第八話
上官の動きは迅速だった。
彼は逃がすだけではなく、その後のことも考えてくれていた。
たとえ国境を越えられたとしても、人里離れた山奥や荒れ地では意味がない。せめて人のいる場所まで送り届けてもらえるように、手配してくれていた。
また、埋葬の件についても話し合われた。
これについては特に問題にはならなかった。というのも、国許へ帰すのが困難な遺体は、ここからそう遠くない場所へ運び、埋めることになっている。これは、私たち看護婦の業務の一貫でもあった。必然、話の焦点は、亡くなった方たちへ冥福をお祈りする牧師のことに絞られた。
彼の登場は遺体を土の底に沈め、土を被せたあとだ。空っぽの盛り土の前でお祈りしてもらえばよい。
こうして準備は着々と進められた。
人選には慎重を期しているようだったが、それを差し引いても、準備が整うまでにそう時間はかからなかった。
相談を持ち掛けた私が言うのもなんだが、決行の報せが届いたときは、その速さに心の底から驚いた。
この日、私はジネットと共に病室を回っていた。この時間、患者たちは動けない者を除き、全員外に出て散歩や運動をしている。
私はベッドからシーツを剥ぎ取ると、ワゴンに集め、新しいものと交換した。
次の部屋へ移動したところで、廊下を急ぐ誰かの足音が聞こえてくる。
「リディ! ジネット!」
息せき切って駆け込んできたのはサラだった。
彼女はあたりを見回して、私たちの他に誰もいないことを確認すると、急いでそばへとやってくる。呼吸を整えるのももどかしいのか、膝に手をつき告げてきた。
「日にちが決まったわ」
具体的に何をとは言われなかったが、私たちにはそれで充分だった。
隣にいたジネットと顔を見合わせる。思わず声を上げそうになり、慌てて口を押さえた。
それから何度か夜を越した。
決行日が近づくにつれ、緊張が高まっていくのを感じた。
「――これで全員ね」
決行当夜、私はジネットと共に逃がす予定の者たちを起こすと、病院の外へ出た。
「あの、どこへ……?」
連れ出した患者の一人が戸惑うような声を出す。
無理もない。彼らにはこれまで計画を打ち明けていなかった。先に伝えて、このことを知らない軍関係者に話が洩れるのも怖かったし、西病棟にいる患者全員を連れて行けるわけでもない。残された者たちが不満に思って騒ぐことも充分考えられる。要らぬ混乱を避けるためにも、必要な措置だった。
私が手短に逃がすとことを伝えると、彼らは一斉に声を上げた。
「静かに――誰かに見つかったらマズいわ」
彼らの反応は様々だった。
素直に喜ぶ者、本当かと訝しむ者、ついてくるのを拒む者もいた。
「いやなら戻ってくれてかまいません。無事に送り届けられる保証もないもの。でも、ここに残るなら、そのうち、捕虜収容所へ移すことになります。もし、ついてくる気があるなら、急いで」
捕虜収容所と聞き、疑う素振りを見せた者も、不承不承といった体でついてきた。
できるだけ見つかるリスクを避けるため、先導するのは私一人だ。
歩き出そうとしたところで、ジネットが心配そうな声を寄越す。
「気をつけてね」
夜の基地内は不穏なほど静かだった。
時折見かける外灯が、ぽつぽつとその足元を明るく照らす。白い光に誘われたのか、小さな虫がたかっていた。
「こっちです」
頭に地図は入っていた。
上官はどこから仕入れてきたのか、歩哨の巡回ルートをしっかり押さえてくれていた。出くわす可能性は低いがゼロではない。見つかるかもしれないという不安から、無意識のうちに肩に力が入った。
後ろをついてくる者たちも、自然と無口になる。
息をつめて歩くこと二十分、私たちは目的の倉庫へとたどり着いた。
倉庫と倉庫の隙間に入り、裏手へ回る。そこに、鉄の扉があった。ドアノブに手をかける。夏だというのに、ひやりとした金属の感触が手に伝わった。
鍵はあらかじめ開けてあるとは言われていたが、何か不都合があって、施錠されたままかもしれない。
私は軽く目を閉じてから、祈るような気持ちで慎重に回した。
ぐっと力を籠めて引く。扉は想像通りの重さを伝え、すんなり開いた。
ついてきた者たちに中へ入るよう促す。
最後尾にいた者が扉をくぐったのを確認した私は、後に続いて扉を閉めた。
倉庫の中は暗かった。
外から差し込む明かりだけを頼りに、足音を立てないよう注意しながら進む。
天上の高い倉庫には、トラックが何台も並んでいた。
(確か、八番区画に止めてあるって――)
床に書かれた数字を見ながら順に辿っていく。
指定された番号のある列まで来たところで、黒い影が見えた。心臓が跳ねる。
私が足を止めると、後ろにいた者たち全員、足を止めた。
どうすべきか迷ったのはほんの一瞬――
視線の先で影が動いた。足早に近付いてくる。
考えるよりも先に身体が動いた。くるりとその場で反転し、戻るよう指示を出す。
異変を察知した全員が、入ってきた扉めがけて駆け出そうとする。
背後で呼び留める声がしたのはそのときだった。
「――オーバンさん?」
名字で呼ばれ、振り返る。
そこに夜の闇に溶け込むように、全身黒づくめの男がいた。彼は周りを窺うように視線を巡らすと、こちらへと近づいて来る。私は不安に駆られながらも彼へと向き直った。震える声で「そうです」と答える。すると、男の緊張がほどける気配が伝わってきた。
「すみません、驚かせてしまったようで」
「いえ、あの……?」
誰かが待っているようなことは聞かされていない。
不安が顔に出ていたのだろう。そばまで来た男は、私たちをトラックへと促しながら説明してくれた。
「鍵を開けておくだけでいいと言われていたのですが……」そこでちらりと私の背後へ視線を向ける。「彼らを連れてくるのが女性と聞いて心配になりまして――ああ、これです」
男は一台のトラックを指差した。床には黄色い文字で八の字が書かれている。
私は両隣の数字も確認し、間違いがないことを確かめた。
トラックの後ろに回ると、男が荷台の幌から垂れた布を持ち上げてくれる。
私はついてきた者たちに声をかけ、順に乗るよう促した。
トラックの中は思ったよりも広かった。全員が同時に寝転がるだけのスペースがある。
そのことに安堵していると、黒づくめの男が中にいる者たちにも聞こえる声で、今後のことを説明してくれた。
「今晩、彼らにはここで過ごしてもらいます。明日の朝、輸送トラックの列に交じって基地から出ます。運転は違う者が担当しますが、後のことはそいつがうまくやってくれるでしょう」
彼の言葉を聞き、国へ帰れると思ったからか、中にいる人たちが声を上げた。途端、説明をしてくれていた男が少し険しい顔つきになる。彼は布を持ち上げたまま、荷台の中をのぞき込んだ。
「出発するまでに見つかったらそれまでです。ですから、せいぜい見つからないように、大人しくしていてくださいよ」
そう釘を刺すと、手にした布をしっかり下ろした。