ヴィスヴェアスの胎動
ヴィスヴェアス山が噴火する。フィルたちはユーリアスにそのことを知らせます。
翌朝、フィルは密かにユーリアスを部屋に招いていた。
昨日調べたヴィスヴェアス山の状況や、離宮や街で起こっている幽霊騒ぎなどについて、自分の考えを説明したいと玉藻が言ったからだ。
「フィー、こっそり来てほしいなんて、どうかしたのかい?」
フィルは、ユーリアスにソファーを勧め、自らも向かい側に座った。
「兄様、お呼びだてして申し訳ありません。話の前に、まず紹介したい者がおります」
フィルはリネアに目配せする。リネアが軽く頷くと、その後ろからするりと玉藻が姿を現した。
驚くユーリアスに対し、玉藻は優雅な所作で一礼する。
「陛下、麿の名は玉藻前。この世界とは違う世にある、日本という国の元皇后じゃ。今はこうして、リネアの中に宿り、魂のみ永らえておる」
落ち着いた玉藻の口調に、初めて見た幽霊の姿に驚いていたユーリアスも、気を取り直して玉藻に声かける。
「帝国皇帝、ユーリアス・アエリウス・アルスティウスだ。お初にお目にかかる、異国の皇妃殿」
「今はその身分を失って久しい身、どうぞ、玉藻とお呼びくだされ」
「承知した。玉藻殿、僕のこともユーリアスで構わない」
「痛み入る。ユーリアス様」
自己紹介が終わった所で、フィルが切り出した。
「兄様、朝から来て頂いたのは、玉藻の話を聞いて頂きたかったからです。離宮や街の幽霊騒ぎに関係する話ですが、このアルテルメ自体に危機が迫っているかもしません」
アルテルメ自体の危機という言葉に、ユーリアスは軽く眉を寄せる。
「それは、他の者にはまだ聞かせたくない話、ということか」
「はい」
本来であれば、身分が上のユーリアスの所にフィルが出向いて話すのが筋だ。だが、ユーリアスの部屋には当然護衛や側近達が詰めている。魔族であるリネアやパエラを連れている状況で、ユーリアス側の人間だけを人払いすれば、あらぬ誤解を招く。
「わかった。聞かせてくれ」
ユーリアスの言葉に、玉藻が口を開いた。
「ユーリアス様、まず申し上げたい。離宮や街で起こっている幽霊騒ぎ、食器や棚の上の物が床に落ちたり、ワインの壺が倒れたり、落石が起こったり、これらは全て、人の仕業でも麿のような幽霊の仕業でもない。…人が感じられぬほどの細かい地揺れのせいじゃ」
「地揺れ…?」
「左様、人が感じぬほど小さく、小刻みな地揺れじゃ。だが、食器を載せる棚がほんの少しでも傾斜していたり、ワインの壺が傾いていたり、岩を支える地盤が緩んでいたりすれば、小さな振動で徐々に位置がずれていき、やがては落ちたり、倒れたりする…」
「そんなことが…」
「揺れておるのは地面だけではない。空気も震えておる。だがそれも人間の耳にとらえられぬ。鋭敏な聴力を持つ狐人のリネアや、糸で空気の震えを感じられるパエラだけが『重苦しい』と感じたのは、この空気の震えを感じていたからじゃ」
ユーリアスは顎に手を当てて、玉藻の話を反芻する。
一連の騒動が自然現象だというのは驚きだが、侵入者や幽霊に怯えている離宮の者たちにとっては良かった。しかし、そうなると別の疑問が湧いてくる。
「玉藻殿、その細かい地揺れや空気の震えは、どうして起こる?……少なくとも、この数ヶ月より前には、幽霊騒ぎは起こっていなかった。それが起こり始めたのは、なぜだ?」
「ユーリアス様、異変はそれだけではないのじゃ。ここに来る前、我らはリンドニアに立ち寄った。フィル、そこで何があったユーリアス様に話してれまいか」
玉藻はユーリアスの質問に直接答えず、フィルに話を振った。
「…兄様、10日近く前ですが、こちらでも大きめの地揺れがありませんでしたか?リンドニアで揺れを感じたので、きっとこちらでも起こったと思うのですが」
「確かにあった。幸い、離宮にも街にも大した被害はなかったが、…そういえば、離宮の者が、その前にも、何度か地揺れがあったと言っていたな……幽霊騒ぎの原因というのは、それより更に小さな、揺れを感じないような地揺れが何度も起こっていたということか…」
