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少女のまま

作者: 蒼田 悠
掲載日:2020/11/23

 ついに見てしまった。

見たくない、知りたくない、でも真実をつきとめなければいけない。本能と思考がぶつかり合って心臓が激しく鼓動する。嘘であればいい、勘違いで済めばいいのだ。

指先は急がなければいけないことを分かっているかのように、葛藤する自分自身を置き去りにし迷いなく画面をタップしていく。勘違いだ、そう決まってる。

 けれど、開かれたメールボックスはそんな甘ったれた希望をガラガラと崩し、絶望と化してしまった。息が止まり、早鐘を打っていた心臓も静かになる。

 真実とは残酷だから隠される。これが真実なのだ。

 どん底に落とされてもなお指先は動き過去に遡ってメールのやり取りを見ていたが、ガチャっとお風呂の扉が開く音に再び心臓が飛び跳ね慌ててスマホを元の位置に戻した。

 鼻歌だ。何をそんなに浮かれているの。手が震えていることに気づき、そっと足音をしのばせ自室に戻った。

 相変わらず厳しい寒さが続く一月。スリッパを履き忘れ素足で戻ってきたことに気が付いたが、取りに戻ろうとは思わなかった。自室の扉をどこにも音が漏れないようそっと閉じ、手を離した。

 明かりはつけなかった。毎晩欠かさず書いてきた日記帳も開かなかった。LINEもそう。もう、喉元まで限界がきていて無理だった。

ベッドに足を滑り込ませ布団を頭から勢いよく被った瞬間、目から大粒の涙が溢れだした。

 分かっていた、答えなんて分かっていたくせに!嗚咽するのを必死に抑えながら、美波はそう自分に叫んだ。

『おはよう』『早く会いたい』『今日は二人きりになれて嬉しかった』『おやすみ』さっき見たばかりのメールの文面が次から次へと蘇えってくる。

決定的な言葉は無かった。けれど一日に何十件という数のメールのやりとりをしていた。これの何処を嘘だ、勘違いだと言えるだろう。

 涙はとめどなくあふれ目が熱を帯びていた。頬から感じる枕の布地はすっかり濡れていて気持ち悪いし、鼻もつまり息をするのが苦しい。深く深呼吸をするも、息が震えて上手くできない。代わりに嗚咽が出て慌てて口を押えた。苦しい、何もかも苦しい。

 夢だったりしないだろうか。時々、怖かったり、苦しかったりすると、夢落ちだったということがある。これもそうなるかもしれない。そうなればもうスマホなんて絶対覗かない。普段通りの生活をするし、愛を持って接する。一日一日に感謝して過ごす。だから夢であって。

 自室の扉がガチャリと静かに音を立てて開いた。思わず美波は息を止める。そして服の擦れる音と忍ばせるような足音が近づき、止まったかと思うと、頭から被っていた掛布団にそっと手が入ってきた。

頭に感じた温かな手は髪の毛の流れにそって幾度かゆっくりうごくと、またそっと離れ気配も遠ざかり扉の閉まる音が聞こえた。

 肩がゆれる。思わず布団の袖に噛みついた。そして声にならない声をあげ、また大粒の涙をこぼした。

 どうして!今の美波にはその言葉しかなかった。何度も何度も心の中で問う。なんとなく残った手の名残が嫌で撫でられた頭をかきむしった。

 大声を出して叫んでしまいたい。どうして、どうして裏切ったの、信じたかったのに!

 お母さん!

 抱えきれないような大きな裏切りを一四歳の美波は生まれて初めてうけた。


 あれ、そう思ったのはクリスマスイヴの日だったと記憶している。朝起きて洗顔をしようと洗面所に入ると、サッと何かをエプロンのポケットに隠した母がいた。

「おはよう」いつも以上に微笑みあいさつをして洗面所を出ていこうとする母に対して、うんとかああとか気だるげな返事をしながらこっそりエプロンのポケットに目をやれば、

縦長の四角のラインがうかんでいた。あれはスマートフォンに違いない。

 半年ほど前にガラパコス携帯からスマートフォンに買い替えてからというもの、機械に強くない母は必要最低限のことにしか使わず、正直、前の携帯のままで十分やっていける人だった。

 そんな母がずっとスマホをさわっていた。しかも、人の気配に気づかぬほど自分の世界に入り込んで。

 違和感を覚えながらも、顔を洗ってリビングに行くと、そんなことはどうだってよくなってしまった。

 双子の弟たちがサンタクロースの赤い帽子を取り合って楽しそうに部屋中を走り回っていた。クリスマスイヴの日はいつも朝から賑わっていている。

それに加えてその日はちょうど休日で、仲のいい友達と遊ぶ約束をしていた美波も心が浮き立っていた。キッチンでは先ほどの母が楽しそうに朝食を作り始めたところだった。

 その日は、違和感の正体を深く突き止めることもせず、楽しく過ごし、何でもないことだったと処理され、そのまま消えていくものだった。けれどその日を境に、持ってしまった違和感は消えるどころかさらに大きさを増した。

