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第三話

 授業が始まると、余計なことを考えている暇はなくなった。

 私の入った看護科クラスは、今年度新しく設立された科で、女子しかいない。

 覚えることは山のようにあった。

 担当してくれた教官はとても厳しく、クラスメイトからは“鬼”と呼ばれていた。ある時など、仲良くなった同じクラスのジネットが不満げに零していた。


「くっそー、最初見たときは当たりだと思ってたのに……とんだ貧乏くじだった」


 私は、教官が初めて教室へ入ってきた時のことを思い出した。

 彼の姿が見えた途端、静かだった室内がいきなり騒がしくなり、キャーキャーという黄色い声が飛び交った。

 彼女たち曰く――


 どんなむさいおっさんが来るのかと思っていたら、なんか素敵な人が来た。


 担当教官に期待なんて普通はしないだろう。

 学校には学びに来ているのだし、教官は教えてくれる人であって、それ以上でも以下でもない。そう思っていただけに、クラスの大半が無防備だった。そこに灯油を撒かれたのだ。突然燃え上がった炎が教室のあちらこちらで爆ぜたが、その爆音にも動じず、彼は黒板に白いチョークで自分の名前を書きつけると、淡々と自己紹介をしていた。




 井戸端会議をするおばさんたちの情報網も謎だけど、同じくらい、クラスの女子たちの情報網も謎だった。一体どこから聞きつけてくるのか、放課後、寮の食堂で夕飯を食べていたら、数人の女子生徒に囲まれた。


(……私、なにかしたっけ?)


 私の周りに集まった女の子たちは、どこで揃えてきたのか、皆一様に黒いサングラスをかけていた。正面に座ったオレンジ色の髪の子がテーブルに両肘をついて、神妙な声を出す。


「リディ・オーバン、教官について知っていることを全部、吐いてもらおうか」


 その言葉に首を傾げたのは言うまでもない。

 吐くも何も、教官に会ったのはここへ来てからだ。初対面の彼のことなど、授業で顔を合わす以上に知りもしない。そしてそれは、彼女らと大差ないはずだった。


「教えてあげられるようなことは何もないと思うけど……」

 正直にそう伝えると、オレンジ色の髪の子がテーブルを叩いた。

「そんなはずないだろ! 教官があんたの親父さんのもとで働いていたことは、すでに掴んでるんだ!」


 雰囲気を大事にする子なのか、ドラマなんかでよく見かける刑事のような調子で言ってくる。右手に持ったスプーンをこちらに向けてきているのは、照明のつもりだろうか。

 それはそれで気になったが、それ以上に、“父のもとで働いていた”という言葉のほうが引っかかった。


「えっ、そうなの!?」


 思わず声を上げると、取り囲まれているのも忘れ、手に持っていたフォークをテーブルに置いた。その勢いで腰を浮かす。

 私は両手をついて机の上に身を乗り出すと、逆に問い詰めた。

 それはいつのことで、父とはどれくらい一緒にいたのか、父とは話をする間柄だったのか――問いかけてきたのは彼女らのほうだったのに、いつの間にか立場が逆転していた。


「つまり!」

 矢継ぎ早に繰り出される質問の合間を縫って、たまりかねたように目の前の子が声を上げた。

「つまり、あなたはなにも知らないのね?」

「ええ」


 私がそう言うと、周りにいた子たちから落胆のため息が漏れた。誰が言うともなく解散となり、それぞれ食事へと戻っていく。正面にいた子が椅子にもたれてサングラスを外した。


「そっかー、なんにも知らないのかあ。ごめんねー騒がせて。ああそうだ。ここ空いてるなら、一緒に食べてもいい?」


 私はうなずいた。この女の子がジネットである。



 ***



「くっそー、あの鬼、悪魔、ド変態!」


 鬼と悪魔はわかるけど、最後のド変態はよくわからない。

 私たちは体操着に着替え、他の科の男子諸君に交じって、学校の裏手にある小高い山を走っていた。一応道らしきものはあるにはあったが、舗装などはされておらず、土がむき出しの斜面をひいひい言いながら上っていた。

 走り出す際、背負った荷物は大した重さではなかったはずなのに、今ではずっしり肩に食い込んでいる。


「……ジネット、しゃべると余計体力が……」


 声を出したら、思った以上に切れ切れだった。

 せめてゴールがわかっていれば、まだ頑張る気にもなれるのだけど、走り出す前、教官たちが放った言葉は「ついてこい」のひと言だった。


「看護科にいる? これ……つーか、いつまでやらせるつもりよ」


 ジネットの悪態に返事をする気力もなく、黙って足を動かしていたら、限界は唐突にやってきた。なにかに足を取られた覚えもなかったが、がくんと足を踏み外したような感覚があり、直後、悲鳴を上げる間もなく地面とこんにちはしていた。


