第六話
そうして帰宅してからというもの、ギタは自室に引き篭もることが増えた。時には丸二日ほど姿を見せないこともあり、フォルカーは一人でやきもきさせられていた。しかもそうして引き篭もった後に姿を現せたギタは、大抵酷くやつれて疲れていた様子を見せていたからだった。
「部屋で、何をしてるんですか?」
ある日、耐えられなくなって問い質してみれば、ギタは薬草を仕分けてる手を休めることもなく答える。
「調合を。リミララに合う薬を探して」
「ならば、この部屋でやればいいのでは? それなら俺も手伝えますし」
「……いや、一人で集中してやりたいから」
その少しの間に、フォルカーは直感的に嫌悪を覚える。何か、隠されているような気がしてならなかった。だって彼女が言っていることには筋が通らない。調合だけならこの部屋で十分できるし、今までだってそうしてきたはずなのに。だとしたら、何か自分に見せられないものを隠しているとしか思えなかった。
そんな嫌な直感を感じた数日後、ギタはまたしても自室に閉じこもって出てこなくなってしまった。しかも今回は既に3日が経過している。今までにないその長さに、フォルカーの嫌な予感だけが膨らんでいく。
「ギタ……? 今日も食事を摂らないつもりですか?」
ここ数日同じように声を掛けても、全く返事はなかった。何かしらは口に含んでいるようだったが、3日も経てば流石に何かまともな物を食べなければ体が参ってしまうだろう。どうしたものか、もういっそ扉を蹴破ってしまおうかと危ういことを考え始めたその矢先、目の前の扉の向こうからドタンと何か大きな物が倒れるような音が響いてきて、フォルカーは驚きで肩を跳ね上げさせた。
「ギタ!? ギタ、どうかしましたか!? 何か大きな音がしましたけど?」
ドンドンとドアを大きく叩いても返答は無い。フォルカーの脳裏に最悪な事態が過ぎる。しかも大抵こういう予感は当たるものだ。
「……開けますよ!」
もう我慢の限界だと、フォルカーは目の前の扉のドアノブを握る。案の定それには鍵が掛けられており、軽く舌打ちをしてフォルカーは自身の肩を扉に打ちつけ始めた。
「ギタ!! いい加減、ここを開けてくれませんか!? さもないと、本当にこの扉を壊しますよ!?」
がんがんと強く打ち付ける肩は悲鳴を上げ始めていたが、今はそれどころではないと感じていた。ここまでフォルカーが大騒ぎをしているのに、ギタが姿を現さないのがおかしかったからだ。一際強く肩を打ち付ければ、ガコッという音と共に、扉の蝶番が破壊されたようだった。その扉を慎重に押しやって室内を覗き込めば――そこにはフォルカーの予想通りに床に倒れ込んだギタの姿があって。
「…………っっっ!!!? ギタ!!!?」
慌てて走り寄ってその体を揺り起こそうとして、初めてその顔色の悪さと高い熱に気付く。
「どうして、こんなになるまで!!」
3日前まで彼女は比較的元気そうにしていたではないか。それがどうしてこんなに急激に悪化したというのだろう? 確認したいことは山ほどあったが、今はとにかくギタを休ませなければとその体を抱き上げれば、その軽さにまた舌打ちしたくなった。こんなに痩せ細っていたなんて!