 母のメールの受信音が鳴らなくなった、いつも仕事のバッグに入れたままにしていたはずのスマホが母のエプロンのポケットにずっと入っているようになった、仕事が終わって家に帰ってきてもしばらく車から降りてこないことが多くなった、急に自分自身の食事に気を使いだした、一つ違和感を見つけるとまるで芋づる方式のように小さいことから大きいことまで違和感が見つかってくる。母の行動一つ一つが気になって、少しでもおかしいと思うたびに美波の心には不安が募っていった。

 そして母の誕生日を祝った一月の末、この頃の美波は母がスマホを操作するのを見る度に不快な緊張感を持つようになっていて、違和感はもはや怪しいという思いになっていた。

 母のスマホには何があるのか。最悪な内容を幾度か想像してみたが現実味がわかなかった。それは、正義感の強い母がそんなことするはずないという思いからだろう。しかしもし、母がそのようなことをしていたら、美波は母を咎める決意をしていた。

 家族がバラバラになってしまうかもしれない。それでも母のスマホの中身を知りたい、隠していることを暴かなければいけない。全てを知ってしまうことは怖かったが、怪しい、そう思いながら一緒に過ごすことの方が美波にとっては辛かった。

 そんな時だったのだ。母の誕生日を祝った後、自室に戻ろうとした美波の目にふと机に置き忘れた母のスマホが目に入った。

 お母さんは今お風呂に入っている、今しかない。美波にとっては絶好のチャンスだった。大きな不安だった。けれど美波の思考回路はこれを逃してはいけないと叫んでいた。美波はシャワーの音をたしかめ、震えながら母のスマホに手を伸ばした。

 結果、やっぱり最悪だったなあ。

 朝方五時、一睡もできなかった美波は勉強机の椅子に座り窓から外を眺めていた。といっても真っ暗な真冬の朝である。椅子の上で抱え込んだ足のつま先は冷えて感覚を失くしていた。

 小さい頃から正しいと思い、信じてきた母が、父以外の自分の知らない男性とまるで付き合いたての恋人のように毎日何度もメールをして浮かれている。嫌悪感と母が母でなくなっていく恐怖が美波を絶望に突き落としていた。

 今まで家族として一緒に過ごしてきた母に美波は愛されていると信じていたからこそ、母の裏切りは美波を苦しめる。美波にとって母は母であり、軽蔑することはできないと感じていた。再び溢れそうになる涙をこらえながら恨みをこめて想う。

 母を咎める心づもりであったはずなのの、いざ現実になったとたん薄っぺらい決断はあっという間に崩れた。自分は最初から母を切り捨てる潔さなど持ち合わせない人間だった。

家族という形が壊れ行くのを望めないのだ。

誰にも言えない大きな爆弾をこれから先死ぬまで隠し持って生きていかなければならない。

 暗闇は、壊す力を持ってしまった美波をさらに追い詰めるかのように静かに黒く、朝の光を見せてくれないような気がした。

 気持ちの悪い暗闇だった。


「37.8…」母の語尾が小さくなった。朝、美波の望んだ朝の光は、美波を暗闇から連れ出してはくれたが、もとの生活に戻してはくれなかった。

 悲しみ、恐怖、嫌悪感、美波の身体は正直にそれを吐き出そうとした。胃液と涙が垂れ落ちる便器に芳香剤のバラの香りでさらに吐いた。

 母は忙しいのにという顔をしながら体温計を渡してきたが、熱があることがわかると態度をかえた。

「今日どうする」

「…休みたい」

「でも今日から職場体験でしょう」

「…」

 はあ、と大きなため息をつくと母は「学校には連絡しておくから」と言って部屋を出ていった。玄関から「行ってくるね!」と双子の兄弟の凪と滉の声が響き、それに対して「いってらっしゃい」と母の声も聞こえた。しばらくして母も出ていく音が聞こえ、車の音が遠ざかっていった。

 父も朝早くに出て行ってしまったため、美波しかいない家は静まり返って時計の秒針だけとなった。

 急に怒りが込み上げて、拳をクッションに叩きつけた。

 誰のせいで!

