1 悪夢《トラウマ》
話の流れ的に長くなってしまってすみません……。基本的に2000~4000文字くらいでまとめる予定です。
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『果てしなく内気で消極的』
クラネス領の外れ、エルヴェ山脈の麓にある小さな村――コルトー村の井戸端会議で下された評価は、同じ村に住むルーク・ブライトウェル少年のものである。
この世に生を受けて未だ五年ほどしか経過していない彼ではあるが、当の本人もこの歳でその陰気な性格を認めていた。
しかし村人たちはそんな評価を下しながらも、根暗な面もルークの一つのアイデンティティと捉え、他の子どもたちと差別することなく可愛がっていた。
そんなルークには尊敬する人物がいる。ブライトウェル家の隣家に生まれた少女、名をアレン・ユークリウスと言う。ルークと比べると三歳年上のお姉さんにあたる。
腰あたりまで伸びた艶のある髪からイメージされるおしとやかな風貌ではあったが、その外見に似つかず男勝りな性格を持っていた。
さらにその卓越した運動能力に加え明晰な頭脳も持ち合わせている完璧超人。当然ルークは自分の性格とは対照的なアレンが放つカリスマ性に憧れ、アレンの行く先には必ずついて行った。アレンもルークを煙たがることなくむしろ気にかけており、三歳の年齢差はあったものの、二人は親友として良好な関係を築いていた。
そんなアレンの両親は彼女に定期的に領の中心地クロスディグレーに御つかいを頼んでいた。
生活必需品は行商人が月に何度か訪れるためそこまで必須ではなかったが、両親は彼女に農村を出て町に行き、そこで知見を広げてほしいという思いから命じていたのだ。
八歳ではあったがアレンなら、ということで止める者はいなかった。
当然ルークも親の許可が渋々出ると、アレンと共に御つかいに出かけた。
コルトー村からクロスディグレーの距離は相当なものではあったが、三〇分ほど歩いた距離にあるマルク村の停留所に止まる乗合馬車を使えば、朝に出て晩御飯の夕暮れ時には帰宅することができた。
「いってきます父さん、母さん」
「気を付けろよールーク」
「毎度ながら不安だわ……アレンちゃん、うちの子をよろしくね」
「はい。何があっても僕が必ず守り抜いてみせます」
だからあの日の朝も、二人は村をいつも通り出発した。
☆
夕暮れ時。昼と夜が交差する、茜色の空が一面に広がっている。
村に到着した二人の柔和な表情は一転し、そんな平穏な空模様とは真逆を行くように、蒼白に凍りついていた。
「なんで……」
朝村を出る前は確かにそこには平和な村が存在していたはずだ。
しかし、今は灼熱の橙色と黒炭の塊と化した木材が一面に広がっている。
火の粉が舞い、二階建ての家屋は焼け落ちる。目の前に広がる絶望的な状況に、ルークは無気力に立ち尽くしたまま、茫然と炎熱に取り巻かれた村を眺める。
「ああ、くそっ」
一方でアレンもまた、胸を締め付けられるような思いでその光景を眺める。しかしルークとは違い、一体なぜ村が燃えているのか、状況を理解しているようだった。
しばらく考え込むアレン。
「ルーク。今すぐ逃げるんだ。途中分かれ道があったな、曲がって道なりに行けば隣村のマルク村がある。そこの村長にこのことを報告しに行ってほしい。できるな?」
「でも。逃げ遅れている人がいるなら助けなきゃ……お父さんお母さんだって心配だし」
「……ルーク、これは山火事なんかじゃない」
「え……?」
アレンは重い口調で告げる。
ルークにとって火災が起きる要因は、それしか考えられなかった。
確かにエルヴェ山脈では度々山火事が発生する。だがこの付近で火災が発生しているのは明らかに山の谷間に広がるコルトー村の集落のみであった。村の左右に茂る山林はまるで何事もなかったかのように静寂を貫いていた。