ベッドへと横たえた体は、肩で息をするほと呼吸が荒くなっている。額に触れてみれば恐ろしいほどの高熱で、こちらが青褪めてしまうほどだった。
「とにかく、水分を摂らせて、解熱させないと!」
解熱効果のある薬はどこにあっただろうかと考えながら扉へと向かおうとしたその時、ふと窓辺に置かれていたギタの机の上の物が目に入って動きを止める。小さな紙面の上に置かれた刻まれた木の実。それを一つ指先に摘んで鼻先に寄せてから、フォルカーはこれでもかというくらいに眉間に深い皺を刻んだ。
「これは……レバッカの実じゃないか!!」
その実の効能を記憶から引き摺り出し、フォルカーはガバッとギタの方を振り返る。それはフォルカーの記憶の中にあるレバッカの実の効能そのものが現れていた。
「なんてことを……!」
吐き捨てるようにそう言って、フォルカーは瞬時に薬草が仕舞ってある薬箪笥へと駆けていく。その中からお目当ての薬草を数種類引っ掴むと、すぐに乳鉢に入れて細かく砕き始めた。
暫くして漸く出来上がった薬をギタの口元へとスプーンで運ぶ。しかしギタは『うぅっ』と短く唸るだけで、それを口に含もうとはしなかった。
「ギタ! 駄目ですよ! 早く飲んでください!!」
もし彼女がレバッカの実を口にしていたのだとしたら、一刻を争う事態だ。ここでそんな風に抗われていたら、本当に命に危険が及ぶ。だというのに、口の中に無理矢理薬液を流し込んでも、ギタは口端から零してしまうだけで一向に飲み込んではくれなかった。
「飲んで! 飲まなきゃ、死ぬかもしれないんだぞ!!」
冗談じゃない、こんなことで彼女を殺すわけになんていかない。彼女には、まだまだこれからも――とそこまで思い至り、フォルカーはその手を一瞬だけ止める。しかし次いで、今は余計なことなど考えている余裕なんてなく、とにかくこの薬を飲ませなくてはならないのだと自分を戒めた。
何とかして飲ませなければ、この薬を。意識のない人間に薬を飲ませる手段なんて、それほど数があるはずもなく、フォルカーの脳裏にはすぐにその方法が思い浮かぶ。しかしそれを実践していいものかと一瞬の躊躇が生まれた。自分は構わない、そんなことでギタを救えるなら安いものだとさえ思えたけれど、ギタはそうではないかもしれないと思えたから。
どうする――と逡巡していると、腕の中でギタが苦しそうに一度だけ呻く。その声に背を押されるように、フォルカーは手にしていた食器を一気に煽った。舌に痺れるような苦味を感じたが、構わずそのままギタの唇にそれを押し当てる。
「…………ぅっ」
薄く開いたギタの唇の隙間に、自分が調合した薬液を流し込む。そのまま零すことがないように唇を塞いでいれば、ギタの喉がごくんと音を立てたのを耳にしてゆっくりと唇を離した。それを三回ほど繰り返し、食器の中の全ての薬液を飲ませると、ふうっと軽く息を吐き出す。
ギタの顔は未だに青いままで呼吸も荒かったが、もしフォルカーの予想が当たっているなら、先程の薬で大分症状が改善するはずだと信じながら。
「…………?」
視線の先には見慣れた天井があった。それは別段いつもと変わりないので何の問題もなかったのだが、果たして自分はいつの間に眠っただろうかと記憶を辿る。しかも意識を失う前まで全身を焼くように覆っていた激痛と発熱を感じなくなっている。薬効が切れたのかとも思ったが、ギタの見立てではあと半日はあの症状が治まるはずはなかったのにと首を捻っていれば、右手に感じる柔らかな感触にギタは慌てて首を上げる。
「!? ふぉ、フォルカー!!?」
右手に触れた柔らかな感触は、ベッドに散りばめられたフォルカーのアイビーグレイの髪で。よくよく見てみれば、フォルカーが自分のベッドに突っ伏して眠っていた。
「ん……」
目覚めてすぐに騒ぎ始めたギタに、フォルカーの瞼が上げられる。ゆっくりと結ばれる焦点が自分と重なった瞬間、フォルカーがガバッとその身を引き起こした。
「ギタ!! 目が覚めたんですね!!」
ガッと肩を掴まれて世界が揺れる。一体何が起こっているのか全く理解出来ずにギタが目を白黒させていると、目の前のフォルカーの背後からゴゴゴという擬音と共に真っ黒なオーラが現れた。
「貴女……自分が一体何をしたか、解ってますよ、ね?」
今まで感じたこともない怒りのオーラに晒されて、ギタは思わず『ひっ!』という間抜けな悲鳴を上げていた。
