第五話
「リディ、生きてるー?」
「……なんとか……」
私の隣で仰向けになったジネットが、うーと唸りながら両手で顔を押さえている。
それからなにか重大なことに気づいたようにはっとして、ぐったりとその額に手の甲を乗せた。
「……ねえ、今日の夕食、お肉だっけ?」
私はお肉と聞き、先ほど目にした光景をまざまざと思い出した。また気が遠退きそうになるのをなんとか堪え、質問に答える。
「お魚じゃなかったかな……」
だとしても、食べられる気がしない。
私たちが連れて行かれたのは、市内にある大きな病院だった。建物に入ると、まずマスクとガウンが配られた。教官からの説明は、「騒ぐなよ」のひと言だけだった。この点については後ほど、大いに抗議したい。
ジネットが大きく息を吐いた。
「おかしいとは思ったんだよね。いくら研修の内容訊いても、誰も答えてくれないし……でも、今ならなんか、みんなが教えてくれなかったのわかるわ」
「……そうだね」
連れて行かれた部屋のプレートには、“手術室”と書いてあった。部屋に入ると、壁の前に並ぶよう、手振りで指示された。結論から言えば、私は手術開始から十分と経たずに退出した。覚えているのは台の上に寝かされた男性の右下腹部にメスが入ったところまでだ。気がつけばここ、手術室の前にある広い廊下に転がっていた。
「……見学の邪魔しちゃって、ごめんね」
ああいうのは、自分の意志とは関係なく起こるものらしい。気を失った私を連れ出してくれたのは、ジネットだった。ジネットはううんと言って床に手をついて、上体を起こした。
「リディが倒れてこなかったら、私が卒倒してた」
オレンジ色の髪に指を通しながら壁にもたれる。それから悔しそうに、「あーあ」と洩らした。
「私たちで最後なんだよねえ。あーくそ、私も見送る側に回りたかった」
ジネットの少々意地の悪い発言に、私は同意した。もし、他の班の子達よりも先に授業を受けていたなら、私も言わなかっただろう。
どうだったかと訊かれたのが当日なら、思い出した途端、気分が悪くなって答えられなかっただろうし、研修を終えて寮に戻ってきた班の子たちのように、夕飯を辞退して、すぐに自室に引っ込んでいたと思う。
たとえ日が変わって落ち着いたとしても、自分たちは前知識なく行ったのに、後から行く子たちが内容を知っているのは、なんとなく、ずるいように感じていたのではないだろうか。
「わかるわかる」
私の隣で床にひっくり返っていたサラが、むくりと起きて同意してきた。サラは軽く首を振って、憂さ晴らしできないのが残念と零した後で、最後まであの場に立っていたかった、と悔しそうにしていた。
***
彼のしごきの甲斐あって、私たちは誰一人脱落することなく、卒業式を迎えた。
戦争はまだ続いていて、迎えに来た叔母夫婦との再会を喜ぶ間もなく、現地入りすることになった。
教官とはあれでさよならかと思っていたが、そうではなかった。付け加えるなら、ジネットやサラをはじめ、机を並べて学んだ子たち全員がそうだった。
私たちは教官率いる医療部隊に編成され、後方基地にある病院へと向かった。
現地では人手が足りず、荷ほどきもそこそこに、着いたその日から働くことになった。
私たちが暮らしていた街と比べ、ここでは看護をする上で必要な、さまざまな物が足りていなかった。薬は元より、傷口に巻く時に使うガーゼや包帯、消毒液や生理食塩水、果ては症状をなどを書きつける紙やペンまで不足していたのだから呆れてしまう。
寝台はかろうじて足りていたが、患者たちが身に着ける物や寝ているベッドのシーツなんかは、洗いまわして大事に使っていた。
そんなある日、教官あらため上官となった彼に声をかけられた。
「リディ、ちょっといいか」