「なら――」
「誰かが村に火をつけたんだ……それに、村の皆はもう――」
アレンが首を横に振る。普段は冷静さを欠くことのない彼もその凄惨な光景を目の前に、唇を噛み、拳を固く握りしめて震わせる。
そんな平静さを失いかけている幼馴染を見て、ルークは言葉を失う。
もしかしたら、お父さんもお母さんも……。その可能性を考えれば考えるほど、ルークの精神は絶望へ打ちひしがれていく。
黒煙は天高く昇る。地は焔に轟轟と焼かれる。灰の靄が二人の視界を邪魔し、手前から奥は目を凝らしても視界がぼやける。
その時炎を一瞬動かせるほどの突風が、二人にとっては背後から押される追い風が吹いた。立ち込める黒煙が消失し、わずかな時間だけ靄も消えた。
丁度村の入り口から近い距離にあるルークの家が見えるほどに。
「ルーク見るな!」
アレンが叫ぶ。すぐさまルークの目をふさごうと体が動いた。
靄の向こう側に見つけたそれを、ルークに見せるわけにはいかなかったからだ。
「あ――」
しかしアレンの忠告は虚しく。
その風は不幸をもたらす風であった。
それを見て、ルークの心臓は鼓動を止めていくかのように徐々に凍り付いていく。思考能力は完全に停止のサインを告げ、脳の処理が追いつかない。
もはや体のバランスを維持することすらも忘れて、ルークは固い地面に膝から崩れ落ちた。
「お父さん、お母さん、の、あ、足は、どこ――あれ、ない? 斬られた? なんで? あ――だから、からだの、見えて、あれ、なかみが――中身が――いっぱい。出て――見え」
無惨にも半身を切断され、使い古された人形のように虚しく転がる骸が二つ。
理解できない、理解したくない事実が、ルークの脳裏に刷り込まれていく。
ただ茫然と醜怪な両親の果てを目にするルークに、アレンは何をすることもできなかった。
「ううぇ……」
常識的でないその違和感をようやく理解した瞬間、ルークは吐き気に襲われ咄嗟に口を押えた。胃が食道を通り抜けて口から飛び出しそうな感覚だった。
漏れ出た吐瀉物が手のひらから零れ落ちる。
吐き終わっても尚、過呼吸は続き、今度は胸を押さえる。未だ涙腺は機能せず、まばたきすらできない彼の目は乾いたまま動かなかった。
一寸先も見えない暗澹たる世界の淵に立たされたルークのもとに、アレンは寄り添い、無言で優しく背中をさする。
この状況下で「逃げろ」などと、声をかけることはできなかった。
突然ガタガタと瓦礫のような何かが落ちるような音が劫火の中で響いた。ルークの背中に手を置いたまま、アレンは視線だけを音の聞こえた方向に向ける。
「やはりまだ居たか……」
アレンはすぐにそれを見破った。徐々に近づく正体に警戒しながら、守るようにルークの目の前に立つ。
黒煙の向こう側に影が二つ現れた。二つの影はだんだんと色濃くなって、二人と距離を詰めていく。
「くぅー! 久々にすっきりしたなあ!」
「まあ、いいリハビリ程度にはなった」
影の持ち主は二人の男であった。声は二つ。この状況には明らかに適さない活気のある声音。
「こんなに楽しいのに、ほんとアイツもツイてないよなー」
「おかげで殺れる数は増えたけどな」
「それもそうか!」
少しずつ煙幕から黒い煤で汚れた人肌がさらされる。靄の中を男たちは何事もなかったかのように平然と子供二人と距離を詰めていく。
一方アレンは竦みおびえる少年を庇護するように目の前に立った。
「それで、シュージは何人殺した?」
「十四だな。おっと嘘はついてねえぞ、タカユキおめえは?」
意図も軽い狂気じみた質問に、シュージと呼ばれた男はこちらも同様に軽薄に答える。
「十五だ。ふん、今日も俺が単独一位か。当然の結果だな」
