第五話
医療系の話になってきますが、私は勿論医療従事者ではないので、かなり適当な設定です。その点を踏まえてお読みください(汗
「それからだね、私のこの背中に針が生えてきたのは」
その日以来、ギタの背中の針はどんどん数を増やし、今は数千本にも及んでいる。
「そう、だった……んですか」
話を聞き終えたフォルカーは、テーブルの上で組んだ自身の手を見下ろしたままでいた。
「まぁ、その医者が提出した薬は、監察の結果そこまでの毒性はないと判断されたんだけどね」
ギタがぼそりと吐き出したその言葉に、フォルカーは『えっ!?』と驚きの声を上げていた。
「えっ!? えぇぇぇっ!? それが直接の死因じゃないんですか?!」
「うん、私も後で同じ薬を作って飲んでみたけど、お腹が多少緩くなるくらいで、何の問題もなかったしね」
『しかも、自分で飲むって!?』とフォルカーは更に驚きの声を上げていた。まぁ妹を殺したかもしれない薬を自分で飲むなんて、確かに正気の沙汰ではないとは思うが。
「どのみち生きていても意味が無いと思っていたし。この際だからと、手元にあった全部の薬を自分で服用したみたよ」
こんな話をしたのは勿論フォルカーが初めてだったが、彼はその話を耳にした瞬間、顔を一気に青褪めさせた。
「なんて無茶なことを……! 毒性のある物もあったかもしれないんでしょう!?」
「あぁ、実際毒っぽいのもあったかな。数日間発熱が続いて、生きた心地がしなかった物もあったよ」
『それはちゃんと記録に残して、その薬草は使わないことにしている』と続ければ、フォルカーは大きな溜息を零した後、深々と項垂れていたが。
「人体実験ですか……しかも自分の身で?」
「私なら、死んでも誰も悲しまないからね」
ギタのその言葉に、フォルカーは即座に顔を上げる。そこには何故か怒りの色が乗せられていた。
「……ご両親は? 既に他界されてるんですか?」
「さぁ? この背に針が生えてから、すぐに家を出てしまったからね。どうしているのかも、もう分からないよ」
それでなくとも妹を失って傷心の両親に、今度は背中に針の生えた娘ができたなんて、口が裂けても言えなかったから。だからギタは最小限の荷物を纏めると、そのまま家を飛び出してしまった。
「元より生きてる意味なんてなかったし、いつ死んでも構わないと思って生きてきたんだけど……案外しぶといものだよね、未だにこうして命を繋いでいるなんて」
くすりと零した笑みは、思っていたより苦いものだった。彼女自身はそのことに気づいてはいなかったが。あまりに壮絶なその半生に、フォルカーもまた何も口を挟めずにいた。
「まぁ、そんな私でも、フォルカーの役に立てるのだとしたら、今まで生きてきた意味もあるということになるのかな。だからせめて、フォルカーの望む薬は完成させたい」
生きる術として薬を調合してきただけで、妹の一件以来、ギタは誰かのためを思って薬を調合したことなどなかった。だからきっと、これが最初で最後の調合になるだろうとそう思えてならなくて。だからこれは、ぽろっと零れた本音だった。できるかどうかは分からなかったけれど、できうるなら完成させたいとこの時心からそう思ったのだった。
しかしその翌日から、フォルカーの方はというとギタの調合と行動を注意深く探るようになっていった。ギタが何か調合を始めるとすぐに傍に寄ってきて全ての薬草の名前と量を詳細に記載したし、ギタが部屋に引き篭もるまでは彼女その背を目で追っていた。
「あの……何か、言いたいことでもあるの?」
しつこいくらいに追ってくる視線に、我慢ならなくなったのはギタの方だった。
「はい? 何がですか?」
聞けばしらっとあらぬ方向に視線を泳がせるが、今までギタの背中を見ていたのは確実だった。
「いや、この前からずっと私のこと見てるでしょう? 言いたいことがあるなら、聞くけど?」
「……自意識過剰じゃないですか? 俺はそんなにギタを見てませんよ?」
口笛でも吹きそうな勢いで嘯いているフォルカーに、ギタは大きな溜息を一つ零して。
「あ、そう。なら、私、明日から自室で薬調合しようかな?」
ぼそっとそう零せば、フォルカーは体ごとギタにぐるりと向き直った。
「ちょっ……! そ、それは駄目です! それは勘弁して下さい!!」
「じゃあ、私をじろじろ見ていたことを認めるの?」
腕組みしながら問い質せば、フォルカーは項垂れる勢いで肩を落とす。
「……認めますよ、確かに貴女を見てました」
「ふぅ~ん? それはどんな理由で?」
じとっとした目で睨め付ければ、フォルカーは暫し黙り込んだ後、何かを思いついたように口を開く。
「貴女があまりに綺麗だから!」
「……よし、今から自室に篭るね」
そう告げて薬剤を掻き集め始めたギタに、フォルカーは『わぁぁぁぁっ!』と奇声を発した。