 心の底から叫ぶのに声にならない。今朝もポケットにスマホが入っていた。きっと朝からメールしたんだ。『おはよう』『今日も会えるね』って。絶対そうだ、そう違いない

 「ううっ…」とおえつが漏れる。家にはもう誰もいないのにそれでも美波は声を上げて泣くことができず、自分がどれほど弱虫なのかを思い知った。

 ずっと真実を誰にも言わずに生きていくしかないだろう。お母さんは自分たちを裏切った、それが真実なのだ。けれどこのことはまだ自分しか知らない。

 頭に凪と滉の顔が浮かぶ。あの子たちはまだ小学生だ。母親という存在が必要だ。奪うわけにはいかない。正当化するように美波は心の中で自分に言いきかせた。

 みんな何も知らないということは、現実に何も起こっていないということと等しいのだ。自分の当たり前だった日常が少し違って見えるだけなんだ。

 灯りの調節をするようにゆっくり目を閉じる。

 本当は誰かとこの苦しみを分かち合いたい。けれど知られてしまえば、この真実はより浮き彫りになってしまう。それはより恐怖に美波を陥れるに違いなかった。

 もとの母に戻ってくれる日を待つしかないのかと美波は思った。そしてやっぱりスマホの中身なんて見なければよかったと後悔し、そのまま意識が遠のいた。

 母からの着信音で目が覚めると、もうすっかり夕方になっていた。

「もしもし」身体を起こしスマホをスピーカーに切り替えて画面に話しかける。

「あ、美波?体調はどう、良くなった?」

静かだった部屋に母の声が響き渡る。

「まあまあ」

「熱は」

「計ってない」

「すぐ計りなさい。今から帰るから、そしたら病院に行こう」

「…病院行くの」

「当り前よ、薬貰わなくちゃ。インフルじゃないといいんだけどね」

「…わかった」

 そういうと電話は切れた。美波はすぐ体温を計って母にメールした。微熱だった。美波は立ち上がり着替え始める。

 こうやって、心配してくれるのにどうしてなのだろう、どうして過ちを犯してしまっているのだろう。

 母のメールの相手の「和田さん」という人に今日も会ってきたのかと思うと、また、胸が苦しくなった。ブラウスのボタンをかけていると鏡の自分と目が合い、あまりにも惨めで弱弱しかったので、皮肉を込めて笑いかけてあげた。

 着替え終わってキッチンに向かうと美波の朝ごはんがあった。母が用意していったのだろう。美波はそれを全て三角コーナーに捨ててしまった。すぐ目につくだろうなあ。母の悲しそうな顔を想像するだけで、泣きたいくらい笑えた。

 母の車の音が聞こえてくると、美波は保険証と診察券をポケットに入れて家を出た。

「熱計った?」

 車に乗り込むと母が声をかけてくる。

「メールで送ったよ」

「そうなの?メールみてないのよ、どうだった」

「37.3、微熱」

「朝よりは下がったね、よかった」

 ハンドルを切り、小さな小道から少し大きな通りに出れば、窓から大きな海が姿を現した美波の通学路だ。西日のさした海はキラキラと光り輝いている。

 美波たちはこの島の人間ではない。五年前に転勤で越してきたのだ。越してきてから美波の心を奪ったのはこの大きな海だった。海がたくさんの表情を持っていることを美波は初めて知った。季節、気候、時間によってこの海はいつも違った姿をみせてくれる。その度に心を動かされる美波はこの胸を締め付ける感情に名前を付けられずにいた。

この大きな海がいらない持ち物を流し去ってくれないだろうか。この大きな海なら本当にできるような気がすると美波は思った。

「美波、あれ英太郎君じゃない」

 車を減速させて呼びかけてくる母の声に美波は視線を前にやると、学生服姿で自転車を走らせてくる姿があった。

 えいちゃん―

 自転車は対向車の向こう側にあるため、こちらには気付かないと思ったが、車とすれ違い際に目が合ったような気がした。

「英太郎君、身長のびたよねえ、小学生の頃はとても小さかったのに」

 ふふふ、と母が笑う。

 英太郎は美波たちの近所に住んでおり、美波が越してきてから初めてできた友達だった。近所の子供は英太郎くらいしかいなかったこともあってか、互いの家を行き来するほど仲が良かったのだが、それは小学生までの話で、中学に上がってからはクラスも離れ、交友関係も広がったためか話すこともほとんどない人となっていた。

 病院は多くの患者であふれて長い時間待たされた。わっかてはいたが痛い思いをして検査したインフルは反応が出ず、風邪だと判断された。

 職場体験に出られたのはそれから三日目の最終日だった。あんなに美波は絶望していたのに、周りの環境は何も変わらず、平穏な一日で、美波にはそれが不思議な感覚だった。

「吉岡」と、体験を終え学校へ報告書を提出し、友達の夏子と帰ろうとしていた所を担任の川口先生に呼び止められて、職員室に来るように言われる。夏子とはそこで別れて川口先生についていった。

 職員室の椅子にドカッと座った川口先生は「最終日だけでも行けてよかったな」と笑い、職場体験の欠席理由を書く用紙を渡してくれた。「本当は全部出たかったんですけど」と美波は眉を下げて笑い、一言二言職場体験の話をした後、頭を下げて職員室を出た。

 夕日が窓から差し込んでいて美波は目を細める。冬の日没ははやい。あっという間に日が暮れて暗くなるだろう。美波は気が重くなりながら荷物をとりに教室へ急いだ

 階段を登り切った所で美波は向こう側から歩いてくる英太郎と目が合った。報告書を手にしているから担任の先生に出しに行く所なのだろう。英太郎のクラスの先生はさっき職員室にいた。

