第二話
結論から言うと、母は治らなかった。
これだけ言うとひどく淡白で、実際、黒い服を着た人たちが別れを惜しんでやってきたけど、その光景はえらく無機質だった。
空は青かった。
辺りは光に包まれていたし、春らしく、いろんな色彩であふれていた。しかし、そのどの色も、私の目には灰色にしか映らなかった。
父のいる場所はあまりに遠く、母の葬儀には間に合わなかった。
それは、距離を考えれば当然のことだったけど、当時の私には憤りしかなかった。
それから何週間かして、父が一度、家に戻ってきた。父は、母のいなくなった家や私の面倒を見てくれていたマーサに会うと、後のことを彼女に頼み、その翌日には戦場へと戻っていった。
母がいなくなった家は、急に静かになった。
それまでだって、マーサと二人で過ごしてきたけど、そこには“母はいつか戻ってくる”という希望があった。
それが失われた途端、状況は母を埋葬する前となんら変わりはないはずなのに、冷え切った静寂が家のあらゆる場所に忍び込んだ。
母の葬儀を終えた翌日、私はいつも通りポストを確認しに行き、その行為に意味がないことに気がついた。待っていても、母からの手紙は届かないのだ。父からはごくたまに送られてきていたけど、母がいた時ほどではなかったし、文面もいつも代わり映えしなかった。
元気にしているか、なにか足りないものはないか、マーサはよくしてくれているか、最後には決まって“愛している”と綴られ、父の名前が添えらえていた。
母が生きていた頃は、その手紙に返事を書いて送ったりもしていたけれど、母が死んでからはそれもしなくなった。父に伝わっていたか甚だ疑問だが、そうすることで幼心に私が怒っているんだということを示したかった。小さかった私にはそれしかできず、同時に、それが一番効果的だと思えた。無視を決め込むことで、お母さんのことをちゃんと見ずに、放っておいたことを悔やめばいいんだ、そう思っていた。
しかし、そのことで悔やんだのは父ではなく、私のほうだった。
今にして思えば、ずいぶんとバカなことをしたものだと思う。
鉛色の重い雲が垂れこめていた冬の寒い日、マーサが一通の手紙を持ってきた。
「――お嬢様!」
マーサの顔は真っ蒼で、私は過去に一度だけ、彼女のこの顔を見たことがあった。
それからすぐ、父の葬儀が行われた。母が亡くなったときと似たような顔ぶれが真っ黒い列を作り、その黒い集団が見守る中で、遺体の入っていない空っぽの棺が母の隣に埋められた。
葬儀のあと、参列していた叔母夫婦がマーサと話し、私のことを引き取ってくれた。何がなんだかわからないうちにマーサと引き離され、父と、特に母との思い出が詰まった家から連れ出された。
私の戸惑いなどとは関係なく、新しい生活が始まった。
「今日からここがあなたの部屋よ」
家に着くと早速、私のために用意してくれた二階の部屋へ案内してくれた。
部屋にはドレッサーやネコ足のキャビネット、衣装棚やベッドなんかが置かれていた。女の子らしい内装に、普通であれば喜ぶところを、私はなんの感動もなく見つめていた。
叔母夫婦の家で過ごす初めての晩、私はなかなか寝付けなかった。
どうして父に返事を書かなかったんだろう。そのことだけが頭の中で繰り返された。
ほんのちょっと、こらしめようと思っただけなのに――
父に落胆はあったが、嫌いなわけではなかった。ましてや死んでほしいなんて考えたこともなかった。会うのを楽しみにしていたし、会えば嬉しかった。
気づくと、顔を押しつけていた枕が濡れていた。
堪えようとしても、ひっくひっくという音が喉の奥から洩れた。
実際のところはどうだったか聞かされてはいなかったが、このときの私には、自分のした行為がもとで、父が死んでしまったような気がしてならなかった。
あるいは、叔母夫婦に尋ねれば、父の死の真相について教えてくれたかもしれなかったが、私にはそれを聞く勇気もなかった。
この日以降、私の心に後悔と自責の念が棲みついた。
それはほんの一時、身の内から出て行ったかと思うと、すぐに舞い戻ってきて、胸の中でずくずくと疼いた。ごめんなさいと謝る対象はすでにこの世におらず、この締め付けるような胸の痛みは、一生ついて回るんだろう。