ユーリアスは、小さくため息をついた。
「それだけではありません。本国領からリンドニアに大量の獣が流れ込んでいます。リンドニアでは、森から溢れた獣が領都近郊の農地にまで現れるようになり、駆除に頭を悩ませています」
「フィー、対処が難しいようなら帝国軍からも兵を派遣させるが」
「大丈夫です。すでにベナトリア属州軍の一部をリンドニアに向かわせるよう指示しました。おそらくそれで何とかなるでしょう」
「そうか。…だが、どうして獣がリンドニアに…?」
続いて玉藻は、パエラに目を向ける。
「パエラ、本国領の森を調べたときに見たものを覚えているかの?」
「んー、玉藻ちゃんと一緒に行った時だよね。…温泉の池を見つけたことくらいかな」
パエラは記憶を辿る。森の中に湧いた温泉の池、気になったのはそれくらいだが…
「わたしもそれは見たけど、それも今回の件と関係あるの?アルテルメに近いんだから、温泉くらい自然に湧いてもおかしくないんじゃない?」
フィルが玉藻に訊いた。
「パエラ。最初に池を見つけた時に、そなたの網で底をさらったじゃろう。何が入っていた?」
「魚の骨がたくさん入ってたね」
「そうじゃ。…おかしいとは思わんか?」
玉藻は、懐から取り出した扇を広げて口元に当てて、パエラを見つめる。
「温泉…魚……あ、そうか!温泉の池に、魚がいるはずない…」
数瞬考えたパエラは、ぽんと手を打つ。熱い温泉の中で魚は生きられない。では、池の底に沈んでいた魚の骨は何だ…?
「そうじゃ。…おそらく以前は魚が泳ぐ普通の池だったのじゃ。それが最近になって温泉に変わった。だから熱に耐えられず魚は死に絶え、池の底に骸を晒すことになったのじゃ」
「普通の池が、温泉に変わる…?」
「温泉とは、地面の下を流れる水脈が地熱で熱せられて湯になったものじゃ。それは、このアルテルメに湧く温泉も同じ。異変と言えば、広場の温泉の泉にも、おかしな事が起こっておったのではなかったか?」
「お湯が白くなったって言ってた!」
はいっと、元気よく手を挙げてメリシャが言う。
「メリシャ、よく覚えておったの。…そう、泉の湯は元々透明だった、それが最近白く濁った。つまり、これも地面の下で何か起こっていることを示している」
玉藻は、広げていた扇を畳んでパシンを音を立てる。
本国領から逃げ出す獣、頻発する地揺れ、空気の震え、急に温泉に変わった池、白く濁った温泉……次々と出てくる異変に、ユーリアスの表情が固くなる。
「玉藻殿、教えて欲しい。何が起こっている?」
玉藻は、じっとユーリアを見つめながら言った。
「ヴィスヴェアスと言ったか、この街の北にある火の山が目覚めようとしている。……遠からず、あの山は噴火するぞ」
玉藻の言葉に、ユーリアスもフィルも、その場の誰も声を発することが出来なかった。
「麿がまだ人間だった頃の話じゃが、我が国にもヴィスヴェアスのような火の山が幾つもあっての。大きな噴火を起こすことがあった。麿も、直接見たことはないがな。…山頂から空高くまで溶けた岩や大量の灰を吹き上げ、時には山が爆発するという」
「山が爆発するなんて、想像出来ないけど…」
思わずつぶやいたフィルを、玉藻はちらりと見て話を続ける。
「麿が生まれる十年余り前、麿の国の東の地方にあった『浅間』という山が噴火した。その時の記録を目にしたことがある。一字一句までは覚えておらぬが、『突然山が大きく鳴動し一面の火の海となった。噴煙は空高く舞い上がって空を覆い、昼を夜に変えた。上野の国では空から灰や石が降り注ぎ、田畑がことごとく埋まってしまった』と、おおよそそのような話であった」
「上野の国?」
「噴火した浅間山の麓にある国でな…国と言っても、帝国で言う属州のようなものじゃが、山の近くだけでなく、隣国のほぼ全域にまで、田畑を埋め尽くすほどの灰や石が降り注いだというのじゃ。無論、山の近くにあった町や村は跡形もなく消え失せ、しかも、噴煙が空を覆って陽を隠し、その後数年以上、農作物は満足に育たず、多くの民が飢えて死んだと伝えられている」