 いつもはしないが人が誰もいなかったこともあり美波は英太郎ににこりと笑いかけて横を通り過ぎた。

「待って吉岡」

「え」

 いきなり手首を掴まれ驚いて振り返ると英太郎としっかり目が合ってしまい、英太郎もあ、となって目をそらした。

「そのさ、身体、大丈夫か」

 英太郎の目が伏せる。

「あ、うん、インフルでもなかったから二日も休んだからさすがに。心配してくれてありがとう。でも休んでたことよく知ってたね」

「え、あー、凪と滉が教えてくれたんだ。お姉ちゃんが朝からゲーゲー吐いてたってさ」

「また余計なことを!」

 思わず悲鳴をあげる。どうしてそんなことを人にべらべら喋るかな、よりによってえいちゃんに話すなんて。

 信じらんないと呟くと英太郎は可笑しそうに笑った

「大丈夫っしょ。他の奴にはきっと話してないよ」

 その根拠が美波には分からず、それをどういう、そう言いかけたところで階下から「堀田」と呼ぶ声が聞こえた。英太郎の担任だった。

「報告書まだ出てないぞ」

「あ、今出します」

 美波はふと視線を落とすと手を掴まれたままだったことに気が付き慌てて手を引っ込めた。

 恥ずかしくなって、一歩その場から引き下がると、「じゃあ」そう言って逃げるようにその場を去った。

 手に感触が残っている。恥ずかしくも、久しぶりに英太郎と会話できたことが嬉しいと、身体中が叫んでいた。家路につく間もずっと英太郎の昔の頃のような笑顔を思い出し喜びに浸っていた。

けれど、家の前に母の車が停まっているのを見た途端、また美波を重苦しくさせた。

 美波に気づいていない母は車の中でハンドルを見つめながら顔を綻ばせて誰かと電話をしていた。


 三月、卒業のシーズンだった。美波は真実を隠したままの生活を続けていた。学校では普段通りに過ごせている。けれど家では母への嫌悪感をずっと抱いていた。スマホを操作している姿を見ると美波の背中はゾクリと栗立つものを感じ、母が美波を叱ってくる時は、自分の事を棚に上げて母親ぶることが憎く、腹立たしく、自分がどうにかなってしまいそうだった。それでもずっと隠してこられたのは美波が弱かったからだろう。母に関わることが嫌で最近は学校から帰ってくると自室に引き籠るようになっていた。

 戻りたい、ベッドに潜り込んだ美波はスマホでネットサーフィンしながらそう思った。

 いつだっていい。今、真実を知る前ならいつでもいい。人間関係とか、進路のこととか、そんな悩みより家族の裏切りの方がよほどつらい。友達、先生は所詮他人である。けれど母は他人ではない。絆や血の繋がりという言葉では足りないくらい、太い何かで繋がっている。美波と母の間のその繋がりは、違和感を覚えた時から亀裂が生じ、真実を知ってしまった時に殆ど切断されてしまった。今まで味わったことのないこの痛みに、これから先も耐えていくのだと思うと絶望的だった。

 誰にも言えない、その道を選んでいるのは自分自身なのに、苦しい。

 ネットで「不倫」と検索をかけると、それを咎める書き込みが沢山なされていた。でもそれは美波も分かっている。モラルに反することでやってはいけない事だと分かっている。けれどそれを、美波に言わないでほしい。

 検索を変えて「不倫 母親」とすると、美波と同じような苦しみを抱えた書き込みが多く現れた。

 ふと“お母さんも一人の人間”という文が目に入った。美波はそれに目を通す。

 モラルだとか、周りの人間がどう思うかということではなく、お母さんは母親である以前に、一人の女性であり、一人の人間であって、誰を好きになってもその気持ちはその人の自由であって誰も侵害できないというものであった。

 そこではたと気付く。

 母は善悪が判断できない人ではない。母の行為は自分で悪だと分かっているはずなのだ。そう、つまり、

 本気で相手を好きになってまったんだなあ。

 喉が苦しくなる。そもそもどうして不倫をしてはいけないのか、美波は答えられない。モラルに反するからでは納得できない。それなのにこんなに苦しくて母が憎いのは、父や家族以外の人を母が愛してしまったということが嫌なのだ。

 母を咎めた所で、母が相手を想う気持ちはゼロにはならない。きっと悲劇のヒロインになるだけだ。

 ああ、また自分の荷物を重くしてしまった。

 悲しみに蓋をするように美波はそのまま眠りについた。

 卒業式を終え、先輩たちを見送り終えた美波は生徒会室で一人ため息をといた。生徒会の役員である美波は、あさからずっと働き詰めでやっと一息付けたところだった。

 でも委員会の資料作ってしまわないと。

次回の生徒会の集まりは春休みとなったが、美波はそれまでにやらないといけないことが山積みだった。

パソコンに向き直り、資料を打ち込み始めたところに「あれ、吉岡さん来てたんだ」と声がかけられた。振り返れば新生徒会長の前田が部屋に入って来た所だった。

「ああ、前田君。今日の送辞お疲れ様」

 前田はありがとうと笑って、何してるのと美波に尋ねてきた。

「委員会で配る資料準備しておこうと思って。前田君はどうしたの」

「俺は引き継ぎのファイル取りに来ただけ」

 そういって美波の隣にドカッと座り、どれどれ、と美波のパソコンを覗き込んでくる。

「先輩がデータ失くしちゃったみたいで作り直してるの。去年の資料をコピーすればいいんだろうけど変更点が多くてさ。今打ち直してるところ」

 といっても私タイピング遅くて中々進まないんだけどね、と笑うと、前田が美波からキーボードを取り上げた。美波が驚いていると、前田は慣れた手つきで文書をカタカタと打ち込み始めた。

