アルテルメの離宮
フィルたちは、ついに最終目的地アルテルメに到着します。
リンドニアを出発して3日後。フィル一行は、遂に今回の旅の目的地、アルテルメに到着した。
騎兵に守られ、紋章入りの軍旗を掲げた一行を止める者はいない。
普通の旅人に対しては厳しい審査を行う門兵も、総督一行となれば馬車を止めることもしない。整列して出迎え、そのまま街の中へと通した。
「おぉ、すごい。特別扱いだ」
窓から外を眺めたパエラが言った。馬車の外には、審査待ちの旅人達の長い列ができている。馬車はそれを全てすっ飛ばしてアルテルメの門をくぐっていく。
「フィルさまって、本当にすごく偉いんだね…」
「あら、知らなかった?…けっこうすごいらしいよ。わたし」
総督衣装をまとったフィルが、わざとらしく首を傾げる。
「そりゃ、知ってたけど…」
「パエラちゃんだって、お姫様みたいですよ」
くすっと笑ってリネアが言う。
リネアとメリシャも、帝都で皇帝に謁見した時の衣装に着替えている。そして、帝都には行かなかったパエラのために、フィルは新しく衣装と装身具を仕立てていた。
「もう、からかわないでよ」
パエラは、少し恥ずかしそうに自分の身体を見下ろした。
パエラがまとう衣装は、薄紫色のチュニックと蜘蛛の胴体との境目を覆う同色のスカート。
この衣装の染色に使用されているのは、ある種の巻貝の内臓から採れる『貝紫』という貴重な染料だ。南方の民族ティニキア人の国で多く産出されることから、ティリアンパープルとも呼ばれる。
もちろん帝国においては恐ろしく高値で取引されており、この色を使えるのは皇族や上級貴族の一部に限られるほどの最高級品である。
その貝紫の衣装を銀糸の腰帯で止め、肩から背中にはアラクネの糸で織り上げた薄布のマントを羽織る。マントは人間のものより大きく長く仕立てられており、そのままパエラの蜘蛛の胴体まで包み込むようになっていた。
アラクネの素材は、パエラのためにとティミアたちが贈ってくれたのだが、帝都行きの際にリネア達が被っていたベールでさえ、帝国軍兵士の年収に相当する程の貴重な品。このマントほどの大きさとなれは、その価値は推して知るべしだ。
衣装の他にも、マントを止める濃紅のガーネットがあしらわれたブローチに、手首と足首には、彫金が煌めく金のブレスレットとアンクレット…しかもパエラの場合、アンクレットは8個も必要になる。
そして、首には銀のネックレス。これは以前、大グラウスの腕を切り落とした鋼線入りの品だ。元々シャウラのために用意したものでもあるし、フィルはパエラにも新しい物をと言ったのだが、パエラは大事な戦いの記念だからと言って、痛んだ部分を補修して身に着ける事を望んだ。
アラクネの布を使ったマントはパエラの身を守るものだが、シャウラとは違い、パエラの衣装や装身具に隠し武器は仕込んでいない。武器にもなるのは首のネックレスだけだ。
パエラの武器は、その身のこなしと自らが作り出す糸だから、それだけで十分だった。
「こんな高い服着るの初めてで、汚しちゃったらどうしよう…って緊張する」
珍しく気弱な声で言うパエラに、リネアも頷いた。
「私もそうでした…今もそうですけど」
「そんなの気にしなくていいんだよ。…窮屈かもしれないけど、わたしの我が儘だと思って許してね」
フィルが苦笑する。実を言えば、フィルの着ている総督衣装が、この馬車に乗る4人が着ている衣装の中で一番安い。それなりに上質ではあるものの、身分を示す赤い縁取りが入っているだけで、特別な素材は何も使っていないからだ。
見た目を飾ることにあまり意味を感じていないフィルだが、帝国貴族の間では見た目の装いが、経済力や権力のバロメータとされていることは知っている。
身分のある自分はどうでもいい。でも、リネアたちが魔族だからと見下されるのは許せない。だから、これは必要なことなのだ。
「そ、そんなことないよ!こんなにいい服を着させてもらって、あたしも一応、女の子だから、嬉しいし…」
パエラは赤くなった頬を両手で押さえて、上目遣いにフィルを見つめた。
「一応じゃないよ。パエラはキレイなんだから。よく似合ってる。本当に可愛い」
「…っ!…そ、そうかな…」
照れながらも、パエラは嬉しそうな笑みを浮かべた。
馬車の窓から眺めるアルテルメの街並みは、サエイレムはもちろん、これまでに見てきたベナトリアやリンドニアの都市と比べても華やかだった。
建物の壁には 多彩な色を使用して植物をモチーフにした壁画が描かれ、馬車を通す街路の両脇には、瑞々しい緑の葉を茂らせた街路樹の並木が植えられている。
街の中心は大きな円形の広場になっており、そこに設けられているのは、温泉を使った人工の泉…神話に語られる神々や妖精の彫像が飾られた石造りの泉だった。豊かに湧き出す湯が、階段状に重ねられた水盆を満たしては下へと流れ落ち、心地よい水音を響かせている。