アレンはそれを聞いて愕然とした。心臓に大きな穴が開いたような感覚に陥った。
コルトー村の住人は計三十一人。そして今日は少年二人以外の外出の予定は知らされていない。二人の言うことが事実であるのならば、コルトー村の住人は少年二人を除いて皆逃げることすらも許されずすでに男たちの手にかけられている。
アレンは靄に隠された二人の男が敵だと確信し、腰に差した短剣の鞘に手をかける。
「ルーク、逃げてくれ」
男たちに聞こえない範囲で、希望を見失った少年に命じる。しかしそんな小さな声はルークに届くことは無い。思考力が衰え、聴覚にすら余裕はなかった。
「火炎系は範囲攻撃ができるからずりいよ。この爪じゃ一回で一人しか殺れねえ」
「お前の天恵は所詮ハズレってことだ」
「なんだと⁉」
暗い靄で隠れていた全貌があらわになる。シュージが喧嘩腰にタカユキを睨みながら、二人は散乱する骸の肉片を気にすることもなく歩み進める。
まさかもう人はいるまいと、男たちは少年たちに気づく様子もない。
「やはり……」
そう小さく呟いたのはアレン。何かを確信したかのように唾をのんだ。
そして。
「……勇者、様?」
弱く、脆い、震えた声。何かを考えるまでもなく、刹那に、本能的に漏れた声。
ほとんど機能を果たしていなかったルークの眼がぎょろりと動く。瞼を大きく見開いたその視線は確実に男二人の姿をとらえている。
右に立つ上裸のタカユキという男は両方の手のひらを中心に炎を纏わせている。左腕には五角形の星型のような黒印が施されていた。
左に立つシュージという髪を後ろで結った男には一般人とは明らかに異なる身体的特徴を持っていた。
彼の右腕は肘より先が爬虫類の鱗のような肌質で、異様に筋肉質に盛り上がっている。
飽和上に面積が広がる手の指先から伸びる、人間のものとは思えない鋭利で白濁色の爪。猛禽類のような爪先からぽつりぽつりと滴り落ちる赫赫たる人の血。
ルークが感じ取った通り、二人は勇者という存在で間違いない。
この二人が村を焼き両親を殺害したということはルークの想像に難くなかった。だがその事実は彼にとって到底受け入れ難いものであった。
それは彼にとって「勇者」と呼ばれる存在は、「弱者を守るヒーロー」という認識であったからである。かつてコルトーを訪れた勇者たちは誰もが慈悲の精神を持ち、困窮した民に救いを差し伸べていた。
しかしそれは、「勇者が必ず善人である」というルークの勝手な思い込みに過ぎなかった。
ルークは二度目の絶望の淵に立たされた。だが二回目の絶望は恐怖感よりも驚きが遥かに上回ったため、彼の自我が徐々に取り戻されるきっかけにもなっていた。
「……と、どうやらまだ終わっちゃいねーみてーだぜ?」
「まだ生き残りがいたのか」
わずかに聞こえた音の振動を、シュージの耳が拾う。
殺害衝動が二人の体の細胞一つ一つまで駆け巡る。冷静な態度をとってはいるが、彼らは極度な興奮状態に達していた。衝動を我慢するのがやっとで、焦る心臓が鼓動を早める。最後の獲物を前にして、にやりと笑う。
「ルーク、お願いだ逃げてくれ」
「でも……」
「なあに、少し足止めするだけさ。すぐ追いついてみせる。僕の強さを忘れたのか?」
二度目の命令。しかしルークにはどうしても決心がつかない。
アレンは腰に差していた短剣を抜き構える。
アレンはルークの顔を見て軽く言ってみせるが、その言葉とは裏腹に表情には焦りが見えていた。微笑みすらも贋作であることは、窮地に立たされたルークでも読み取ることができる。
確かにアレンはコルトー村で一番強い。そんなことは普段彼の隣に居るルークが一番理解している。しかしそれはコルトー村の、しかも「エルドラド人」という範囲の中での話である。