塞ぎ込んでいる私を見た叔母夫婦は、両親を失い、悲しみに沈んでいるのだと思ったらしく、私を家に招いて以来、彼らは本当の父母であるかのように接してくれた。
私を取り巻く環境は、罪の意識を抱いた私に対し、寛容で優しく、それでいて切なかった。
それから何度目かの夏を越し――
うだるような暑さから解放されたある晴れた日の早朝、私は学校指定の真新しい制服に身を包んでいた。父親譲りの黒髪を高い位置でひとつにまとめ、鏡の前に立つ。ワンピースの裾をつまんで、おかしなところがないかチェックした。
(うん、大丈夫そう)
白で統一された制服は、全体的にすっきりとした印象を受ける。ロールカラーの左側には、鎖骨に添ってボタンが二つ並んでいて、私はそれがきっちり留まっているのを確認し、鏡から離れた。白いシューズを履き、爪先でとんとんと床を叩く。
鞄を持ったところで、部屋の扉がノックされた。
返事をして扉を開けると、そこに、これまでお世話になった叔母が立っていた。
「リディ、そろそろタクシーが来るけど、準備はできて――」
私の姿を見た叔母が、やや大袈裟に驚き、私の肩に手を置くと、上から下までしげしげと眺めた。
「よかった。よく似合ってるわ。こうして見るまでサイズどうか不安だったけど」
熱心に見つめてくる叔母の視線に照れ臭くなり、うつむきつつお礼を言った。
「用意してくれてありがとう、叔母さま」
「いいのよ、そんなこと」
叔母はそれから口許に手を当てると、ふふと声を立てて笑った。
なにかおかしなところがあったかなと首を傾げる。不安になって、自分のスカートに目をやった。
「あの……どこかおかしいですか?」
「いいえ、そうじゃないの」
叔母は私の背に手を添えると、玄関へと促しながら、今朝、叔父が家を出るときのことを話してくれた。
「あの人ったら、あなたのこの姿が見たかったらしくてね。家を出る前、あなたが降りてくるのをしきりに気にしていたようだったから」
「……それは、申し訳ないことをしました?」
まさかそんなものを期待されているとは思いもしなかったので、語尾にはてなマークがついてしまう。
叔母は首を横に振ると、実に楽しそうな顔をした。
「今頃、悔しがっているでしょうね」
家の門を出ると、すでにタクシーが待っていた。
後部座席に二人並んで座る。叔母が運転手に行く先を告げると、車はすぐに動き出した。
叔母と私は、それぞれ違う窓から外を見ていた。
車は街の郊外に向かっていた。私がこれから入る学校は、街の外れに立っている。いろんな色をした屋根がまばらになり、車は林道へと入って行った。
夏の盛りに濃い緑に染まっていた木々は、今ではずいぶん色褪せている。しばらくすると、その緑の隙間から尖った屋根が見えてきた。
学校の敷地に近づくにつれ、物々しい雰囲気が漂ってくる。建物の周りを囲む黒い鉄柵が見えてくると、隣に座った叔母の口からため息が洩れた。
「本当はね、私は今でも反対よ。なにも陸軍学校なんて行くことないのに」
私が曖昧に微笑んでみせると、叔母は諦めたように口許を押さえた。
「タロックとエリーズが生きていたら、私と同じように反対したでしょうね」
叔母の口から急に父と母の名前が出て、私はどきりとした。
車内がまた静かになる。
門のそばまで近づくと、私と同じように今年からこの学校で学ぶ生徒たちだろう。似たような形の車が列を作っていた。
「ここまででいいです」
待っていても進みそうにないので、運転手に声をかける。
車が完全に止まるのを待ってから、ドアノブに手をかけた。押し開ける。片足を踏み出したところで叔母が身を乗り出してきた。
「辛くなったらいつでも帰ってきていいのよ。でも……」
次の言葉をいうのに、少し間があった。
「きっと誇りに思ったと思うわ」
“でも”が何にかかるのか理解できず、戸惑いながらもうなずいて車を降りる。体の前できちんと揃えた両手に鞄を持ち、Uターンする車を見守った。
(あっ――!)
そのとき不意に、叔母が何を言いたかったのか理解した。父母のことを言っているのだと気づいた私は、タクシーの中に目を凝らす。走り去る車のリアガラスから、心配そうにこちらを見つめる叔母の顔が見えた。
車が速度を上げると、叔母は前を向いた。その背中が汽車に乗ったときの母の背中と重なり、胸がちくりと痛んだ。