第九話
「…………?」
見慣れぬ天井が視界に広がり、ギタはゆっくりと数回瞬きを繰り返す。瞼が眠りに落ちる寸前のように酷く重かったが、今はそれよりこの見慣れぬ光景の方が気に掛かる。我が家の天井は丸太で出来ており、焦げ茶色だったはずだ。だというのに、今、視界一杯に広がるのは真っ白なその天井。ここは一体何処だろう――そんなことをぼんやりと考えていれば、突然自分が横たわっている寝床が揺れて、視界にアイビーグレイが映り込む。
「ギタ……っ!!」
アイビーグレイの後はビリジアンがギタの視界を埋め尽くす。本人には一度として伝えたことなどなかったけれど、ギタはこの深い緑色が好きだった。その緑に見入っていると、頬にぱたぱたと温かいものが次々落ちてくる。そして目の前のビリジアンが、湖に落とされたエメラルドのように潤んだ。
「よ、かった……! 良かった!!」
尚もぼろぼろと涙を零しながら、フォルカーが震える手でギタの頬を両手で包み込む。それからコツンと額を合わせた。
「もう、二度と、貴女のそのアイリスの瞳が見られないのかと……!」
あまりに近すぎる距離のせいで、フォルカーがどんな顔をしているのかギタにはさっぱり解らなかった。ただ彼が幼子のように喉をひきつらせて号泣しているようだという事実だけが、脳内に流れ込んでくる。
「私、どうして……」
確かシーツを干していたはずだ、楽しそうなフォルカーを見送って。今日は天気がいいからすぐに乾くだろうとそんなことを考えていたはずなのに?
「覚えてないんですか? 倒れたんですよ、庭先で。あれから3日経ってます」
三日? 三という数字だけが頭に入るが、それがどれほど重大なことなのかまでは理解が及ばない。三日間も昏睡状態だったというのに。
「倒れてる貴女を見付けた時、心臓が止まるかと思いました。呼吸も鼓動も弱まっていて、本当に危険な状態だったんですよ!?」
フォルカーが告げていく内容に、そうか遂に倒れたのかということだけは理解した。しかも死に掛けるほど衰弱していたと。それもそうか、あれだけ体内のエネルギーを失いながら、補給を怠っていればいつか枯渇するというものだ。
「……死ねなかったんだ」
ぽつりと零れたその言葉は、多分ギタの奥底にずっとあった本音で。本当は、いつも死に場所を捜し求めていた。こんな体になってまで生きる意味とは何なのか、その目的を見つけられずにいたから。自ら命を絶つことを何度も考えたけれど、結局実行に移せないまま。来る時がきたら、あっさり死んでやろうと思っていたのに。
「な、にを、言ってるんです、か」
ギタの頬を包む手に力を込めて、フォルカーが突き合わせていた額を引き剥がす。しかし視界に戻ってきたビリジアンの瞳は、ゆらゆらと怒りに揺れていた。
「死ぬ気だったんですか、最初から!? だから、あんな無茶をしていたと!?」
『あんな無茶』と言われて最初は何のことかと首を捻ったが、すぐに『あぁ、リミララのための薬のことか』と合点がいく。
「最初から死ぬ気でやっていた訳ではないけれど、別にそうなっても構わないと思っていた。それでリミララが救われるなら、安いものじゃない」
命に重い・軽いがあるとは思いたくなかったけれど、少なくとも自分が生き続けてリミララが死ぬのだとしたら、自分が死んでもリミララが救われた方が絶対に良いとそう思えたから。しかし目の前で怒りを隠そうともしない男の中では、そうではなかったらしい。
「ふざけるな!!!」
突然室内に響いた怒声に、ぼんやりとしていたギタも思わず目を見開く。包まれた頬が、とても熱かった。
「誰がそんなことを望んだ!? 貴女を殺してまでリミララを救ってくれと、俺がいつ、頼んだ!?」
実際にはそんな風に頼まれたことなど一度もない。でもそんなこと、言われなくても解るというものだ。
「頼まれてはいないよ、私が勝手に思ってやったことだ。だからそのことについて、フォルカーが責任を感じることはない」
元より責任を取って貰おうなんて思ってもいない。フォルカーとはリミララを救うという『契約』を交わしただけだ。そのためにどんな手段を使うのかは、己の判断である。
「でも、普通に考えたら解るでしょう? どっちを救いたいか、なんて」
フォルカーが大切に想うその人。その人を救えるなら、自分の命なんて安いものだとそう思っていたのに。
「貴女はまた、そういうことを……!」
フォルカーの怒りの温度が更に上がる。何が彼の怒りに火を注いだのか、ギタにはさっぱり解らなかった。
「どうして自分の命を軽んじるんです!? 貴女の命だって、同じように大切なのに!!」
何を言っているのかギタには到底理解できなかった。
同じように、この命が大切だと?
