妲己のお買い物
数日後、フィルが午前中の仕事を終え、総督府の私室でリネアが淹れてくれたお茶と手作りお菓子で軽い昼食をとっていると、フラメアがやってきた。
「フィル様、午後からの予定ですが…」
フラメア・クレスティア。サエイレム総督府の財政を預かる財務官だ。元々はエリンと軍学校で同期の軍人だったが、兵站と主計を得意とし、若年ながら補給の面でエルフォリア軍を支えた功労者だ。
サエイレムや魔王国で戦うエルフォリア軍が長年にわたり精強さを保てたのも、後方から食料や武器、交代の兵員を間違いなく送ってくれた兵站部隊の働きによるところが大きい。
フラメアはその実績から、アルヴィンによってサエイレムの財務官に抜擢され、フィルもその手腕を頼りにしているところである。
フィルは、コトリとカップを置き、午後の予定を思い返した。
「午後からは、エリンに職人街の鍛冶師の所に連れて行ってもらう約束をしてるわね」
「はい。急で申し訳ないのですが、その後、商業組合との面会をお願いしたいのです」
「それは構わないけど、何の用件?」
「商業組合より、ぜひ陳情したいことがあると強い申し入れがありまして」
「陳情ね…何か心当たりはある?」
「はい、今後の租税のことだと思われます。サエイレムは帝国領となったことで本国への税の上納が必要です。当然、これまでよりも税率の水準を上げる必要があります」
街の支配者が代わって、まず心配なことと言えば、これまでの既得権益の保障と税制がどうなるかだ。特に、これまで帝国領でなく一応は独立都市だったサエイレムは、本国への上納をする必要がなく、税負担は他の帝国の諸都市と比較して軽い。
魔族と人間が混在する街、しかも魔王国との戦場に近い最前線だというのに、移住してくる人間が意外に多かったのは、そういう側面もある。
「で、なるべく税率を上げるな、と?」
「はい。あとは、おそらく魔族側の扱いでしょう。前領主の時は、あちらはあちらで自治を行っていたのでさほど問題ありませんでしたが、帝国本国への上納分となれば、人間側だけで負担するのは不公平だという言い分かと」
「まぁ、それは理解できる話ね…」
フィルは小さく頷く。
「フィル様、…あの、魔族からもお金を徴収するのですか?」
リネアが少し辛そうな表情で言う。彼女たち下町の魔族は決して裕福ではない。戦争からもまだ立ち直っていない今、生活がどうなるのか心配なのだ。
「ごめんね、リネア。こればかりは免除できないの。じゃないと、わたしも人間と魔族を公平に扱えなくなってしまうから。権利は同じ、でも負担は人間だけ、という訳にはいかないのよ」
「い、いえ。申し訳ありません。私、出過ぎたことを…」
リネアは慌てて頭を下げる。
「ううん、リネアの心配はわかるよ。この前、リネアの案内で下町を見てきたおかげで、魔族の人たちの暮らしも少しわかった。無理がないように考えるから、安心して」
「はい、ありがとうございます」
フィルはリネアを安心させるように笑いかけると、フラメアに尋ねた。
「いいわ。どうせ街に出るのだし、こちらから商業組合に出向きましょう」
「わかりました。今日のところは相手の言い分を聞くだけでも結構です…陳情は建前で、フィル様がどういう人物なのか確認したいというのが本音でしょうから」
「とりあえず、普通に話を聞いて、曖昧な返事をしておけばいいかしらね」
「はい。言質をとられないよう、ご注意いただければよろしいかと思います。…では、鍛冶師の用向きが終わった後、商業組合に一番近い衛兵の詰所にお越し下さい。そこでお待ちしております」
「わかったわ…後で会いましょう」
軽く頭を下げて退出するフラメアを見送り、フィルは窓際の書き物机に向かった。
新しい羊皮紙を取り出すと文鎮で固定し、サラサラと手紙を書き始める。内容は短く、すぐに書き終えると最後に自身の署名を入れ、フィルはペンを置いた。
「リネア、この宛名、読める?」
フィルは一番上に書かれた宛名を示す。