「あの机の上の実、見間違いでなければ、レバッカの実ですよね?」
フォルカーの鋭い視線と地を這うように低められたその声に、ギタはぴくっと体を震わせる。それとほぼ同時に、最早言い逃れができない状況に追い込まれていたことに気付いた。何も答えようとせず、視線を窓辺の方にだけ逸らしたギタに、フォルカーの機嫌は益々降下する。
「答えられないってことは、俺の見立てが合ってるってことで良いですか?」
なおも貝のように口を閉ざしたままのギタに、痺れを切らしたのはフォルカーの方で。はぁぁぁっと大きな溜息を一つ吐き出すと、フォルカーはギタの肩を掴んでいたその手に力をと込める。
「いっ……!」
あまりの力の強さに痛みを訴えれば、フォルカーはジリッとギタに顔を寄せて呟く。
「どうしてあんなことを? 貴女ほどの人が、レバッカの実の毒性を知らないなんてことはない、ですよね?」
そう、ギタが口にしたであろうその実は、薬草などではなく、毒薬だったのだ。しかも量を間違えれば死を招きかねないほどの毒性を持つ。観念したようにギタがフォルカーへと視線を戻せば、そこにはありありと怒りを乗せた双眸があった。
「理由を聞かせて貰えますか?」
言えば、必ず止めに入るだろうと思ったから、黙って一人でやっていたというのに。けれどここまで知られてしまっては、今更隠すことすら困難だろう。
「効能を、試したかったから」
「効能、ではなくて、毒性ですよね? それを知っていて、何故そんな馬鹿なことをしたんですか?」
逃げ場はないとでも宣言するようにフォルカーに言い募られて、今度はギタの方が溜息を零す。
「……こうでもしなければ、効果がある薬を作れそうにないと思ったから」
『何のため』という部分は敢えて口にはしなかったが、聡いフォルカーのことだ、すぐにギタの言いたいことを悟ってしまったようで。ヒュッと喉を鳴らすと今度は顔を青褪めさせた。
「リミララの薬のため、ですか?」
諦めたように首を縦にふったギタの肩を、フォルカーは更に力強く掴む。
「いった……! 痛いって、フォルカー!」
「ふざけるな!!!」
痛みを訴える声さえ掻き消して、フォルカーは今までにないほどに声を荒げる。その怒りの理由はよく解っていたから、ギタは肩が捥ぎれるんじゃないかと思うほどの痛みを感じたが、その痛みさえ甘んじて受け入れようとしていた。
「分かっているよ、そんな毒性の高い物を今のリミララに使えないってことくらい。だから自分の体でその毒性がどのくらいなのか試していたんだよ」
それでなくとも病気で体力を失っている患者に、毒性のある物を飲ませるなんて、普通に考えたら有り得ない。けれどこのまま一般的な薬を幾ら組み合わせたとしても、リミララを救えるほどの薬が作れるとは到底思えなかったのだ。
ぎりぎりとフォルカーの指先がギタの肩に食い込むのを感じる。それはそのまま彼の怒りを表しているようで、ギタの心が少しだけ痛んだ。流石の彼も、これには呆れているだろう。自分の大切な人に、薬とはいえ毒を盛ろうとしていたなんて。
「フォルカーが怒るのも、尤もだと思う。それは甘んじて受ける。けれど、これだけは信じて欲しい。私はリミララに毒を盛りたかったわけではなくて、ただ彼女を救いたくて……」
今更だ、とは思う。今更どんなに言葉を重ねてみたって、彼の信頼を取り戻せるわけがない、と。自分の薬剤師としての腕を見込んで治療を委ねてくれたというのに、その信頼を裏切るような真似をしてしまったということだけが苦しかった。けれどフォルカーが次に発したその言葉は。
「そうじゃない、そうじゃないんだよ!!」
ぐっと更にフォルカーが腕に力を込めて、その勢いのままギタはベッドへと押し倒されていた。見上げた先には、苦しそうに歪められたフォルカーの顔。
「ギタが、リミララのためを思ってやったなんてことは、聞かなくても解る。貴女はそういう人だと知っているから。けど、俺が言いたいのはそういうことじゃなくて……」
リミララに毒性の高い薬を処方しようとしていたことが問題じゃないのだとしたら、他にどんな問題があるというのだろう? ギタが本気で理解できないという表情を浮かべていたことが、更にフォルカーの胸を抉っていたなんて、彼女は気づいてもいなかった。
「そうじゃなくて、俺が怒ってるいるのは、貴女が自分の体を実験台にしてたってことだ!!」