何を馬鹿なことをほざいているのだろう、この男は。
「同じ? 同じなんてそんなこと、あるはずがない。私の命なんて、貴方達に比べたら、真綿のように軽い」
誰がこんな異形の者を必要となどするものか。
誰にも必要とされていないのに、その命が尊いものか。
皆が恐れ、戦き、目に入れることさえ嫌うこんな姿の生き物なんて!
「前に話したでしょう? 両親にさえ厭われるこの命に、生きる意味なんて、ない!!」
知らないからだ、フォルカーは。誰にも必要とされず、寧ろ疎まれ続ける人生なんて。そんなものを一度だって味わったら、誰しも生きる気力なんて失うだろう。愛しい人に想いを告げることもできず、愛おしい人を想うことすら憚られるようなこの気持ちを。ギッと頭上のビリジアンを睨め上げる。しかしその緑は怯むことなく見詰め返してきて。
「俺は……貴女に生きて欲しい」
激昂を孕んだままの瞳で、しかし声音は酷く穏やかで。そのアンバランスさが、逆にフォルカーの本音を語っているようだった。
「リミララにも、勿論治って欲しいと思っています。でもそれが、貴女の命と引き換えだなんて、到底納得できない」
フォルカーの右手がギタの左頬を撫でる。その熱を移されて、ギタは息を呑んで彼を見上げた。
「俺では駄目なんですか? 俺がこんなにも、貴女に生きて欲しいと、貴女を必要だと思っているのに、どうしてそれが伝わらないんですか?」
フォルカーがギュッと薄い唇を噛み締めるのが目に入る。そんなに強く噛んだら出血してしまうのではないかと心配になるほどに。
「……そういう同情は、要らないから」
凡そ薬を作ってくれた礼か何かだとでも思っているのだろうけれど、そんなもの今のギタには逆効果でしかないと何故気付かないのだろう? そんな甘やかな言葉など、ギタにとっては傷口に塩を塗りこまれているようなものなのに。
「貴方に頼まれたからリミララの薬を作ったのは事実だ。でもそのことに対して、貴方は十分な対価を払ってくれている。だからそんな風に責任を感じる必要はないよ」
同情も、哀憐も、欲しくなんてない。リミララの薬の件は契約の上での話であり、いわばこれはビジネスに近い。その相手に、利害関係以上のものなどを求めてはいけない。ギタは痛いくらいにそのことを知っているというのに。
「責任とか同情とか、そういうものじゃないのだと、どうして分かってくれないんですか?」
フォルカーがギタを包む手に少しだけ力を込めて鼻先を再び寄せてくる。ギタが顔を引こうにもベッドの上ではそれも叶わない。吐息が重なるその距離で、二人はただじっと見詰め合う。こんな至近距離で誰かの存在を感じるのなんて幼少期以来で、ギタはどうしたって混乱してしまう。
「放し、て」
堪らず開放を促すが、フォルカーがそれに従う様子もなく。
「どうしたら、俺の気持ちが伝わりますか? 俺にとって、貴女がどれほど大切な存在なのか、どうやったら解って貰えるんですか?」
切なに眉を寄せたフォルカーが更に顔を寄せてきて、ギタは呼吸を止める。ほんの僅かにでも身じろげば、唇が触れてしまいそうだったから。
「やめ、て! 放して……!」
何の冗談かと。そういうことがしたいのなら、それ相応の相手とすればいいではないか。どうしてこんなことをするのかと、本気で殴ってやりたくなった。病み上がりで力など碌に入らないその腕で、必死に突っ張ってフォルカーを引き剥がそうとする。しかし上から自重を掛けている男性に力で敵うはずもなく、ギタは瞼を固く閉じるくらいしかできない。
丁度その時だった。コンコンと軽快に扉をノックする音が室内に響き、フォルカーが弾かれたように顔を上げる。助かったと思ったのは、言う間でもない。
「入ってもいいかしら?」
扉の向こう側から伺いを立ててくる声音は、若い女性のもののようだった。
「……ど、どうぞ」
先程までとは打って変わり、フォルカーは僅かに動揺した様子で扉の向こう側に声を掛けた。その返事を受けてカラカラと開かれた扉の先には、見知った麗しい女性の姿があって。
「どう? ギタさんの様子は……って、意識を取り戻されたの!?」
寝巻き姿の上に淡い緑のカーディガンを羽織ったリミララが、パタパタとスリッパを鳴らして走り寄ってくる。その姿に、ギタは自分のことも忘れ、『あぁ、走れるくらいに改善したのか』とだけ思っていた。
