第四話
冬が近づくと、どうにも父を思い出す。
この日、日直だった私は、教官に頼まれて次の授業で使用する教材を運んでいた。丸めた模造紙を脇に挟み、皆に配るプリントの束を持って廊下を歩く。隣では、蓋のしてある大きな木箱を抱えた教官が長いコンパスを前後に動かしていた。
二人の足音がカツンカツンと異なる調子で響く。
廊下はしんと冷えていた。
何気なく窓の外に目をやる。そこに花壇はなかったが、幼き日、母やマーサと過ごした家の花壇を思い出した。記憶に残るあの家は、暖かな光景よりもむしろ、こうした冷え冷えとした印象のほうが強い。
(あれからもう十年くらい経つのか……)
母が亡くなって以降、色彩を失った世界は未だ灰色のままだった。そんな私の目に、父から届いた最後の手紙に書かれた文字が浮かび上がった。
『クリスマスのプレゼント、なにか欲しいものはあるか』
右上がりの癖のある字。
私は返事をしなかったが、もし、あのときの自分に戻れるなら、きっとこう書くだろう。
――無事に帰ってきて欲しい。
ウレタンの白い床を見つめながら白い息を吐く。
胸の内でくすぶるように、今ではお馴染みとなった痛みが、つきりと胸を衝いた。当時感じた自責の念は、ほんの少し遠ざかってその形を変えたけど、疼くような胸の痛みは以前と全く変わらなかった。
生徒たちは教室にいるのか、廊下には私と教官の他に誰もいなかった。しんと静まり返った廊下を二人並んで歩く。不意に、入学当初、食堂でジネットたちに囲まれたときのことを思い出した。隣を歩く教官の姿を目の端で追う。
ジネットたちによれば、彼は父のもとで働いていたらしい。
(……父の最期に居合わせたりしたのかな)
もしそうなら、なんでもいい。なにか聞いたりしていないだろうか。
尋ねてみたい気持ちと躊躇う気持ちが入り交じり、頭の中がぐらぐらする。
目の前が暗くなるのを感じながら、私は声を絞り出した。
「……あの」
「なあ」
発した声が彼のものと重なり息を飲む。思わず隣にいる彼のことを見上げた。
視線の先では同じように、彼が軽く目を瞠り、こちらを見ている。
「なんだ」
「いえ……」
私は首を横に振ると、話の先を譲った。やや間が空いたあと、教官が口を開いた。
「お前の親父さん、亡くなったのは、ちょうどこんな日だったな」
私は驚いた。
期せずして、私と彼は同じことを考えていたらしい。
私は小さく喉を鳴らすと、はいと答えた。それから思い切って父のことを尋ねてみる。教官は懐かしむようにして目を細めると、父のことを話してくれた。
彼はジネットたちが言っていたように、本当に父のもとで働いていたらしい。
当時の彼はひよっこで、右も左もわからず右往左往するだけだったが、そんな彼に父は根気よく付き合ってくれたそうだ。よく話を聞いてくれ、叱るところはきちんと叱ってくれた。
言葉の節々に、父に対する尊敬の念を感じ取り、私は不思議な気持ちになった。
話は母が死んだ時のことにも及んだ。
ちょうどその時、廊下の先にある教室の扉が見えてきた。
教官は、ほんの少し複雑そうな顔をして、躊躇う素振りを見せたあと、普段の彼からすれば珍しく、口の先でしゃべるようにぼそりと呟いた。
「奥さんが亡くなられた時、あの人は本当に参っていたんだ。見せないようにはしていたけど」
私の胸の奥で、いつもの虫が疼くのを感じた。
始業を報せるチャイムの音が鳴り響く。
彼は形の整った綺麗な眉を跳ね上げると、声だけは穏やかに、少し歩調を上げた。
「きみから手紙が来ないことをしきりに気にしていてね。あの頃、きみはまだ小さかったし、思うところもあったんだろうけど……それでも、どうして一度くらい手紙を寄越してくれなかったのか――」
それだけで、あの人の心はいくらか救われただろうに。
最後の言葉は、教室の扉を開けるガラリという音にかき消された。彼は教室に足を踏み入れると、途端に教官の顔へと戻った。彼はまだ机のところで固まっておしゃべりしていた女子たちに目を留めると、よく通る声で促した。
「席に着けー、始めるぞ」
私は模造紙を教壇に置き、プリントを配り終えると、黙って自分の席に座った。
***
あれから世界は少しだけ、その形を変えた。
自責の念に駆られた私を責めなかった世界は、ようやく罰を与えてくれる気になったらしい。
学年が上がったこともあり、彼の課す授業は過酷さを増した。
私はこの日もなんとか一日の課程を終え、寮に戻って夕食を食べていた。
「――リディ、お願い! 訳したとこ写させて!」
ぱんと小気味よく手が打ち合わされる音を聞き、私は隣にいるジネットを見た。彼女は顔の前で両手を合わせ、拝むようにして頭を下げている。
なんでも、明日、授業で当たるらしい。
その正面でフォークを口に運んでいたショートカットの女の子が、間髪入れずにつっこんだ。