ここではない「日本」と呼ばれる異国の地から訪れる、「勇者」と呼ばれる存在。
エルドラド文明の数百手先を行く叡知。常識外れの驚異的な身体能力。
そして何より、神より授かりし「天恵」という特殊能力。
決して敵うはずがない存在。勇者と互角に戦えるエルドラド人などかつて大陸を平定した大英雄の教え子くらいであろう。
「遺言は終わったかー?」
シュージが不敵な笑みを浮かべながら、爪に付いた血液を振り払う。
勇者との距離はおよそ十五メートル。二人は今にも溢れ出そうな理性を保ちながら、ゆっくりと一歩を踏みしめていく。
「……」
やはりルークには決心がつかない。アレンは絶対に言わないが、本人自身足手まといだという自覚はある。共倒れよりも一人が生き残る作戦であることも理解している。
そして、アレンが自分を逃がすために犠牲になろうとしていることも――。
ルークは自らの弱さと性格を恨んだ。
もし自分に勇者に敵う力があれば。
もし自分に悪を前にして立ち向かう勇気があれば。
もしかしたらこの絶体絶命の危機を打開できたかもしれない。命からがらでもいい、二人で逃げ抜くことができたかもしれない。
しかし、ルークには強さも勇気もない。
アレンが犠牲になる、その世界線を破壊することはできない。
無力で無価値な自分だけが生き残っていいはずがないのだと、低い自己評価が精神を蝕む。
アレンの忠告は続いていた。逃げる決断をしないルークを何度も見やる。
勇者との距離は徐々に詰まっていく。近づくたびにアレンは右手で鞘を強く握りしめる。
「くそっ」
ルークがどのような少年であるかは理解の範疇であった。だがどうしても動けない彼の優柔不断さに我慢の限界を超えたのか、珍しく投げやりに不平を漏らす。
だが神童。目をつむって素早く頭を回転させると、数秒で答えを得る。彼女は最適解を導くと、ゆっくりと瞼を上げる。その顔は納得のいく結果というよりは、どこか苦渋の決断をしたような顔ではあったが。
アレンは自らが考えた作戦通り、煙を吸わないように慎重に肺胞いっぱいに息を吸い込んだ。
「ルーク!」
そして炎すらも吹き飛ばすかのような強い語気で少年の名を告げる。
その声はルークの機能低下した聴覚の障害をものともせず突きぬけ脳内に一直線に伝達した。少年は突然体中を雷撃が駆け巡ったような反応をして意識を覚醒させる。
アレンの横顔を見つめると、彼女もまたルークと視線を合わせた。
「……逃げるんだ」
その言葉を聞いて、ようやくルークは答えを選択した。いや、体が自然に動いていたという表現が正しいかもしれない。
今にも倒れそうな軟弱な体躯をふらふらと立ち上げ、ルークはついに大親友に背を向けて――。
「ううう……うぁああああああああああああ!」
鉄の塊のように固まっていた足が動く。
肺腑に蓄積していた大量の絶望が、悲痛な叫びとして吐き出される。
一歩目を踏み出せば、あとは惰性で足が動いた。
――憎い。憎い。憎い。憎い。勇者の悪行が憎い。こんな不条理な世界が憎い。なにより弱くて何もできない自分が一番憎い。
生まれて未だ五年ほどしか経たぬ小児がまともに背負える感情ではなかった。
ルークが選択したのは、生き残るという希望と、生き残るという罪咎。
「そうだ、それでいい」
少年を見送ると、安心したようにアレンは口元を緩める。
一転降灰の中、獲物を逃すまいと勇者二人は勢いよく地を蹴った。そしてアレンは――。
前へ前へと走る。
夜の肌寒さなどは感じない。
肺の酷使にも気づかない。
勇者たちの喚きの後、からんからんと、地面に金属が弾む音が耳に入った。
心の弱き少年は、手のひらで耳をふさぐ。
そこからは無音でひたすら走り続けた。
途中、後ろを振り返ることは絶対にしなかった。
憎悪、後悔。様々な負の感情を背負って、少年は、荒野を駆ける。