第六話
(よく殴られなかったよね、私……)
文字通りがっくり肩を落とした私は、アスファルトの上を歩いていた。
隣を歩く上官の黒い靴が目の端を掠める。それを見て、深いため息が洩れた。
彼に促され、まだまだ言い足りない気持ちを押さえて会議室を出た。建物から出た後も、しばらくのあいだ興奮していた。こうして歩いているうちに次第に冷静さを取り戻し、今は激しい自己嫌悪に陥っている。
上官や周りで見ていた人たちが、まあまあと取りなしてくれたことで、なんとかあの場は収まったものの、なぜあんなことになってしまったのか。今となっては疑問に思うばかりだ。
頭に血が上っていたとはいえ、怒りに任せ、あのような場で人に向かって大きな声を出してしまうなんて――
しかも相手は目上の人。自分の立場を考えれば、あのように噛みついていい相手ではなかった。
こんな風にあとになって落ち込むくらいなら、最初からやらなければよかったのに。会議室での失態を思い出し、思考がループしてしまう。
そんな風にしょげ返っていたら、隣から感慨深げな声がした。
「お前、やっぱりあの人の子なんだな」
声におもしろがるような響きを感じ取り、隣を歩く上官の顔を見上げた。
「物言いがそっくりだったんで、驚いた」
目の合った彼がふっと笑う。なんでも、父が暴走する度に、彼や周りに居合わせた人が止めに入っていたらしい。
「……それは、父が大変ご迷惑をおかけしたようで……」
そして、今回は私がお世話になったわけだ。
恥じ入る気持ちと申し訳なさから頭を下げる。なにも、そんなところで似なくてもいいのに……そう思いはしたものの、口には出さなかった。
上官は「構わない」と言ってくれたが、それに甘んじていいはずはない。
しばらくは大人しくしておこう。
確かにそう思ったはずだった。
しかし、その数日後、私の思いとは裏腹に、前回と同じ場所――会議室で、例の口髭の人と激しく口論していた。
あの日以降、上官は会議がある度に声をかけてくるようになった。そして、“懐かしい”と思ったのはどうやら彼だけではなかったらしい。
生前の父を知る人たちが私のことを“小軍医少佐”とあだ名し、会議の終わりに発言を求めるようになった。
明らかに面白がっている。
そして、なぜそうなるのか、もはや私にも理解不能であるが、決まって進行役の口髭の人と激しい言い合いになっていた。
口髭を生やした男はガルソンといった。
最初の頃は彼と言葉を交わす度に自己嫌悪に陥っていた。しかし、いざ意見が通り、物資が届くようになってくると、“必要なこと”と割り切るようになっていった。
とはいえ、私の心はひどくストレスを感じていたらしい。
この日もお決まりの如く、彼と怒鳴り合っていた。
完膚なきまでに言い伏せられたことで、不覚にも目の端に涙が滲んでしまう。
(あ、やばい――)
慌てて顔を押さえて上を向く。しかし、押さえきれない涙が零れそうになるのを感じ、すぐさま部屋を飛び出した。
「――おい!」
後ろからガルソンの呼び留める声がする。しかし、今はマズい。
そのまま廊下を突っ切って、階段に足をかけようとしたが、ガルソンのほうが速かった。一段目に足を下ろす手前で腕を掴まれる。
仕方なく立ち止まって振り向くと、私の腕を掴んだガルソンが、やや気まずそうに息を飲んだ。
目の前で泣かれたら戸惑うのは当然だし、面倒だとも思うだろう。だから、見られないようにと思って部屋を出たのに。私は頬を伝うものがあるのを感じながら、あまり見せないようにと顔を伏せた。
「大丈夫ですので、気にしないでください」
虚勢を張ってはみたものの、その声はずいぶんと鼻声だった。
彼が手を離してくれたので、急いでポケットからハンカチを取り出す。今更取り繕っても意味はないので、堂々と拭いた。
「いや、すまない、つい――」
彼の話によれば、だ。
父の死後、私のように突っかかってくる者もおらず、久し振りのことに楽しくなってしまった。しかも、その相手が、昔散々やり合っていた男の娘で、当時と同じ調子でぽんぽん言い返してくるものだから、どうにも加減を間違えてしまった。
先ほど、目の端に涙を滲ませた私を見て、父とは違うということを思い出し、部屋を飛び出した私を見て、やりすぎたと思って慌てて後を追いかけた。
父のことを覚えていてくれたのは素直に嬉しいと感じたが、怒鳴り合うのが楽しいという感覚は、とても理解できそうになかった。
私が落ち着いたのを確認したガルソンは、再度すまないと口にしてから踵を返す。その際、後ろから来ていた上官とぶつかりそうになった。彼は軽く頭を下げると、そのまま廊下を引き返していく。
そばまで来た上官も、ガルソンと似たような表情を浮かべていた。
目許を拭っていたハンカチをポケットにしまいながら、身体を反転させる。今度こそ階段に足を下ろすと、そのままとんとんと階段を下りた。ほんの少し間があって、後ろからついてくる気配がする。彼もやはり楽しんでいたのだろうか。懐かしさからきていたのだとしても、少しむっとしてしまう。
私たちは互いに無言で廊下を歩き、赤く塗られた両開きの扉を押して建物を出た。
「……大丈夫か?」
病院へ戻る途中、それまで黙って歩いていた上官が声をかけてきた。
「へーきです」
涙はすでに止まっていたが、鼻声はまだ治っていなかった。喉の奥がまだ苦しく、あまりしゃべるとまた涙が込み上げてきそうだった。
自分でも変な声を出してしまったと情けなく思ってうつむく。すると、大きな手が頭に乗せられた。
「いつもけろっとしているから、ああいうのは平気なのかと思っていた。オーバン少佐とは違うのにな。気づけなくて悪かった」
完全に不意打ちだった。
くしゃりと頭を撫でられ、一度引っ込んだ涙が滲みそうになる。嗚咽までもが込み上げそうになり、しまったハンカチを慌てて取り出した。熱を持った頬を押さえてみるが、再びあふれ出した涙は、すぐには収まりそうにもない。
私の頭を撫でていた上官の口から、困ったような声が洩れた。
「……このまま戻ったら、ジネットたちに殴られるな」
それぐらい我慢してください。
そう言ったはずの言葉は、声にならなかった。