なんだろうと思って呼ばれるままついて行くと、軍略会議などが開かれる厳めしい建物が見えてきた。躊躇うことなく足を踏み入れる上官の後に続いて建物へと入る。
廊下を抜けて階段を上り、二階にある会議室に入ると、部屋は物々しい雰囲気に包まれていた。
部屋の中央にはロの形に並んだテーブルが置かれていた。
そのテーブルを囲むように、軍服を着こんだ人たちが腰を下ろし、腕や足を組んでいた。
その後ろでは、私のようにお供で来ている人達だろう。壁を背にして立っていた。
上官が空いている席のひとつに腰を下ろしたので、私もその後ろ、壁際に並んで立っている人たちの列に加わる。しばらくして、口髭を生やした進行役の男が前に出て開始を告げ、会議が始まった。
会議では、作戦計画の見直しや、前線への資材輸送についてなど、およそ私たちがこなす業務とは関わりないことが話し合われた。
私は初め、その様子を姿勢を正して眺めていた。どのくらい、そうしていただろうか。背筋を伸ばし、まっすぐ立っているうちに、頭が別のことを考え始めた。私は病院に戻ってからやらなければならないことをさらっていた。
こんなことしてる場合じゃないんだけど――
焦れったさを覚えつつ、そわそわと身体を揺らし始める。すると突然、解散が言い渡された。
私はこのとき、物資不足から、満足な治療も受けられない兵士たちのことを考えていた。ここで手当てできないのなら、もっと後方にある兵站病院なり陸軍病院なりに早く移送して欲しい――
そのためか、この部屋から解放される安堵よりも、驚きのほうが先に来た。
言い訳をさせてもらうなら、だ。
私はこの、どうにもしてあげられない状態に心苦しさを覚えていた。ここへ来る前も、そうと知りながらベッドに横たわる人たちの容体をチェックしていたのだ。
こうした積もり積もった不満と、長時間拘束され続けた疲労とが変な具合に重なったのだと思う。頭に浮かんだ言葉を飾ることなく、けっこうな音量で口にしていた。
「えっ、終わりなの?」
しまった、と思ったときにはもう遅かった。
解散を告げた口髭の男をはじめ、椅子に座った人たちの視線が一斉に集まった。
ぎょっとした様子の人たちに紛れ、なにか見世物でも見るような興味深げな視線を寄越す人もいた。私をこの場に連れてきた上官も、椅子に上体を預けたまま身体を捻ってこちらを見ている。付け加えるなら、彼は後者だ。
進行役の男が不愉快そうに眉をしかめた。
「なにか言いたいことでもあるのかね」
発言を許されたと勘違いした私は、あるもなにもと切り出した。
「医療物資補給についての相談がまだだと思いますが」
私がそう言うと、言われた男が眉を跳ね上げた。
どうやら彼は、「いいえ」とか、「なにも」とか、そんな言葉を期待していたらしい。私が言い終わるや否や、ヒステリックに怒鳴りつけてきた。
反射的に身を竦ませた私は、ほんの少し心配になった。セロトニンが足りていないのだろうか。心と体の健康のためにも、朝に二十分から三十分、散歩の時間を取ることを強くお勧めする。
それはさておき、目を吊り上げ、憤怒の形相で病院内のことについて尋ねてきた男に対し、最初のうちは冷静に、懇切丁寧に説明していた私も、段々と彼の口調に引きずられ、気づいたときにはヒートアップしていた。
おそらく、私も彼も、この段階ですでに頭は回っていなかったものと思われる。互いに相手を言い負かそうと躍起になり、挙句の果てには男のほうが、管轄だの面子だのを持ち出してきて、
「知りもしないくせに口出しするな!」
と一括してきた。さすがに我慢ならなくなった私は、ついにはこう吐き捨てた。
「あなたが何してるかなんて知りません! 戦争のことはあなた方が考えればいいでしょう!? 私は病院にいる人たちのことだけを考えているんです! いい加減、私にまともな仕事をさせてください!」