「わあ、すごい。前田君タイピング早いんだ」

「まあね。家でゲームをよくやってるから」

 美波は前田のタイピングにすっかり感心してしまった。

「前田君、部活はやってないの?」

「俺はバスケ部だよ。今日は卒業式だったから休み。吉岡さんは美術部だったよね。行かないの?」

 そういえばえいちゃんもバスケ部で、一緒にいるのをよく見かけていた。

「うん、だけど作品作ってしまえば行く必要ないから」

「ふうん、吉岡さんは真面目だね。俺ならとっとと家に帰ってゲームするけどなあ」

 家に帰りたくないの、という言葉を堪えて美波は笑った。

「何言ってるの、今日の送辞すごく頑張って練習してたじゃない。夏子ったら聴きながらずっと泣いてたんだから」

「ははは、夏子は本当によく泣くよなあ」

 同じ生徒会役員の夏子が泣いてる姿を思い出し二人して笑い合い、そしてどんどん打ち込まれていく文書を見ながら前田と他愛ない話で盛り上がった。

「おい、前田いつまで待たせるんだよ」

 そういって扉を乱暴に開き生徒会室に入って来たのは英太郎だった。急な訪問に目を丸くする美波に、英太郎も美波の存在に気づき驚いた顔をする。

「いっけねえ!すっかり忘れてた」

 前田が慌てて立ち上がる。

「吉岡さんごめん、俺、堀田と帰る約束してたんだ。これはまた今度な」

 コクコクと頷くと、前田は荷物をまとめて出ていこうとした。けれど何か思いついたように美波を振り返った

「吉岡さんも一緒に帰る?」

「え」と、思わず声が上ずる。

「俺、吉岡さんともっと話してみたいし。いいよな、堀田」

 前田が英太郎を振り返ると、物凄い剣幕で英太郎が美波を睨んでいた。美波はドキリとして慌てて、もう少し残るからと伝え断った。

 前田も無理強いするつもりはなかったらしく、英太郎と一緒に出て行ってしまった。

 生徒会室に再び静けさが戻り座っていた椅子に背中をもたれる。そして自分も英太郎と帰りたかったなと心の中で呟いた。

 卒業式が終われば、修了式がくるのもあっという間だった。前夜、特に課題も出されなかったため寝るだけだったが、美波はふと母のスマホの存在を思い出した。あの夜以来怖くて遠ざけていたが、どうしてかまた見てみようという気持ちになった。美波はまた母がお風呂に入っている時を狙い、誰にも気づかれないように母のスマホを開いた。

 相変わらずメールのやり取りが続いていて、慣れたわけではないが、美波はもう驚かなくなっていた。

 胸やけしそうなほど甘ったるい言葉に苛立ちを覚えながら、何かに使えるかもしれないと、「和田さん」という名前をタップして電話番号をメモした。そしてスマホを閉じようと思ったが、美波は違うことが気になった。

 お母さんは普段ネットで何を検索するのだろうか。

 どうしてこんなことが気になってしまうのか。これがオンナの勘というものなのだろうか。あんなに怪しいの美波以外の家族が母を訝しがらないのが不思議だった。

 母が検索履歴など消すタイプではないと分かっていた美波は履歴をタップした

“安全日”

 え―

 時が止まってしまったかのように美波の頭は真っ白になり、“あんぜんび”というものが一体何なのか、しばらく理解が追いつかなかった。

“安全日”という文字の下には“安全日の計算”“危険日”と、交わることを前提とした言葉が沢山並ぶ。

 美波の中で、母と繋いでいたものが完全に切れ去った。

 ああ、もうダメだ。ここまできていたとは。自分はもう耐え忍べない。ごめんね、もう無理よ。さようなら私のお母さん。あなたのことをお母さんだと想い続けることは無理なの。もう昔のあなたの存在を守ることはできない。

 自室に戻り、美波は一人静かにすすり泣いた。

 春が来ていることを自覚させるように、翌日は気温が上がり、春の鳥がさえずる声が聞こえた。

 修了式を終えた美波は防波堤に座り海を眺めていた。

 胸いっぱいに潮の香りを吸い込むと、なんだか美波自身も海の一部になった気分だった。今日もこの海は広く、大きく、ここにあった。

 時々想像していた。もし自分が母のことが原因で死んでしまったらと。きっと周りは母に冷ややかな目を向け、父たちは母を責め立てるだろう。でも、それ以上に、母は自分がしでかした罪の深さに苦しみ、きっと美波の後を追って自らも死を選ぶに違いない。けれど、美波はそれを望まない。あの人にそうなって欲しいわけではないのだ。ではどうなることを望むのかと問われれば、何も望む道が見えない。ただ、あの人が自分たち以外を愛してしまったという事実が苦しいのだ。もう、自分という存在を、概念を消してほしかった。