「良かった! 本当に良かった! もしこのまま目を覚まされなかったら、どうしようかと……」
ギタの横たわるベッドの傍に跪くと、リミララはギタの右手を掴むように手を伸ばしてくる。その先にある自分の手の甲に視線をやり、ギタは慌てて右手を引いた。
「……っ! さ、触らない方が……」
担ぎこまれた時のまま、ギタの両手には包帯などの目隠しが一切施されていない。リミララに針の事実を知られたという恐怖もあったが、それより何より彼女を傷付けることの方が怖かった。しかしリミララはギタの制止も物ともせず、自身の両手でそっとギタの右手を包み込んだ。
「針のことは、フォルカーから全て聞きました」
あぁ、自分が意識を失っている間に全て知られていたのかと思えば、諦めなのか肩の力がスッと抜ける。
「そもそも、貴女が意識を失う切欠になったのが、私の薬のせいだったのでしょう……?」
そこまで言われて、ギタはサァッと血の気が引くのを感じていた。そうだった、針を見られただけならまだしも、リミララはその針を削った物を混ぜた薬なんて代物を、知らずに飲まされていたのではないか。
「ご、ごめんなさい……。貴女の病状が良くないとフォルカーから聞いていたものだから、もうこれしか手はないと思って……」
どれほど罵られたって、きちんと受け入れるつもりだった。それがリミララを救うための手立てだったのだとしても、効能も解らない、しかも他人の背中から生えていたなんて異物を飲まされたなんて知ったら、誰しも嫌悪感を抱かずにはいられないだろう、そう思っていたから。しかし伺うようにそっと向けた視線の先には、嫌悪も憤怒も現れてはいなかった。
「どうして、ギタさんが謝るんですか? 謝るなら、私の方でしょう?」
そう零したリミララのターコイズの瞳があっという間に水の膜に包まれる。
「私がフォルカーに治療薬なんか頼んだりしたから! だからギタさんは責任を感じてご自身の針にまで手を掛けてしまったんでしょう!?」
リミララの眦からボロボロと涙が零れ落ちる。まさか彼女にそんな風に泣かれるなんて思ってもみなかったので、ギタの方が慌ててしまった。
「いや、まぁ、確かにフォルカーに貴女の薬を頼まれたのは事実だけれど、薬に自分の針を混ぜようと思ったのは、完全に私の自己判断で……」
「それでも! 私の病気のことを知らなければ、貴女はこんな無茶をしなかったでしょう!?」
肩を怒らせつつ拳を強く握り締めるリミララは、真っ赤な顔のまま涙を零し続けていた。
「私がこれで助かったのだとしても、その代わりとなるように貴女が死んでしまうのかと思ったら、怖くて怖くて堪りませんでした。貴女の命と引き換えに生き延びるなんて、そんなの死んでもご免です!」
遂には幼子のように喉を引き攣らせながら号泣し始めたリミララに、ギタは困ったように眉を下げるしかない。そんな二人を黙って見詰めていたフォルカーが、ボソリと呟く。
「だから言ったでしょう? 例えリミララを救うためだったのだとしても、貴女がそれで命を落とすことを、誰も望んでなんていないんです」
呆れたようなその口調に、ギタは何も返せなかった。自分が何処で野垂れ死にしようとも、誰も何とも思わないと思っていた。そのまま誰に知られぬでもなく、土に還るのだろうと。それなのに、この二人は、本当に心から自分を案じてくれ、更には涙まで流してくれるのかと。
胸の辺りがほんのりと暖かくなるのを感じる。それは初めての感覚で、ギタは思わず胸元の服を強く握り締める。そこはドクドクと強く脈打っていた。
そうして暫し三人で話し込んでいたのだが、コンコンと再びドアをノックされる音が響いて、今度は白衣を身に纏った長身の男性が現れる。その人は入室を許可されると、そのままツカツカとギタのベッドに歩み寄った。
「意識を取り戻されたようですね。これで一安心です」
言いながら彼は手元のファイルに何かを書き込んでいる。その様子をジッと見詰めていると、ギタの視線に気付いたのか男性が顔を上げた。
「あぁ、そうか、貴女にお会いするのはこれが初めてでしたね。私は貴女の担当医のゲシュリス・エウバーと申します」
『どうぞ宜しく』と差し出された手を、しかしギタは握り返すことができなかった。自分の手の甲の針を見られたくなかったからだ。