「ねぇ、フィル、街に遊びに行きたい」
メリシャがフィルの袖を引っ張る。カラフルな色彩に彩られた道並みや、オープンテラスの店先で食事を楽しむ人々。観光地ならではの楽しそうな風景に目を輝かせている。
「いいよ。だけど、出かけるのは明日にしようね。今日はまず、招いてくれた兄様に挨拶しないと」
「はーい。…明日、ユーリお兄ちゃんも一緒に来てくれないかな」
「そうね…、誘えば来てくれそうだけど…」
兄様だのお兄ちゃんだのと呼んでいるが、ユーリアスは帝国皇帝である…そう簡単に街歩きができる身分ではないが、ここは帝都ではないし、もしかすると…。
話をしているうちに、馬車は中央広場を通り抜け、離宮へと続く緩やかな坂道を上っていった。
そして、目指す皇帝離宮の姿が見えてくる。
別荘のようなものとは言え、『宮』の名が付くのは伊達ではない。離宮の壮麗さは、帝都の皇帝宮殿にも見劣りしないものだった。広さも普通の貴族の別荘とは桁違い。もちろん、フィルが住んでいるサエイレム総督府など比べものにならない。
離宮の門を抜けてからも広い庭園をしばらく進み、馬車はようやく離宮の正面玄関に横付けした。
「フィー、待っていたよ」
フィルたちが馬車から降りると、離宮の正面玄関で待っていたのは、この離宮の主、ユーリアスその人であった。
「兄様、お久しぶりです」
皇帝直々の出迎えとは、さすがにフィルも驚いたが、すぐに笑顔を浮かべてユーリアスに一礼する。
「この度はお招き頂き、ありがとうございます」
「遠いところをよく来てくれた。…リネア、メリシャも元気だったかい?」
ユーリアスは、フィルの後ろにいるリネアとメリシャにも気さくに声をかけた。
「は、はい!元気です!…ユーリアス様、今回のお招き、感謝致します」
「ユーリお兄ちゃん、メリシャたちも呼んでくれてありがとう!」
緊張して返事をするリネアと、にぱっと笑って返事をするメリシャに笑みを返したユーリアスは、少し離れて身を固くしているパエラに目を向けた。
「彼女は?初めてだね?」
帝国でアラクネ族を見かけることはない。ユーリアスもフィルの弾劾裁判の席でリドリアの姿を見たのが初めてだ。腰を境に上半身は人間、下半身は蜘蛛というアラクネの容姿は、見慣れない者からすればやはり異形である。
「兄様、若い女性をじろじろ見るのはいかがかと」
つい、パエラを珍しそうに見てしまったユーリアスをフィルは軽く睨む。
「すまない。これは失礼した」
フィルに咎められ、素直に謝るユーリアスに、パエラは目を丸くする。なんか、思っていた皇帝のイメージと違う。
「パエラ」
「…はい」
手招きするフィルに、パエラはやや俯きながらフィルの隣に並んだ。
「この娘はパエラ。わたしの親友で、護衛役も務めてもらっています。兄様」
「あ、あの…パエラです」
堅苦しい言葉使いが苦手なパエラは、ボロを出さないよう言葉少なに頭を下げた。
「僕はユーリアス・アエリウス・アルスティウス。帝国の皇帝だが、ここではフィーの兄代わりと思って、気楽に接してくれると嬉しい。パエラもユーリアスと呼んでくれて構わない」
「は、はい…ユーリアスさま」
緊張の抜けないパエラにユーリアスは苦笑する。と、素知らぬ顔をしたフィルが、パエラの脇腹を横から突っついた。
「ひゃんっ!…もうっ、フィルさま、何するの!」
パエラは驚いて思わず声を上げたが、ユーリアスの前だったのを思い出して、慌てて身を縮める。
「パエラ、緊張しなくても大丈夫。兄様にもそんな感じでいいよ」
「ははは、その通りだ。フィーと同じように接して欲しい。その方が僕も気が楽だ」
「……それじゃ、あの…そうさせてもらいます」
本当に、仲の良い兄妹にしか見えないユーリアスとフィルの様子に、パエラもようやく少しだけ緊張を解いた。
「兄様、明日にでも、皆で街に出てみようと話していたんですが、兄様もいかがですか?」
「それはいいな。だが、護衛はどうするんだい?」
フィルの誘いにユーリアスも気軽に応じた。帝都とは違いここは保養地だ。皇帝と言えど、ある程度は自由な行動も出来るのだろう。だが、当然ながら暗殺への警戒は怠れない。
「エリンとパエラが付いていてくれれば、平気です。わたしも、結構強いんですよ」
フィルの護衛が皇帝を守るのでは近衛軍団から不満も出ようが、物々しい兵士連れで町歩きをする趣味は、フィルにはない。
「わかった。明日は僕も一緒に出かけることにしよう。フィーたちも長旅で疲れただろう?部屋に案内させるから、今日のところはゆっくり休むといい。夕食の席でまた会おう」
「はい。ありがとうございます。兄様」
案内役の使用人の後を付いていくフィルたちを、ユーリアスは軽く手を振って見送った。
次回予定「離宮の幽霊」
厳重に警備されているはずの皇帝離宮で、とある事件が…。