「何してんの」

 キキィ、とブレーキをかける音に振り返ると、自転車にまたがった英太郎がいた。

「堀田君。うん、ちょっと感傷的になってた。潮風がなんだか心に染みるの」

 馬鹿にされるかと思ったが、英太郎はそれに対して何も口にせず、美波と同じように海の遠く遠く先を見つめた。

 昼時で行き交う車もなく、まるで二人しかこの世界に存在していない気がした

「なあ」

「ん」

「この間、前田と何してたの」

 この間というのが、生徒会室での出来事というのはすぐ分かった。

「生徒会の仕事手伝ってもらっていたの。待たせたみたいでごめんね」

「いや、吉岡はなにも…あのさ、」

「なに」

 美波は海に向かってぶらつかせていた足を折って、身体ごと英太郎に向けた。

「好きじゃないよな」

「へ?」

「前田のこと!」

 顔を赤くした英太郎がこちらを睨む。

 なんでそうなってしまったのか、美波は首を何度も横にふるう。

「好きじゃないよ!恋愛感情持ってない!」

 美波が叫ぶと、英太郎は明らかに安心した顔を美波に向けた。

「え!もしかしてえいちゃん、前田君のことが好きなの?」

「はああ?」

 思わず身を乗り出して訊くと、英太郎にあり得ないという顔をされた。

「なんでそうなるんだよ!そんな訳ないだろ!俺はみいのことが好き…」

 やってしまったという英太郎の表情に、美波は自分の身体の熱が上がるのを感じる。

 英太郎はため息をつきながら前髪をぐしゃっとすると、そこから熱っぽい潤んだ瞳を覗かせ美波に告げた

「みいが好き、だから俺と、付き合って」

 ぶくぶくと彷徨っていた海底から、やっと海面に顔を出し、空気をいっぱいいっぱい吸えたかのように美波の気持ちは溢れた。

「そういうことだったのね」

 嬉しさと一緒に、美波から熱い涙がボロボロと零れた。

「みい?」

 ガシャンと自転車が倒れる音とともに、英太郎が美波に駆け寄った。美波は英太郎の両手をとり自分の指を絡める。

「ありがとう…」

 美波は精一杯声を絞り出す。

 誰かに想ってもらえるってこんなにも幸福で満たされるのね。なんて最悪で最高な日なのだろう。

 脳裏をあの人の顔が過る。そして自分はオンナになっていくのだと、身体中から溢れる喜びが身をもって教えてくれた。

 涙が止まらない。英太郎は心配そうに美波に呼びかける。もうきっとこの世界には英太郎と美波の二人だけしかいないのだろう。

「ありがとう、えいちゃん、嬉しい…」

 英太郎は笑みを浮かべ、二人は手を繋いで帰路についた。


 三年生の夏休みはあっという間にやってきた。

 美波の家は表からは分からないものの、内側からは崩壊気味のようになっていた。

 原因は美波である。父や母とは必要最低限でしか口を利かなくなってしまった。ずっと部屋と学校の行き来状態となってしまっている美波を母は心配し、何かあったのかと美波の心身を案じたり、どうしてそんな態度なのかと逆ギレされたりもしたが、美波はそれらに対して全く関心を示さなかった。その結果母は情緒が不安定になってしまったのか、一気に老け込んでしまった。

 父も美波の態度にはらが立ったのか叱ってきたが、部屋ではずっと勉強をしている美波が「邪魔しないで」と一言いえばそれまでだった。

 美波は今日から祖母の家に行く。美波は卒業後島を出て都会の高校に行くことにした。そのため学力を上げなければいけない美波は夏休みに都会に住む祖母の家から、高校の近くの塾へ夏期講習に通うことにしていた。

 RRR…RRR…RR

「はい、もしもし」

 聞いたことのない、知らない、低くて落ち着いた声が、防波堤に座る美波の耳に入ってくる。

「あの、もしもし」

 向こうの声が戸惑いゆれる。

「あの」

「はい」

 手にしたメモ用紙に力が入る。脅しや、文句の一つでも言ってやろうと思ったが、それを口にすることはやっぱりできなかった。

「すみません、間違えたみたいです」

 そう小さな声で伝えると、「いえ、大丈夫ですよ」と言って切られた。

 とても優しそうな男性の声だった。

 朝なのに、もう日はたかくのぼり、美波の頭皮をじりじり焼き始める。

 それでも遠くからやってくる潮風が気持ちよくて美波はしばらく目を閉じた。波打つ音、船の汽笛音、背後で行き来する車の走行音。今日もまたこの島の一日が始まっていく。どんなに大きな秘密を抱えていても、生きている限り何度だってするどんなに大きな秘密を抱えていても、朝はやってきて、そしてまた心に秘めたまま夜を迎える。

 少し前の自分なら、恋愛なんて何かの真似事のように思えて仕方なかった。けれど、今ならオンナの愛というものがどれだけ本気なのかよくわかる。彼と目が合うだけで幸福に包まれ、彼に名前を呼ばれると身体中から歓喜する。

今の男の人も、その声であの人の名前を呼ぶのだろうか。そしたらあの人も、美波がそうであるように、この世界には二人しかいないという幻を見るのかもしれない。そして二人だけの秘密という鎖が更に二人を巻き付け、まだ美波の味わったことのない、深い、愛の快楽へと落ちていくのだ。