「はい、…て、み、…テミス様のお名前ですね」
リネアは、真剣な表情で文字を追い、声に出した。きちんとした教育を受けていないリネアは、フィルが執務に就く午前中の時間を使って、総督府の書記官から文字や礼儀作法を教わっている。
「うん、正解」
フィルはリネアに笑顔を向けると、羊皮紙を丸めて赤いリボンを掛け、リネアに差し出した。
「わたしがエリンと出かけている間に、リネアにはこれをテミスに届けてほしいの」
「あの…わたし一人でですか?」
少し不安そうな表情をするリネア。テミスのことは良い人だと思っているが、他のラミアや狼の獣人族たちはやっぱり少し怖い。
「大丈夫、エリンの部下に護衛させるから。それに、これを着てって」
フィルは、壁際の棚から自分の着替えを取り出した。赤い縁取りの入った、フィルが着ているのと同じ服だ。
「そんな、フィル様の服をお借りするなんて、できません…!」
リネアは慌てて断る。文字を教えてくれる書記官から聞いたのだ。服の赤い縁取りは、帝国において高い身分を示すのだと。
「リネアだって、自分の服をわたしにくれたじゃない?」
「でも、それは…」
「この服を着ているということは、わたしが自分の代わりとしてリネアを送ったということ。相手に敬意を示しているという意思表示なの。だから、着てくれない?」
「わかりました。お借りします」
必要があってのことだと言われれば、断れない。リネアはフィルから服を受け取り、大切に胸に抱えた。
「この手紙には、明日、総督府に来て欲しいという内容が書いてあるから、返事を聞いてきてほしいの。たぶん来てくれるとは思うけど、もしも何か条件や希望を出してきた時に了承するか断るかは、リネアに任せるね」
「わ、私が決めるんですか?!」
「うん。だってわたしの代理なんだから、権限はリネアに預ける。…大丈夫。リネアが答えたことなら、わたしは反対しないから」
「ふぇぇ…そんな、フィルさま~」
「心配しないの。リネアは自分で思ってるよりずっと賢いんだよ。自分を信じなさい」
フィルは、オロオロするリネアに笑いかけた。
エリンと一緒に総督府を出たフィルは、人間側の一番南の地区を訪れていた。鍛冶や染色、なめし革など、仕事に大量の水を必要とする職人たちの工房は、川に近い街の南端付近に固まっている。
「エリン、そろそろ妲己と交代するわ。彼女の武器だから、よく希望を聞いてあげてね」
「はい、承知しました」
エリンが頷くを見て、フィルは意識を引っ込める。瞳の色が紅から金へと変わって、少し雰囲気の違うフィルがそこにいた。
「エリン、久しぶりね」
「妲己殿、か?」
「殿はいらないわ。妲己でいいわよ。…または、師匠、とか?」
「妲己と呼ばせてもらう。妲己、ようやくきちんと挨拶できる。私は第二軍団長、エリン・メリディアスだ。よろしく頼む」
「妾は、妲己。殷王朝第30代紂王の妃よ。でも、もうずいぶんと昔に滅んだ王朝だから、気にしないで」
「あなたの国では、王妃でもあれほどの武術を身に着けるのか?」
現役の軍人である自分を圧倒するほどの武技を見せた妲己が、元王妃だとは。
エリンは、上司であるアルヴィンに連れられて何度か謁見した帝国の皇妃や上位貴族の妻たちとの違いに驚く。彼女らは、肌を磨くことばかり熱心で、比喩でなく食器より重い物を持ったことがないだろう。
「そうね…護身術くらいは身につけるけど、妾は特別よ。紂王が戦闘バカで強い妃を望んだから目を付けられたんだし、王朝の末期で戦争や反乱が続発していたから、戦う機会も多かったしね」
二人で話しながら歩く。
「大刀、といったかあの武器は。あれで戦っていたのか」
「そうよ。自分の手で何百人、命じたのも含めれば何万人も殺した…だから、こうして死にきれずにいるのかもしれないわね」
妲己は自嘲気味に笑う。
「私も軍人だ。先の戦争では私の軍団も多くの魔族を殺している。妲己だけが気に病む話ではないと思うぞ」