「ちょっ――リディ!?」


 ジネットの焦ったような声が聞こえた。

 私は起き上がろうとしたが、それもすぐに諦めた。

 頭を持ち上げようとすると目が回る。遅れて頭の奥がずきりと痛んだ。汗で濡れたシャツがべったりと肌に張りついて気持ち悪い。

 それに比べ、肌に接した地面は心地よく、このまま目を閉じてしまいたかった。その前に、身体を押し潰してくる背中の荷物を下ろしてしまいたかったけど。

 倒れたまま動かない私を見て、ジネットが私の横に立った。


「大丈夫?」

 心配そうに身を屈めた気配を感じたところで、後方から鋭い声が飛んできた。

「止まるな! ジネット、倒れた奴を気にかける余裕があるなら、前の奴についていけ!」


 声の主はうちのクラスの担任だった。

 彼は列の最後尾からついてきていた。私が倒れた場所からは結構距離があったはず――

 あの位置からよく見えるなと感心している間に、誰かがそばまでやってきた。断りもなく抱え上げられる。

 驚いた私は、その顔を見て更に驚いた。目の前にあるのは、なにをどう見ても、先ほど後ろのほうで声を張り上げていた教官の顔だった。

 ここまで走ってきたのだろうか。

 見た目はほっそりしてるのに、どこにそんな体力があるんだろう。

 疑問に思う間もなく、涼しい木陰へと運ばれた。木を背もたれにして私を下ろす。

 大きな手が伸びてきたことに驚き、一瞬身を固くしたが、緊張するほどのことは何もなかった。襟元のチャックを緩めると、すっと離れていく。

 背中の荷物はいつの間にか外されていた。彼はその中からペットボトルを取り出すと、きゅっと捻って栓を開け、手渡してきた。


「飲めるか?」


 私はしっかりうなずいてから受け取ると、ペットボトルに口をつけた。その段になって、初めて喉が渇いていたことに気づく。冷たい水が喉を通り、ほっと息をついた。

 ペットボトルを両手で持ち、木に背中を預ける。

 背中の荷物から解放され、襟元が広く開いたことで、身体に籠っていた熱がすうっと逃げていった。


(これなら、もう少し休んだら走れるかも――)


 そう思った矢先、教官が立ち上がり、近くにいた男子生徒二人を呼び止めた。

 なんだろうと思って見ていたら、教官が二人に向かって指示を出した。


「お前ら、担架持ってるだろ。こいつを乗せて宿舎まで運んでくれ」


 はっきり「はい」と返事をした男子生徒二人が背中の荷物を解いた。担架を用意しようとするのを見て、私は慌てた。あの荷物を背負って走るだけでも辛いのに、更に私を担ぐとなると、かかる負担はどれほどだろうか。私は二人を止めようと、急いで声を絞り出した。


「……あの」

 焦って声を出したからか、掠れてしまい、蚊の鳴くような声になってしまった。しかし、教官にはちゃんと聞こえたらしい。「なんだ」と言って、こちらを向いてくれた。

「まだ、走れます」


 本音を言えばもう少し休みたかったが、座っていたのでは説得力がない。私は足に力を籠めると、背にしていた木を頼りに立ち上がった。多少ふらつきはしたものの、思ったよりもしっかり立てた。

 教官は少し考える素振りを見せたあと、それでも私の訴えを聞き入れてくれた。彼は男子生徒二人に指示を出すと、列の最後尾へと戻っていく。

 私は荷物を背負い直すと、再び走り出した。その際、さりげなく着衣の乱れも整える。

 教官から指示を受けた二人は、私の後をついてきた。もう一度倒れた時は、彼らの世話になることが確定している。


「ごめんなさい、付き合わせちゃったみたいで……」


 ペースは格段に落ちていた。

 後ろからきた生徒たちが私たちのことを追い抜いていく。私は申し訳なさから二人に謝った。見たところ、彼らにはまだまだ余力がありそうだった。本当なら自分に付き合って、こんな風にのろのろ走る必要もないはず――しかし、彼らは互いに顔を見合わせると、白い歯をのぞかせた。


「気にすんなって。つーか俺たち、ラッキーだったよ、なあ」

「うん。あんたのお陰で楽できるもん」

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