「あぁ、その針のことですが……珍しい症状ですね。体調が戻ったら、是非そのことについてもお伺いしたいのですが」
いつまで経ってもギタが手を出してこないことに、ゲシュリスは聡く気付いたらしい。すぐに差し出していた手を引っ込めて、またファイルに何かを書き込み始めた。
だから嫌だったのだと、ギタは誰にも聞かれぬように小さく小さく舌打ちする。ギタはこの体になってからというもの、医者という職業の人間に診察されたことがなかった。凡その症状は自分の薬で何とか対応できたということもあったが、こうして研究対象のような眼差しを向けられるのが嫌だったからだ。
「ところでリミララさん、貴女はそろそろご自身の病室に戻られた方がいいのでは? そろそろ検温の時間でしょう?」
ゲシュリスの言葉にリミララは弾かれたように立ち上がる。それからパタパタとスリッパを鳴らして扉まで駆けて行き、最後にもう一度だけこちらを振り返り、『また来ます!』とだけ告げて出て行った。
リミララが去った後、フォルカーに病室の外で待つように促すと、ゲシュリスはそのままギタの診察を始めた。彼が背中に腕を伸ばしたその時、ギタは条件反射のように背を丸くして後ずさる。
「……まるで手負いの獣ですね」
言い得て妙だとギタも思わず納得してしまいそうになった。
「嫌味ですか」
「いや? 見たままを言ったつもりですが」
『そう取れたのなら、謝罪します』とだけ言って、ゲシュリスは伸ばした腕を下ろしてしまった。
「まぁ、事実手負いですから、治療をさせて欲しいのですが」
一度肩を竦めてから両手を広げた彼からは、確かに悪意は感じられなかった。その様子に、ギタも渋々ではあったが彼の方へ背中を向ける。どうやら背中の針はまだ再生できていないようで、ゲシュリスは茶色の毛並みを掻き分けて皮膚の様子を診察していた。
「それにしても、いくら知人を救うためとはいえ、無茶をしたものですね」
綿を消毒液に浸しながらゲシュリスが呟く。彼はそのままピンセットでギタの背に消毒液を塗り始めた。
「これだけの傷だ、かなりの期間、背中の針を抜き続けたでしょう?」
「…………」
ゲシュリスの問い掛けに、けれどギタは答えなかった。答える必要性を感じなかったということもあったが。
「しかもこの針は、爪に近い成分で構成されているのでは? だとしたら、失った分のたんぱく質を補給しなければ、栄養失調状態になるのも当たり前です」
背中一面に消毒液を塗り終えたゲシュリスは、ギタの背に包帯を巻き付け始める。白い布地に包まれていく体は棒のように細かった。
「なのに、貴女は食事の管理を怠りましたね」
これだけ痩せていれば、そんなこと一目瞭然だっただろう。ゲシュリスが包帯を巻き終えたのを確認して、ギタは上着を羽織った。
「家計状況が厳しかったもので。次からは気をつけます」
胸元のボタンを留めていれば、背後から大きな溜息が一つ聞えてきた。
「次……ですか。次が訪れればいいですけれど」
その言葉に、何か引っ掛かりを感じてギタはゲシュリスの方へと向き直った。彼は僅かに眉間に皺を寄せたまま、ギタをじっと見詰めていた。
「まず、貴女のその背中に針が再生するかどうかすら分かりません。まぁ、こんな症状を抱えた患者を他に見たことがないので断定はできませんが」
まぁ確かに、ギタ自身も自分以外にこんな針を生やした患者など見たこともなかった。そもそも、こんな異形の生物なんて、自分以外に存在して欲しいとも思わなかったが。
「それから、もし次にこんな状態に陥った場合、今回のような不適切な対応しかしなければ……今度こそ、命に関わるかもしれないと覚悟して下さい」
実際今回だって三日間も昏睡状態に陥ったのだ。次に同じ事をすれば確かに死ぬかもしれないだろう。
「……心に留めておきます」
そうは返したけれど、放っておいて欲しいというのが本音だった。そもそも今回だって、助けてくれなんて誰に頼んだ覚えもなかったのに。
「それは、全然心に留める気がない……って感じですね」
視線を手元に落としていたギタが、ゲシュリスの言葉で顔を上げる。そこには呆れた様子を隠そうともしない彼の姿があった。
「まぁ、今日は意識が回復したばかりですし、ここまでにしましょうか。詳しい診察は明日からということで」
それだけを短く告げると、ゲシュリスは医薬品の載ったカートを押して、そのまま部屋を出て行った。