玉藻の心当たり
玉藻が気になると言った場所とは?
その夜、貴賓室のテラスで九尾の姿になったフィルは、身を伏せてリネアを背に乗せた。
メリシャは、一緒に行きたそうにしていたが、パエラの腕に抱かれたままごしごしと目をこすっている。もはや眠気には勝てなさそうだ。今日はパエラのハンモックでパエラと一緒に寝るらしい。
「パエラ、メリシャのことお願いね。夜明けまでには戻るから」
「うん、任せて。フィルさまとリネアちゃんこそ、気を付けてね」
「…いってらっしゃい…」
つぶやくように言ったメリシャは、こてりと頭をパエラの肩に預ける。
「行ってきます」
リネアの声と同時に、フィルはテラスを蹴った。パエラは夜空に駆け上っていく九尾の姿を見上げて手を振っていた。
「玉藻、どっちに行けば良い?」
幸いなことに空は快晴、しかも満月だ。降り注ぐ青白い月の光におかげで、夜とは言え地上の様子がよく見えた。
「うむ。北じゃ」
玉藻はリネアの中から抜け出て、ぽすんと横座りでリネアの後ろに座る。
アルテルメ周辺の地理は、大雑把に言えば、北に山、南に海、東に川、西に平原である。
アルテルメから徒歩で半日ほど南に港町ロンボイがあり、海路で帝都やサエイレムと繋がっている。
東の川はリンドニアとの領境になっており、フィル達も通ってきた石造りの大きな橋がかけられている。
西の平原は、広さはあるものの土地が痩せていて耕作に適さず、荒野と草原が半々というところ。草原の部分では家畜の放牧に利用されている。
そして、北。……緩やかに伸びた山麓を深い森に沈め、褐色の山肌を露わにした大きな山塊がそびえている。ルブエルズ山脈のように峰々が連なっているわけではなく、高さも及ばないが、起伏のない平原からただ一座、空に向かって屹立する姿は堂々たるものだった。
「麿が気にしているのは、あれじゃ」
玉藻の視線は、アルテルメの北にそびえる、その山に向いていた。
「あれは…ヴィスヴェアス山、ですね」
出発前に眺めていた地図を思い出し、リネアが言う。
「フィル、あの山の上まで飛んでもらえるか」
「わかった。リネア、しっかり掴まっててね」
「はい!」
フィルは、風を蹴って速度を上げた。
ヴィスヴェアス山は、アルテルメの北約10km。九尾の速度なら数分である。
フィルはほどなくして山の様子がよく見えるところまで近づいた。山肌のほとんどは一面の小石と砂の地面。、森に覆われた山裾以外、植物はほとんど生えておらず、ところどころに巨大な岩塊が転がっている。
上に行くほど傾斜を増す山肌に沿って、駆け上がるように山頂を目指す。空気を裂いて、勢いよく山頂を越えたフィルたちの眼下に、息を呑む光景が広がっていた。
山頂だと思っていたのは、ヴィスヴェアスの本峰を城壁のように取り囲む外輪山であった。外輪山は南から東西方向にかけて馬蹄形に連なっており、北側の半分が崩壊していた。
外輪山の内側は、急勾配の断崖が数百メートルも落ち窪んでおり、底は針葉樹の深い森に覆われている。その窪地の中心部に、緩やかな円錐形に盛り上がっているのが、ヴィスヴェアス山の本峰。その山頂にもまた、大きな火口が黒々と口を開けていた。
直径約20kmにもなる巨大な二重カルデラを持つ複式火山、それがヴィスヴェアス山であった。
「なんとも、壮観じゃのう…」
玉藻が感嘆の声を上げ、フィルとリネアは息を飲むばかり。
「やはり、東山道を落ち延びる時に見た、浅間の御山によく似ておるな……フィル、あの火口に近づいてくれぬか。ただし、くれぐれも注意しての」
「うん」
