第八話
そうして遂に、その日が訪れる。リミララの病状はかなり回復し、自宅に戻れるかもしれないというほどに回復していた。そのことを一刻も早く伝えようと家路を急ぐフォルカーの足は軽かった。
「ただいま戻りましたー!」
いつものように意気揚々と扉を開けば、目の前のテーブルに腰掛けたギタが迎え入れてくれるはずだった。『おかえり』と言って、薄く笑みを浮かべながら。だというのに、こんな日に限って彼女の姿が見えない。また自室に引き篭もっているのかと彼女の部屋の前まで歩み寄ってみるが、室内からはその気配を感じ取ることはできなかった。念の為にノックを数回響かせてみてもやはり応答がない。一体何処に消えたのだろうと辺りをきょろきょろと見回してみる。トイレか、浴室か、思い当たる所を順々に探していく。リミララが退院できるようになったのだと早く伝えたいのに、どうしてその伝えたい人が居ないのかと。しかし何処を探してみてもギタの姿は見当たらなかった。
もしかしたら外出したのかとも思ったが、生憎ギタは人と関わることを極端に嫌がっていたので、それ相応の理由でもない限り外出するということは考えにくい。そもそも今日はそんな予定があるとも聞いていなかった。それでは一体何処に行ったというのだろう?
ここまできて、フォルカーの胸がざわざわと騒ぎ始める。嫌な予感というのは、きっとこういうものなのだろう。ここまで探しても彼女の姿が見当たらないということに、やっと危機感を抱き始めた。室内は全て探し切った。元よりそう広くはない家だ、探す場所だって限られている。それでは外かと視線を窓の外に向ければ、物干し竿に掛けられた真っ白なシーツが翻る姿が目に入った。今日は確かにとても良い天気で、絶好の洗濯日和だった。
屋外へと続く扉を押し開き、その隙間からするりと外へ出る。ぱたぱたと風を孕んではためくシーツの音。その音に耳をとられていると、左手の地面に何かの塊があることに気付いた。
地面に突っ伏すように横たえられたその体には、マントほどではないが背中を覆う肩掛けが纏わり付いている。最近のギタは『少し寒くてね』と言って、その肩掛けを愛用していた。そのことに違和感を感じなくはなかったが、その下に隠されているその背に彼女がどうしようもないコンプレックスを抱えていることを知っている以上、そのことに言及することが憚られて。けれどその時になって、フォルカーは何故あの時そのことに強く突っ込まなかったのかと激しい後悔に襲われていた。ふわりと吹き抜けた風が彼女の背を覆っていた肩掛けを捲くり上げ、その下の背を晒したからだ。その背には――あるはずの無数の針が殆ど無くなっていた。
「……ギタ!!!」
フォルカーは足をもつれさせながらもギタの傍に走り寄る。抱きかかえた彼女の体は真綿のように軽く、顔は土のように色を失っていた。
「ギタ! ギタ!? しっかりして下さい! ギタっっ!!」
頭を打っていたとしたならば、そんなことはしてはいけないと分かっていたのに、彼女の体を大きく揺することを止められなかった。とにかくその閉じた瞼を開いて欲しかったのだ。慌てて彼女の胸に耳を当てる。そこは僅かに拍動していたが、その速度が恐ろしく遅いことに血の気が一気に引く。震える膝に力を込めて、一気に彼女を抱きかかえる。これほどに痩せ細った体を持ち上げることなど、造作もないことだった。
急いで彼女のベッドへと痩身を運び込む。横たえた体に外傷がないことを確認し、首筋、腹部などに触れて異常がないか確認する。フォルカーはただただ混乱するばかりで、指先が震えて正しい診断が下せずにいた。
「一体、どうして……いつから、こんな……」
いや、実際には薄々気付いてはいたのだ、ギタが何かを隠しているということに。それは多分,
リミララのあの薬を処方し始めた時からだったと思う。
そっと彼女の体をうつ伏せに変えて、肩掛けを捲り上げる。彼女の背をもう一度眺めてみたが、やはりその背には太い針は殆ど残されていなかった。こんな状態の彼女の背を見るのは初めてのことで、そのことが益々フォルカーを動転させる。こんなに一気に針が抜けることなどあるのだろうか、と。