「そこは辞書貸してじゃないの?」
「辞書なら部屋にある。私は答えが知りたいのー」
サラには頼んでないんだから黙ってて、というジネットの言葉を聞きながら、私は苦笑した。
「仕方ないなあ。でも、合ってるかどうかはわからないよ?」
ジネットの焦げ茶色の目がぱっと輝く。
「もちろんもちろん、やったー、恩に着るわ!」
直後、サラの手がジネットのお皿に伸びた。
「じゃあ、このマカロニサラダはいただくね」
止める暇もなく、サラはジネットのお皿からマカロニサラダをかっさらうと、ぱくっと口に咥えた。おいしそうに頬に手を当て咀嚼する。サラの口から幸せそうな声が洩れた。
「ん~、しあわせ~」
「ああっ!? あんた何してくれてんの!? つーか、あんた関係ないよね!?」
マカロニサラダをさらわれたショックで、ジネットが椅子から腰を浮かし、サラの首を締めつけた。サラは顔を青くしてジネットの手首を掴むと、放すよう訴えた。
「ちょっ、苦し……死ぬ! まじで死ぬから!」
二人の様子が面白く、フォークを動かすのも忘れて眺めていたら、こちらを見た二人がなにか珍しいものでも見たように目を丸くした。ジネットがサラの首から手を放し、椅子に座り直す。
「……リディ、明るくなったよねえ」
「え?」
「いや、なんというか、前は暗ーい感じがあったのに、それが薄くなったというか……」
「そうかな」
私はフォークをテーブルに置くと、自分の頬を両手で包んだ。
暗いというのは自覚がある。しかし、明るくなったというのは意識していなかった。
そういえば、ここのところ、授業についていくのに必死になっていたからか、胸の痛みを感じることも少なくなっていた。
そのことに気づいた私は、気持ちが軽くなる一方で、心が重くなるのを感じた。
複雑な思いが胸を占め、知らず、いつもの虫が疼く辺りを押さえる。
直後、ジネットが私の肩に勢いよく腕を回すと、首をぐいぐい絞め上げてきた。その力が思いのほか強くて、一瞬息が詰まる。
「なん……、むぐっ」
苦しさからもがいてみるものの、ジネットは容赦なかった。空気を求めて口をパクパクさせてみるものの、うまく呼吸できない。ほぼ意味のない抵抗を続けていると、首を締め付けてきていた腕の力がほんの少し弱まった。
陸地で溺れかけた私の耳元で、ジネットが囁く。
「男でしょ」
「ええっ!?」
ジネットの思いもよらぬ指摘に声が上ずった。
なんのことかと思う間もなく、ジネットは器用に私の座っている椅子の向きを変えると、両肩を強く抑え込んできた。鬼気迫るジネットの形相に、冷や汗が浮かぶ。
ふと周りに視線をやると、周りで食事をしていたクラスの子たちも話の内容が気になるのか、興味津々といった体でこちらに耳を傾けていた。
「ちが……」
否定の言葉はすぐに遮られた。
「うそつけー! いま完っ全に恋に悩む女子の顔になってた! どこの誰よ! あ、もしかして授業で一緒になった人!?」
途端、私の周りだけ騒がしくなった。きゃあきゃあ騒ぐ女子たち。すると、カウンターの向こうで食事を配っていたおばちゃんがお玉を振り上げた。
「あんたたち、なに騒いでんの! 食べないんならトレー返して、さっさと部屋に戻りなさい!」
片付かないでしょ、という声に首を竦ませ、皆目の前の食事に集中する。
私も慌ててフォークを持つと、再び手を動かした。
「それにしても……」サラが食事に戻った皆を見ながら首を傾げた。「なんか今日、少なくない?」
いつもなら満席となる食堂が、今日はぽつぽつと空いていた。この場にいないメンバーは一目瞭然だった。
「研修受けてきた班の子たち、今日はパスだってさ。青い顔して部屋に戻ってった」
ジネットがお皿の上に乗ったお肉をつつきながら答える。サラが眉間にシワを寄せた。
「また?」
学年が上がってすぐ、私たちは班を作るように言われ、課外授業を受けることになった。日をまたいで順番に、あの黒い鉄柵の向こうへと連れ出される。
放課後、教室へ戻ってきた彼女たちの顔は必ずと言っていいほど蒼白で、今日ここにいない子たちのように夕食を辞退することも多かった。
「ああ、そういえばジネットたち、まだだっけ?」
私たちの話を聞いていたのか、後ろの席の子が口を挟んできた。彼女は一番最初に課外授業を受けた班の子だった。
「あんたら最後だよね、確か……」と言って、にやにやした笑みを向けてくる。「どんな授業だったか、気になる?」
途端、ジネットの頬が膨らんだ。
「気になるけど……どんなことやるのか、教えてくれる気なんてないんでしょ」
「あったり~」
先に行った子たちは皆、彼女のように、授業の内容を決して明かそうとはしなかった。
気にはなるが、教えてくれないのでは仕方ない。
私は気持ちを切り替えると、目の前のご飯を食べることに集中した。