玉藻が見た記録が語るのは、西暦1108年(天仁元年)に起こった浅間山の『天仁大噴火』のことである。この噴火における噴出物の総量は約30億トンとも言われ、数百年後の江戸時代に大飢饉を引き起こした『天明大噴火』をも大きく上回る巨大噴火だったとされている。
その影響は日本のみならず、はるかに離れた欧州にも及び、数年間の異常気象、大雨や冷夏の原因となったとも言われている。
貴賓室を沈黙が包んだ。大変なことが起こると想像はしていたが、玉藻が語った噴火の様子は、その想像を超えていた。人間にはどうにもならない破局ではないか。
「山が噴火する前触れとして、地揺れが何度も起こったという。それに、ここと同様、浅間山の近くにも多くの温泉場があったが、噴火する前には、湯の温度が急に上がったり、色が付いたり、湯の湧く量が変わったりしたそうじゃ」
それは、今まさにアルテルメで起こっていることと同じ。
「多くの獣がリンドニアへと逃げ出しているのも、本能的に身の危険を感じてのことじゃろうな」
「…そんなことが、起こり得るのか…」
絞り出すようにユーリアスが言った。
「ユーリアス様、麿とリネアは、昨夜、ヴィスヴェアスの火口の底の様子を見てきた」
「待って欲しい。火口の底を見てきた…?…実体のない玉藻殿はわかるが、リネアが行って無事に戻れるような場所ではあるまい。一体、どうやってそんなことを?」
ユーリアスは信じられないという表情で、リネアと玉藻を見つめた。
玉藻は、フィルに目配せする。
「リネア、竜人になってみせて」
「はい」
フィルの言葉にリネアは頷く。そしてユーリアスの目の前で、リネアの柔らかな獣耳が黒い角に変わり、ふさふさの尻尾は赤褐色の鱗に覆われた。
「リネア、君は…!」
「ユーリアス様、ご報告が遅くなり申し訳ありません。先日、私は、神話に語られる巨竜、ティフォンの力をこの身に受け継ぎました。この姿は、そのせいです」
「巨竜、ティフォン?…神をも倒したという伝説の竜になったというのか?」
「はい。その通りです。そのおかげで、火口内部の高熱にも耐え、中の様子を調べてくることが出来ました」
リネアは、再び狐人の姿に戻る。
「兄様、リネアのことは改めてお話します……リネア、山の様子の続きを」
「はい」
フィルに促され、リネアは火口の内部の様子を話した。火口の底では溶岩が溢れ始めていて、底を塞いでいる岩盤にも多数の亀裂が入っている。今はまだ蓋をされた状態だが、何かのきっかけで容易に限界を迎えるであろうことを。
「ユーリアス様、おそらくヴィスヴェアス山の噴火は今回が初めてではないはず。過去の記録があるのではなかろうか……同じ火の山でも、山によって性質が違う。麿は今、我が国の例を話したに過ぎん。今回のヴィスヴェアス山の噴火がどの程度のものになるのかはわからんが、過去の事例を調べれば、何か被害を減ずる手がかりも得られるかもしれん」
「わかった。側近の中で信頼できる者に調べさせよう…あと、皆、このことは…」
「わかっています。他言無用ですね。それに、わたしたちも引き続き、お手伝いさせて頂きます」
代表してフィルが返答した。
「…ですが、兄様、どうにもならない時、わたしは、アルテルメよりも、リンドニアを守ることを優先します。それはご承知ください」
全て助けられるならいい。しかし、どうしてもそれが難しい時は優先順位を付けざるを得ない。
フィルにとって第一はここにいる家族と友人、第二にリンドニアの民たち、アルアルメを守るのはその次。そこを間違えるわけにはいかない。
「あぁ、それでいい。本国を守るのは僕たちがやるべきことだ。フィーが自領を第一に考えるのは当然だよ」
「ありがとうございます」
「夕刻までには記録の調べもつくだろう。では、また後で話しをしよう。しばらく待っていてくれ」
急ぎ足で部屋を出て行くユーリアスを見送り、フィルはソファーに身を沈めたまま、しばし目を閉じた。
次回予定「メリシャの見たもの」
眠っていたメリシャが、突然悲鳴を上げた。一体、何が起こったのか?