それの何処が悪いというのか、ギタにはさっぱり解らなかった。誰かが口にしなくてはならないのだとしたら、適任者は自分だろう。
「毒性を知るには飲んでみるのが一番手っ取り早いと思って」
「それで貴女の身に万が一のことがあったとしても?」
万が一とは死を意味するのだろうなとは思っても、だからそれがどうしたのだろうとしか思えない。
「うん。私なら、もしそれで死ぬことになったとしても、大して問題にはならないでしょう?」
背中に針が生えたその日、ギタは家を飛び出した。それ以来両親には一度も会ってもいないし、連絡も入れていない。だからきっと、何処かで死んだとでも思っているだろう。それ以来、人と深く関わったことなどなかったし、そうなれば今ここで自分が死んだとしても誰も悲しまない――そう思っていたのに。
「……それでは、俺は?」
ぎしりとベッドが軋む音がする。ギタの上に覆い被さっているフォルカーが、鼻先を寄せてくる。
「置いていかれる俺は、何も感じないとでも?」
ビリジアンが目の前にまで迫ってくる。あまりに近いその距離に、焦点が結べなくなっていれば。
「俺がどんな思いで解毒剤を作っていたかなんて、貴女は知ろうともしないんでしょうね」
ほんの僅かにでも動けば、唇が触れてしまいそうな距離。その距離から見上げる彼の顔は――悲しいくらいに表情の全てを削ぎ落としてしまっていた。
「……分かりました」
最後にするりとギタの青白い頬を左手で一撫ですると、フォルカーは膝をついて上体を起こした。
「それでは今度から、その試薬は俺が飲みます」
「はぁっ!?」
突拍子もないことを言い出したフォルカーを追うようにギタが肘をついて上半身を起こす。見上げたその先で、フォルカーは膝立ちのまま瞳を細めてギタを見下ろしていた。
「元々、俺が頼んだ薬です、俺が試すのが筋でしょう?」
「何を馬鹿なことを言って……!」
そんなことをして、もし万が一のことがあったらどうするつもりなのだ。
「それでフォルカーに何かあったら、リミララも悲しむでしょう!」
「そのリミララのための薬だ、それで命を落とすなら、本望というものでしょう」
ぐっと息を飲む。そうか、己の命を賭してまで彼女を救いたいということか。そのフォルカーの想いまでは、確かにギタに否定する資格はない。資格はないけれども――。
「駄目だ、試薬は私が試す」
「それは俺の役目だと、先程言いましたよね?」
「それでフォルカーに何かあったら? そうしたらリミララの薬は誰が完成させるの?」
彼が大事に想っている人の命を秤にかけるような真似はしたくはなかったけれど、こればかりは譲れないのだ、断じて。現にそのフォルカーもリミララの命を引き合いに出されて、口を閉ざしてしまった。
「それにね……」
ギタは胸の奥深くに仕舞い込んだ遠い日の記憶をほんの僅かにだけ覗き込む。そこには自分が一番幸せだった日々の記憶が残されていた。
「私はもう、間違いを起こすのは嫌なんだ。自分の薬で誰かが苦しむ姿なんて、見たくない。それなら自分で試した方がましなんだよ」
その言葉の重さは、誰よりもフォルカーが理解してくれていると思っている。事実フォルカーはギタの言葉に今度こそ完璧に口を閉ざしてしまったのだから。
「……どうしても、毒薬を使うしか手はないんですか?」
「私が知る限りで毒性のない薬草は殆ど試したと思う。けれどそのどれもがリミララには効果がなかっただろう?」
フォルカーに何度かリミララの元へと薬を届けて貰ってはいたが、その薬のどれもが彼女の症状を劇的に改善したとは聞いていない。
「なら、最後に一つだけお願いが」
「なに?」
『最後』というからには、フォルカーはギタの提案に折れるしかないと腹を括ったのだろう。
「毒薬を口にする時は、必ず俺の傍で服用してください。それから、経過観察も俺にやらせてください。また、解毒剤も前もって用意すること。これを守ってくれるというなら……折れてもいいです」
フォルカーの提案は尤もだった。安全に試薬を試すなら、誰かに経過観察をして貰った方がいい。現れた症状を逐一記載してもらうことも可能になるし。
「あまり見せたくはないのだけれど」
自分が苦しむ姿なんて、醜悪でしかないと思うから。
「この条件を飲めないというなら、許可できません」
きっぱりと言い放つフォルカーは、本気だとすぐに解ったから。ギタは大きな溜息を一つ零すと、渋々といった様子で頷いた。