「ひとつだけ誤解して欲しくないのは、妾は、たくさん人を殺したけど、遊びのために殺したことはない。それは信じてほしい」
「試合での戦いぶりを見れば、おおよその人となりはわかるつもりだ。信じられない者に、教えを乞おうとは思わないだろう?」
「ありがとう。やっぱりフィルの家臣は気持ちいい人が揃ってるわね。正直、フィルが羨ましいわ」
妲己が少しぼやくように言った時、エリンが足を止めた。
「ここだ。サエイレムでも腕利きの鍛冶師の工房だ」
帝国軍では、一般兵の武具は軍で用意して支給するが、大量生産品で質はあまり良いとは言えない。百人隊長クラス以上の幹部は、自費で上質の武具を揃えることが多かった。
ここは、エリンも含め、第二軍団の幹部たちが良く利用している工房だった。しかし、目の前には、狭い間口の建物に頑丈そうな扉がひとつ。看板もなく、雑然とした職人街の中では、ここが工房だと気付かない者もいるだろう。
「親方、いるか?」
ノックもなく扉を開け、エリンは中に入る。天窓が設けられた内部は意外に明るく、室内はきちんと整理されていた。
「エリン様、いらっしゃいませ」
店番をしていた若者が迎える。そして、大声で奥に呼びかけた。
「親方!エリン様ですよ」
「おぅ、少し待ってくれ!」
奥から大声が返ってくる。続いて、ジュワっという音や鉄を鍛える槌の音が響いた。
「ほぅ、珍しい武器がたくさんあるな」
妲己は、室内に飾られた様々な刀剣を面白そうに見ている。
帝国軍の一般兵が装備している短めの剣や、エリンも使う長剣の他にも、長さ1mを超える両手持ちの大剣や、大刀に似た長い柄を持つ片刃の剣などもある。
「これらは、帝国が戦ってきた異民族…魔族ではなく人間だが、彼らが使っていたものだな。ここの親方が研究のために欲しいと言うので、武器庫で眠っていたものを幾つか進呈している」
エリンが説明する。
「なるほど…これを試してみたいけど、剣を振れるような場所はある?」
妲己は、長い柄が取り付けられた片刃剣を指さした。
「確か、試し切りができる中庭があったな?」
エリンが若者に尋ねる。
「はい、ございますが、使われますか?」
「あぁ、頼む」
エリンが返事をすると、若者は指定された片刃剣を手に取って、店の奥へと二人を案内した。
奥の扉をくぐり、中庭へと出る。10m四方ほどで周囲は壁に囲まれている。地面には石畳みが敷かれ、標的となる案山子が何体か立てられていた。
「それ、貸してもらえる?」
中庭に出ると、妲己は若者に手を差し出した。
「これは大変重く扱いにくい武器です。危ないので…」
長い柄の付いた片刃剣は、フィル=妲己の背丈より大きく、しかも全体の長さの約半分が刀身なので重量もある。
「いいから、渡しなさい」
躊躇する若者に、妲己はさらに手を伸ばして迫る。
「構わない。渡して差し上げろ」
エリンが許可すると、ようやく若者は片刃剣を妲己の手に握らせた。
「ふむ」
ブンッと一振り。そのまま舞うように水平の横薙ぎから刀身を振り上げ、袈裟斬りに振り下ろす。
大の男でさえ扱いきれない重い武器を軽々と振り回す妲己に、若者は唖然としている。
「あれは切っても良いの?」
妲己は、中庭に並ぶ案山子を切っ先で指す。
「いいぞ。やってみせてくれ」
「わかったわ。よく見てなさい」
妲己は、少し腰を落として構えると、大きく踏み込んで跳んだ。そして、背骨を軸に身体を捻ると、そのまま勢いよく刀身を案山子に叩きつける。
キィンッと、高い音がして、案山子の上半身がズレ、ドサリと地面に落ちた。
ふぅと息をついて、妲己は片刃剣を肩に担ぐ。
「さすが、見事だ」
「うーん、やっぱり刀身が長すぎてバランスが良くないわ」
不本意そうに言う妲己だったが、工房の若者は驚愕の表情で固まっている。
「そんなバカな。案山子の中には鉄の芯が入っているんですよ…」
後ろからパチパチと手を叩く音がして、大柄な壮年の男性が姿を現した。
「こいつは見事な腕だ。エリン殿、この娘は第二軍団の秘蔵っ子かい?」