ずっと少女のままでいたかった。清いままでずっと。けれど愛され愛す幸せを知ってしまったら、もう止められなかった。オンナとしての欲望が身体中を熱くして、少女としての美波を塗り替えていく。愛することが悪だとは、美波には言えなかった。

一人の人間かあ

強い風が美波の髪を巻き上げる。

「わ!」

 誰かに急にわき腹を掴まれ、美波は悲鳴をあげた。

「はは!こんな朝早くから何やってんだよ、また感傷的になってた?」


そう言って美波の隣に座り込んできたのは英太郎で、ぴったりとくっつき美波の手に指を絡ませた。

「えいちゃんくっつかないで、暑い!」

 英太郎を体で押し返そうとしたがびくともせず、二人はさらに密着する体制になってしまった。

 英太郎は最近さらに身長が伸びた。身長だけではない、肩幅も広くなって、いつも繋ぐ手もゴツゴツ角張り、英太郎もオトコなのだと自覚する。オトコであある英太郎からもっと愛を欲する美波も、英太郎からはオンナに見えているのかもしれない。

「えいちゃんは今日なにするの」

「今日は前田がうちに来て勉強することになってるんだ。だから今食うもの買ってきたところ」

 英太郎が美波にレジ袋を掲げてみせる。仲いいよねと言うと、不服そうに恋愛感情はないからなと念を押された。

「美波は今日からあっち行くんだよな」

 あっちとは都会のことだろう。

「うん!あーあ、勉強したくないな」

「あっちの高校受けるんだ」

「まあね」

「…この島じゃダメなのか、そりゃあっちに比べたらバカだけど、一応進学校だから勉強もできるだろ。それに、俺もいるし」

 最後の声は儚く消えてしまいそうで、英太郎の瞳は切なそうに揺れた。胸が締め付けられ、ここにいると叫んでしまいたかった。

「ごめん、決めたことだから」

 握られた手に力を籠めると、英太郎は落胆した様子で、そっかと唇をきつく噛み締めた。

 ボーという出航の音に二人して顔をあげると、太陽の光をめいっぱい浴びた海の上をまるで新たな道を作るように前進し、水しぶきをあげて波跡ができていく。開拓者のように船は地平線の向こうへ消えていった。

「俺さ、この海が好きなんだ。こうやって船の跡のこしたり、波が太陽に煌めいたりするのが、本当に綺麗だな、美しいってこういうことなんだって、この海を見る度思うんだ」

 ああ、こうやって美しいものは美しいって、好きなものは好きだって、素直に言葉にできるところが本当に大好きなんだよね。

「俺はこの島ことしか知らないけど、この世界が美しいことは誰よりも知っていると思うんだ。だからさ、俺はこの島でこの先もずっとみいと―」

 英太郎に顔を近づけると、言葉を遮るように唇を重ねた。

 英太郎の薄い唇からなのか、美波からなのか、熱い血流が二人の間を流れているようだった。

 そっと英太郎に微笑みかけると、英太郎は顔を赤くし、言葉にならないのか口をパクパクとさせた。美波も耳まで火照るのを感じる。

「波が美しいなんて、私に言ってる?」

「バカ!」

 前髪をクシャっとさせた英太郎は、自分からするつもりだったのにとため息をついた。

「えいちゃんがもたもたしすぎなんだよ」

「え、もしかして待たせてた?」

 焦ったように顔を近づけてくる英太郎に、美波は首を横にふるう。そして英太郎の瞳をしっかりみつめた

「えいちゃん、好きだよ。大好き」

 英太郎が目を丸くする。美波のこの溢れるような気持がしっかり伝わっているだろうか 

「はじめてだ」

「え」

「美波が好きだって言ってくれたの、はじめてだ」

 美波は息をのんだ。思い返せば美波の口から英太郎に自分の気持ちを伝えたことはなかったかもしれない。いつも好きという言葉を口にするのは英太郎だった。どれだけ英太郎を待たせてきたのだろうと考えると、胸が痛んだ。

 英太郎の首に腕を回し抱き寄せる。

「大好き、大好きだよ。ごめんね、寂しかったよね。えいちゃんのこと大好きだから。愛してるから」

 耳元で英太郎が笑う。

「なんだよ、急に素直だな」

 美波の腰に手を回すと、美波に覆いかぶさるように体ごと後ろに倒れこんだ。

 思わぬことで、キャっと叫びながら反射的に足が宙を蹴り上げると、サンダルが投げ出され、ぱしゃん、と小さな音を立てて海に落ちてしまった。

「あ、わり…」

 片足を縛り付けていたものが無くなり、開放的になる。

 地平線の先へどんどん流されていくサンダルは美波をこの島ではない、新たな世界へ導いてくれているようだった。

 もう片方のサンダルも脱ぎ取って、海へ大きく大きく放り投げた。さっきよりも大きな音を立てて海に落ちる。

「おい!」

 英太郎の驚く声がしたが、お構いなしだった。

 そうよ美波、ふみ出さなければ。これは私の人生なのだから。たかの生き方なんて関係ない。幸せになれるかどうかは私次第なのだ。私は何処へだっていける。生きていれば、海があれば、何処へだって行けるはずだ。