太い針を失ったその背は、針の下を覆うように生えている茶色の少し柔らかい毛だけがのこされている。その毛並みを労るようにすっと撫でた時、違和感を感じて腰を屈めた。注意深く茶色の毛を掻き分けたその先には、ギタの肌色の皮膚が見える……はずだったのに、それは一面どす黒い赤に覆われていたのだ。
「…………っ!?」
フォルカーは慌てて床に膝をつき、ギタの背に生える毛並みの下を慎重に診察する。彼女の肌自体が変化したのかとも思えたが、目を凝らしてみればそこは瘡蓋の上に瘡蓋が重ねられ、更にその下からも出血しているという酷い状態だったのだ。
ギタの背に生えていた針は、彼女自身を守るためのものであり、傷付けることなど有り得ない。ましてこの硬い針で覆われていた彼女の背中の皮膚が、こんな風に傷つくことなど更に有り得ない。だとすれば、辿り着く結論は。
顎に手をやって考え込んでいたその時、ふと視線を向けた机の上に白い布に包まれた物を発見する。その白がどうにも気になり、立ち上がって生地を広げてみれば――そこにはギタの背に生えていたであろう針が数本包まれていた。
フォルカーの頭の中で最悪な思考が連鎖してゆく。彼女の背中から失われた針、そしてその下を覆っていた酷い傷。純白の生地に大事そうに包まれていた彼女の背中の針。己の意思とは無関係に震え始めたその手で、フォルカーはその内の一本を手に取った。そしてその針先を目にした途端、瞳を大きく見開いたまま絶句する。それは明らかに、鋭利な刃物で削り取った跡があったからだ。
手にしていた針を生地の上に戻すと、フォルカーは我を忘れたように彼女の机の引き出しを漁り始める。プライバシーの侵害だということは重々承知の上だったが、今はもうこの嫌な予感の根幹を確認することしか頭になくて。
リミララの薬を処方するようになってから、顔色を悪くすることが増えたギタ。その頃からこの肩掛けを愛用するようになっていた。それに何より、彼女はリミララの薬を配合するときに自身で口にしていたではないか、『ちょっとした物を配合している』と。その『ちょっとした物』とは何なのか。彼女はリミララの薬を調合する所を、何度頼み込んでも見せてくれることはなかった。それはつまり、フォルカーには見せられない物を配合させているという裏付けにはなるまいか? そして机の上に隠すように包まれていた彼女の背に生えていた針。それが刃物で削られていたとしたならば。
全ての事象が線で結ばれていくようだった。その先にある答えを求めてフォルカーは必死にギタの机に収められたノートを捲る。そうして辿り着いた一枚のページに視線を落としたその直後、ビリジアンの瞳を大きく見開いたまま呼吸すらも忘れた。そこに記載されていた薬の配合表に書かれていた物の中に――『ヤマアラシの針』と記載されていた物があったからだった。
***
そのことに気付いた瞬間は、まるで雷にでも打たれたかのような気がした。抜けても抜けても次々と生えてくる背中の針。その再生能力があれば、リミララの病気にも効果があるかもしれないと。
その可能性に気付いた時には、何の躊躇いもなかった。
寧ろ頭に浮かんだ言葉はただ一つ、『あぁ、良かった』それだけだった。
だってこれでフォルカーの大事な人を救うことができるかもしれないと。
彼との約束を果たすことができると。
やっと誰かの役に立てる時が来たのだと。
しかも今まで厄介者でしかなかった、この針で。
だから何の躊躇もなく自分の背に指を掛けた。そうして試作として作った薬に激的な効果が認められれば、更に躊躇がなくなった。日に何本も抜き去ったこともある。時には痛みも伴ったけれど、それだって耐えられないほどの激痛でなければ気に掛けることもしなかった。
背中の針が減ってきている自覚はあった。だからそれを隠す為に、寒気を装って肩掛けを常用するようになっていた。だってもし、自分の背中の針なんて物をリミララの薬に混ぜ込んでいることをフォルカーに知られたらどうする? 流石に彼だってそんなおぞましい物、リミララに飲ませることを止めてしまうかもしれない。それだけは避けたかった。どうしても、リミララには回復して欲しかったから。