フィルはそれまでのような速度を出さず、ゆっくりとヴィスヴェオス本峰の山頂へと近づいていく。
「…っ!」
小さくリネアが震えた。同時にフィルも理解する。…あぁ、リネアやパエラが言っていた感覚とは、こういうものだったのか、と。
リネアたちの言う通り、『嫌な感じ』という表現が一番しっくりとくる。直接の苦痛を感じているわけではないが、重苦しいような、不安感や不快感をかきたてるような、何とも言えない感覚。
「なに、これ…」
「フィル様、大丈夫ですか?」
「うん。大丈夫だけど、…確かにこれは『嫌な感じ』だね」
一旦足を止め、フィルは背中のリネアと玉藻に顔を向ける。
「このまま、近づいても平気?」
「私は我慢できます…」
「すまんが、近くまで行ってみてくれんかの」
「わかった…そのために来たんだもんね」
フィルは山頂へと近づき、ぽっかりと開いた火口の縁に着地した。岩と小石、そして砂だけの地面。だが、その地面は熱を持っていた。地面だけではない、地上より寒いはずの山の上であるにも関わらず、空気も熱い。火口の中から熱風が吹き出しているようだった。
そして、ここまでくればさすがにわかった。ここの空気は震えている。この空気の震え、音でない音が、フィルたちを嫌な気分にさせている原因なのだ。
「やはりな…」
闇を湛えた火口の中を見下ろし、玉藻はつぶやく。そしてリネアを振り向いた。
「リネア、頼みがある」
「何でしょうか?」
「麿と一緒に、この火口の底に降りてくれ」
玉藻の表情は、怖いくらい真剣だった。
「玉藻、それはどういうこと?それなら、わたしがやるよ」
玉藻はフィルに首を振る。
「無理じゃ。おそらく火口の底は灼熱の地獄。竜であるティフォンでなければ耐えられん。九尾でも死ぬことはなかろうが、無傷ともいかんじゃろう」
「そんなところに…」
「フィルの言いたいことはわかっておる。だが、必要な事なのじゃ」
そんなところにリネアを行かせられない…そう言いかけたフィルを制し、玉藻は言葉を続ける。
「…麿だけで降りてもいいが、それでは何も触れられぬし、匂いもわからん。リネア、麿を連れて行ってくれ。頼む」
「私からもお願いします。フィル様、お許し頂けないでしょうか」
遠慮がちに尋ねるリネアに、フィルは仕方なさそうな笑みを浮かべる。
「…わかった。リネアもそのつもりならいいよ。わたしはここで待ってる」
「ありがとうございます」
リネアは、フィルから少し離れて、巨竜ティフォンの姿をとった。
「フィル、恩に着る」
「…リネア、玉藻、気を付けて」
玉藻がスッとティフォンの中に消えると同時に、リネアは翼を大きく広げた。バサリと一振りして巨体を浮かべると、そのまま火口の中へと身を躍らせる。巨竜の姿は、すぐに火口の闇の中へと消えた。
「あんな玉藻、久しぶりに見たわ」
いつの間にかフィルの背に座っていた妲己が、呆れたように言った。
「そうね。いつも冷静で余裕ぶってるのに。今日の玉藻は、なんか新鮮…けど、それだけ大変な事態ってことだよね?」
「妾も詳しくはないけど、玉藻が生きていた国には、ここみたいな火の山が幾つもあったらしいわ。この前みたいな地揺れも珍しいことじゃなかったみたい。だから、何か知っているんでしょうね」
フィルは、ただじっとティフォンが消えた火口の闇を見つめていた。
(リネア、苦しくはないか?)
(はい、何ともありません)
火口の底を目指して闇の中を降下していくリネアは、自分の周りの熱がどんどん高くなっていくのを感じていた。
(この匂い…那須野ヶ原を思い出す…)
(それは、どんな場所なのですか?)
