助けられた。ずっと昔に九尾の意識を次代に譲った後も、こうして自我を保っている強い女性でもある。
(民の生活を計るには、まずは食べ物が大事だからね。それでいいの)
フィルは澄ました表情で言い返す。
(だけど、あれだけの穀物が運ばれてる割には、街の中に行き渡っていないように見えるわね)
妲己の声が少し低くなった。確かに、沿道にある商店らしき店先には、ほとんど商品が置かれていなかった。フィルたち一行を見つめる民たちの表情も、精彩に欠けているような気がした。
(サリティスからもっと詳しい事情を聞かないといけないわね。上流の国に搾取され、疲弊しているとは言ってたけど…)
(メネス王国だったかしら、どうもその国に属国扱いされているみたいね。…妾の国もそういうことはしていたけど、属国の側になってみると、罪作りだったと反省するわ)
ふっと妲己がため息をついた。
次回予定「ヒクソス 2」
王城に案内されたフィルたちは、シェシからも事情を聞きます。