 帰りは英太郎におぶってもらった。

 車で横を通り過ぎる人や、近所のおばちゃんに見られているようだったが気にならなかった。

「みいは結局、どうしてあそこに座ってたんだよ」

 よいしょと、美波をおぶり直しながら英太郎が尋ねる。

「でんわしてたの」

「電話?誰と」

「知らない人」

「はあ?」

「でももういいの。私の人生には関係ない人だったから」

 美波は愛しい人の背中に顔を埋めるように、ぎゅっと抱きしめた。

「みい、あんまりくっ付かないで」

「ごめん、暑かった?」

「いや、違くて。その、胸が当たるんだ。」

 自分の胸を見下ろす。中学にあがって、ここもオンナらしく膨らみを増した。もう最近では大人の下着を着けることに抵抗がなくなっていた。

 美波は後ろから英太郎の両頬を指でつねり「えいちゃんの変態」と言った。

 いたい、いたい、ごめんって、そう言いながら二人で笑って家に帰った。

 出迎えた母は、美波が裸足で英太郎におぶわれている姿に驚いていた。しかしそれよりも晴れやかに笑っている美波に戸惑っているようだった。


 夏期講習が終わり、島に帰ってきた美波は母が出迎えたことに驚いた。こういう時に迎えに来るのはいつも父なのだ。

 母は夏期講習の感想を美波に尋ねてくので、適当に答えていたが、美波はそんな母の雰囲気がいつもと違うような気がした。

 まるで諦めがついたように、活気がないのだ。萎れてしまった朝顔のようだった。

「そうそう、お母さんね、スマホ替えたの」

「え」

 そう言ってハンドバッグからスマホを取り出すと、美波の目の前に出した。

「わあ、新しい機種なんだね」

「そうなの。お母さん使い方がまだ分からないから美波、教えてね。」

「どうして替えたの」

「うっかり壊しちゃったの」

 母はそう言って弱弱しく笑った。

 そして帰宅した美波は何となく察した。夫婦の心室の壁に大きな凹みを見つけたのだ。明らかに、何か一悶着あった後だった。夕食時も、普段通りではあるのだけど、母が父に遠慮するような、どこかよそよそしさがあった。

 父も知ってしまったのだ。

 美波は普段通り過ごそうとする父を伺いながらそう思った。

 ばれてしまったのか、それとも母が罪を感じて伝えたのか、それは美波にはわからない。

けれど私たち子どもの前では普段通りに過ごそうとしているということは、これは家族間ではなく、夫婦間の問題として水面下で処理しようとしているのだろう。どう答えが出るかワカラナイ。ある程度の覚悟は必要だろうと思った。

 しかしそれよりも、美波はこれまで抱え込んできたものが急に軽くなり、それが嬉しくて仕方なかった。羽が生えたように身体が軽かった。

 真実を知っているのはもう美波だけではない。それがどんなに美波を身軽にしたか。

 これからきっと父は一人で苦しんでいくのだろう。美波のように母を憎むに違いない。

 可愛そうだと思ったが、二人が夫婦間の問題にするのなら、美波にはどうすることも出来ないと思った。

 その後月日は流れたが、美波たちの家族は特に何事もなく、平穏な日々を送れていた。母の怪しい行動を見かけることもなくなったからか、美波もまた家族に心を開けるようになっていた。

 当の母は、今まで以上に教育ママとなり美波や凪と滉に執着するようになっていた。

 モラルや家族という存在を無視してでも選んでいた恋を失った今、母の唯一の生きがいは私たち子どもであった。そんな母に対して、背中にうすら寒さなるものを感じたが、もう美波には関係のない話だった。

「もうすぐ、行っちゃうんだな」

 卒業式の前日、海を見つめながら英太郎が小さく呟いた。

 今日は灰色の雲が空を埋め尽くしているせいか、海は輝きを失い怪物のようにうねっていた。

 突風が吹き、二人は体を寄せ合い、絡め合った手に力がこもった。

「あのサンダル、どこ行ったんだろうな」

「あはは、そんなこともあったね」

「どこかの原住民か履いてたりして」

「まさかあ、えいちゃんも靴投げてみたら?」

「いやいや、明日どうやって学校行けばいいんだよ」

 二人で笑いあったあとしばらくまた海を眺めた。

「なあ」という英太郎の声に顔をあげると、唇が重なった。美波もそっと目を閉じる。

 英太郎のキスは、頬や鼻、おでこ、いたるところに降ってきた。そしてまた、唇に戻る。

 長い長いキスだった。

 唇が離れて、お互い寂しく笑うと「行こう」と言いて、寄り添い歩き出した。

 後ろから防波堤に打ちつける波の音がきこえる。自分の存在を主張するように。

 ええ、わかっている。海はずっとあるから。

 私たちが変わってしまっても、海は変わらず、そのままでいてくれるから。きっと大丈夫。進もう。


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