「親方、案山子を壊してしまってすまないな」
エリンが軽く会釈する。
「かまわんさ、どうせ弟子の失敗作を再利用していただけだ。しかし、失敗作とは言え鍛造した鉄の剣をこうもたやすく両断するとはな」
「親方、紹介しておく。こちらは、サエイレム総督フィル・ユリス・エルフォリア様だ。今はお忍びなので、他の者に知られるのはマズい。偽名で妲己とお呼びしてくれ」
エリンは、親方に近寄ると小声で言った。
「そ、総督様?!…あ、いえ、ダッキ様?」
驚く親方の前で、妲己はもう一度片刃剣を構える。そして、ダンっ!と音を立てて踏み込むと、横薙ぎに案山子の首へと叩きつけた。ギィンッと金属音がして刃が鉄芯を切り裂く瞬間、軽く刃を捻る。文字通り、案山子の首はスパーンと空に飛び、数メートル離れた場所に落下した。
「妾は妲己。妾の言う通りの武器を作ってほしいんだけど、頼めるかしら?」
振り返った妲己は、にやりと笑っていた。
「申し遅れました。この工房をやっている、デルムと申します。…ダッキ様」
「いえ、こちらこそ挨拶をする前に好き勝手してしまって、ごめんなさいね。こんな姿だけど、私の腕はわかってもらえたわよね?」
妲己は、跪くデルムの肩をポンポンと叩く。
「もちろんです。帝国軍でも魔族でも、これほどの使い手は見たことがない。ご希望に沿う物を作れるよう、頑張らせていただきます」
「ありがとう。ようやくちゃんとした武器が手に入ると思うと嬉しいわ」
デルムは、妲己とエリンを中庭に面した一室に通した。室内にはテーブルセットがあり、机の上にはメモ用の木の薄板とペンが用意されている。
「どのような武器をお望みでしょう。先ほど試された片刃剣のようなものでしょうか。余り帝国では馴染みのないものですが」
デルムと妲己、エリンが椅子に座ると、早速デルムが切り出した。
「この片刃剣は、北の異民族の武器だ。馬上武器ではなく歩兵が騎馬に立ち向かう時に使用するものだったと聞いている」
エリンが説明すると、納得したように妲己はポンと手を打つ。
「なるほど…そのためにバランスを犠牲にして刀身を大きくし、威力を稼いでいるわけね。でも、馬上で扱うには刀身側が重すぎてバランスが悪いわ」
妲己は、すいっと剣の刀身に指を這わせ、自分の指や手のひらを基準に、おおよその寸法を計っていく。
「全体の長さはそのままで、刀身の長さはこの半分くらい、刀身の幅はもう2割ほど大きく、刃の厚みはこのまま」
デルムが薄板を取り、妲己が口にした要望をメモしていく。そして、サラサラと簡単な絵図を描いてみせた。
「こんな感じですかね?」
「えぇ。刀身の先端を少し外側に反らせて、柄の方も折れたり切られたりしない硬い木で。あと、柄の先にも鉄の石突きを付けてもらえる?…で、一番大事なところなんだけど、刀身と柄の繋ぎ目から拳二つ分くらい下を握った時にバランスが取れるようにしてほしいの。できる?」
「硬い木を使うと全体が重くなりますが、構いませんか?」
「構わないわ。バランスがとれていれば、重さは威力を増すのに使えるから。それに、刀身を振り回すのに耐えられずに柄が折れたら意味がないもの」
「…わかりました。造ったことのない形の武器ですが、どんな威力なのかたいへん興味があります。きっと良い物を仕上げて見せますから、使うところを見せて下さい」
真剣な表情のデルムに、妲己は満足そうに頷いた。
「親方、すまないが同じものを2本、作ってくれないか。こいつは前金だ。足りなければ追加で支払う」
エリンが言い、金貨の詰まった革袋をテーブルの上に置く。
「そりゃ良いが、エリン殿もこれを使うのか?」
「あぁ、妲己に教えてもらう約束なんだ」
「天下の第二軍団長に武術を教えるとは、ダッキ様は本当に見た目通りのお歳なのかい?」
「こら!失礼なことを言うな」
「ふふ、どうかしらねぇ…?」
妲己は口元に手を添え、歳に似合わぬ、艶然とした笑みを浮かべていた。
次回予定「リネアのお使い」