(人間としての麿が死んだところじゃ。ここのように、鼻につく硫黄の匂いがたちこめておったわ)
懐かしそうに玉藻は言う。
(それは…)
(リネアが悲しむことではない。そこで死ななかったら、妲己にも、フィルにも、リネアにも会うことはなかったのじゃ。麿は今の境遇が悪いものだとは思っておらん。案ずるな)
(はい…)
玉藻の気持ちは嘘ではない。それは玉藻を内に宿すリネアにもよくわかった。
数分の後、火口の底に降りたリネアは、周りの光景に息を呑んだ。そこは闇一色ではなかった。
一面に黒く焼けた岩が転がり、その間から赤い光を放ち煮えたぎる溶岩が吹き出し、流れる。言うなれば、黒と赤の世界であった。
溶岩の放つ光で、周囲はほの明るく照らされているが、たちこめる熱気で視界の全てが歪んで見えた。
気温は、大抵の生物が生きられる限界をとっくに越えている。人間も含めた動物をここに放り込めば、九尾の狐火を浴びたように一瞬で消し炭になってしまうだろう。
玉藻は九尾でも無傷では済まないだろうと言ったが、確かに、強靱な鱗に覆われた竜の身体でなければ耐えられまい。
リネアの中にいる時、玉藻は全ての感覚をリネアと共有できる。
チリチリとあらゆるものを焦がす熱気、たちこめる硫黄やその他の鉱物の焼ける匂い、そして空気を震わせる地の底からの脈動。懸念したとおりの様子に、玉藻は己の推測が正しかったことを悟る。…今、この山は目覚めようとしている。
リネアは、改めて周囲を見回す。時折、小刻みに足下の地面が揺れるのを感じた。
(ここが底のようですね)
(うむ。そうじゃの…)
リネアの視界を借りた玉藻は、ぐるりと河口の内部を見渡す。
(玉藻様、私と入れ替った方が行動しやすいのではありませんか…?)
リネアを通すよりも、フィルと妲己のように入れ替わってしまった方が、玉藻の好きに調べられるはずだ。
(すまんな。麿は元々九尾の意識。だから九尾には成り代わることができるが、ティフォンに成り代わるのは無理じゃ。煩わしいかもしれんが、我慢してくれ)
リネアの提案に、玉藻は苦笑交じりの声で答える。
(いえ、では何なりとご指示ください)
(うむ、早速はじめようかの。まずは火口の縁に沿って一回りしてみよう)
リネアは小さく頷き、後ろ脚で立ち上がって歩き始めた。溶岩が滲みだす地面を、まるで水たまりを踏みつけるように進んでいく。
火口の内部は、ほぼ水平であったが、地面からは幾つも巨大な岩が突き出し、また大きなひび割れもそこかしこに走っていた。
(玉藻様、この赤く光るドロリとしたものは何なのでしょうか?)
(麿の国では『焼け石』と呼んでおった。熱せられて岩がドロドロに溶けたものじゃな)
(岩が、溶けるのですか?)
(不思議ではあるまい?剣や武具を作る時に、火を焚き、鉄や銅を熱して溶かすであろう?それと同じじゃ)
(なるほど…ここがこんな熱いのは、岩を溶けるほどに熱せられているから?)
(うむ。この山の地下には、このような焼け石が大量に溜まっているはずじゃ…そして、時折それは地上に溢れ出る。それも、一気に押し出されるような猛烈な勢いでな)
玉藻の声が低くなった。
リネアは、足元の溶岩に視線を向ける。竜の身体だから耐えられるが、こんなものが地上に出れば、人も動物も草木も、全てが焼き尽くされてしまう。
(そんなことになったら…)
(少なくとも、アルテルメは滅ぶな…それに、リンドニアにも影響が及ぶかもしぬ)
(リンドニアにまで?)
(詳しいことは、戻ってから話すとしよう。フィルにも聞いてもらわなくてはならんからの)
(そうですね)
その後リネアと玉藻は、火口の内部を一通り見て回った。
火口の底を形成する、固結した分厚い岩の蓋は、あちこちがひび割れて溶岩を吐き出し、強弱をつけて震える地面は、この山の眠りが遠からず破られようとしていることを示していた。
次回予定「ヴィスヴェアスの胎動」
噴火が近い兆候を見せる火山、ヴィスヴェアス。アルテルメの街はどうなるのか。