病院から帰宅した時のフォルカーは、まるで太陽のように明るく眩しい笑顔を振り撒くようになっていた。彼のその笑顔が曇るところなど、見たくもなかった。彼がどれだけリミララを大切に想っているのか、その笑顔を目にすれば手に取るように解るような気がしたから。
彼の大切な人を、私も助けたかった。これだけは、嘘一つなく真実で。
こんな醜い体になってしまったことに、もし何か一つでも意味があるのだとしたら、この時のためだったのだとそう思いたかったからかもしれない。そう考えれば自己満足でしかなかったのかもしれないが、それでも良いと思えたから。
針の再生にはそれ相応のエネルギーと材料が必要だろうということは予測していた。だからリミララの為の薬を調合し始めて二週間も経ったころ、自分の体が鉛のように重く、少し動いただけで息があがるような状態になっても、『それはそうだろうな』としか思えなかった。かなりのたんぱく質を流出しているであろうに、それを補充するだけの栄養を摂取していない。それは具合も悪くなるだろうと思っていた。けれどこの家の家計状況は自分が一番よく理解して、当然そんな高価な食材など口にできるはずもないことも理解していた。
その内眩暈を感じることも多くなり、時にはぼんやりとして意識が遠のくことも増えてきた。流石にここまでくると不味いかなとも思い始めたが、それも一瞬のことですぐにどうでもよくなった。
そもそも、私には生きている価値も、意味すらもないのだから。
だからいつ、この体が土に還ったとしても何の問題もない。
それ以上に、今、この体で誰かの役に立てるのが嬉しくて。
それが、大切に想っている相手なら、尚のこと――。
彼だけだった。
彼だけが、自分のこの異形の姿を目にしても、逃げることなく受け入れてくれたのだ。
しかも時には『綺麗だ』とまで言ってくれて。
彼がそんなことを口にする度に、『目と頭の検査をした方がいい』なんて可愛くないことばかりを言ってしまっていたが、本当は心臓がぎゅっと縮こまりそうになるくらい嬉しくて、同時にとても怖かった。
だって、彼はリミララが回復すればこの家を去るのだから。元来、彼女を回復させるための薬を作るという約束で彼はこの家に居たのだから、その目的を果たしてしまえば当然出て行くに決まっている。そうして残された自分は、また一人この家で細々と暮らしていくのだ。
その状態に戻ることが、怖かった。一人なんて慣れっこだと思っていたのに、今更そんなことに恐怖を覚えるなんてどうかしている。そんなことを思っては、苦い笑みを浮かべて自分を貶めた。今更、誰かに傍に居て欲しいと願うなんて。家族にすら見捨てられた自分と、赤の他人が一緒に居てもいいなんて思ってくれるはずがないと。
しかもフォルカーが誰を大事に思っているか、誰と一緒に居たいと願っているかなんて、百人に聞いたら百人が同じ答えを返すだろう。彼は己を投げ打ってまで、リミララを救おうとしているのだから。リミララはもちろん、彼にそう想って貰えるだけの魅力を秘めているとギタも理解している。
リミララを見舞ってから帰宅するフォルカーは、まるで宝石のようにきらきらと輝いて見えた。希望と喜びに満ち溢れる姿。その姿を目にしてギタも同じように喜びを感じていたのに、いつからかそこに鈍い痛みも伴うようになってしまった。
愚かなことだと、自分を更に貶める。背中に無数の鋭い針を生やした女。そんな女性を、一体何処の男性が愛おしいなんて思ってくれるだろうか? 気持ち悪がられなかっただけで喜ぶべきところなのに、いつから自分はこんなにも強欲になったのだろう?
己の背から針を一本一本抜き去りながら、この胸に抱えた想いも一緒に抜け落ちることを願う。叶うはずのない夢は、毒と同種だ。己の身の内にどんどんと蓄積され、いつか致死量を越えるのだ。
今日もフォルカーは若葉に落ちた朝露のように、煌く笑顔と共にリミララの待つ病室へと向かった。リミララの退院ももう目前だという。ギタは今度こそ、自分の役目の終焉を悟る。シーツを干しながら見上げた空は、雲一つない真っ青な色を呈していて。そのグラデーションを描く青に吸い込まれそうだと、そう思う。そうしてそのまま、本当に吸い込まれるように意識を手放した。