「待って! 待って下さいって! 何で嘘だと決め付けるんですかぁっ!?」
「そんな嘘、すぐに解るに決まってるでしょ。誰が好き好んで、こんな針だらけの背を見詰めるっていうの?」
馬鹿らしいと呆れ口調で呟けば、フォルカーは今度こそ心底解らないといった表情を浮かべてみせた。
「え? いや、貴女の背が綺麗だと思ってるのは事実ですよ?」
「はぁっ?!」
素っ頓狂な声を上げるのは、今度はギタの番で。彼が何を言いたいのかさっぱり理解できなかった。
「いや、勿論針の無い貴女の背中も見てみたいとは思いますよ? でもその針だって、綺麗な縞模様で美しいなと思います」
「…………」
これには流石のギタも絶句した。何を言っているのか、この男は、思考回路が全く読めない。綺麗とは? 彼の中の美的センスを疑いたくなった。そもそもこの針だらけの背中を見ても逃げ失せなかったのは彼だけだったけれど。
「……変な人」
「それ、褒め言葉ですか?」
変な人と呼ばれて喜ぶ人がいるなら、それこそ変な人だろうとは思ったけれど、ギタはそれ以上を口にするのを止めた。何となく、彼の言葉に浮かれている自分を感じて、小恥ずかしくなってしまったからだった。
ギタの背に刻まれた傷跡は、その針のお陰で大したことがなかったようだった。数日もすると鈍い痛みも取れ、違和感もなくなった。フォルカーにそっと診察して貰ったが、確かに傷跡は化膿することもなく薄くなっていると言われた。
それからはまた薬草を採取しては薬を調合する日々。フォルカーは偶に山を降りて『あの人』に会いに行き、やはり顔を翳らせて帰宅するのだった。
「ねぇ、もしフォルカーが嫌でなければだけど……その、薬を必要としてる人に一度会わせて貰うことは出来ないかな?」
そんなことを数度繰り返したある日、ギタは思い切ってフォルカーにそう切り出した。それは決してフォルカーが言う『あの人』に対する興味本位などではなく。
「やはり診察が必要ですか?」
そう、薬を調合するにあたり、フォルカーからの伝え聞きだけではなく、実際の患者の症状を確かめる必要があると感じたからだった。
「うん。ちゃんとした処方をするためにも、是非一度きちんと診させて欲しいと思って」
ギタの言葉に、フォルカーはすぐにこくりと首を縦に振った。
「そうですね、一度ギタに診て貰った方がいいかもしれないと俺も思ってました。明日にでも了承を取りに行ってきます」
確かに相手が会いたくないと言ってくればそれまでで、翌日フォルカーは朝の用事を済ませると早速その人の元へと向かった。
そのフォルカーが帰宅したのはまだ日も高い午後の時間で、扉を開けるなりフォルカーはギタの元へと歩み寄る。
「会っても良いと言ってくれました! 近々俺と一緒に病院へ来てくれませんか?」
その申し出にギタは素直に頷いた。
そうなると、不思議とフォルカーの大切なその人がどんな人なのかと気になり始める。今まで性別はおろか、年齢も容姿も尋ねたことはなかった。プライベートな部分に関わるかもしれないし、正直会うこともないだろうと思っていたからだ。フォルカーの様子から、彼がその人を本当に大事に思っていることは明白で、そんな風に想いを寄せられるのは一体どんな人物なのかと日に日にそれが気に掛かるようになっていった。
別に、それがどんな人物だって構わないはずなのに。
治療を終えてしまえば、もう自分とは無関係の人になるのだから。
なのに、どうしてこうもその人物が気に掛かるのか。
フォルカーが、あんなにも愛おしそうにその人のことを語るからだろうか。
誰かに想いを寄せるなんて、ギタの人生では一度もない経験だった。そもそも他人と深く関わったこと自体がないのだから、無理もない話だが。それは一体どんな感覚なのだろうかと、ほんの少しの興味が湧いたのかもしれない。自分の中で生まれつつある不可解な感覚に、そんな名前を付けてギタは深く考えることもしなかった。
そうして約束のその日。入院中だということから食品類の手土産は良くないだろうと判断し、控え目な花束を一つ購入してフォルカーの先導の元病院へと向かう。その建物は周囲に比べて一段と大きく、地域の中核を担っている病院なのだとすぐに分かる。逆に言えば、そんな立派な病院に入院しているというその人は、それだけ重症度が高いともいえるわけだが。
階段を登り三階の病棟へと向かう。迷うことなく進むフォルカーは、とある病室の前にまで辿り着くと、その扉を軽く三回ノックした。
「はい、どうぞ」
中から聞えてきたのは、少し高い声。若い女性が中に居るのだろうと察しがつく。
「入るよ」
一言断ってからフォルカーが引き手に手を掛ける。横へと扉をスライドさせれば、室内から溢れてくる陽光に瞳を細めた。病室は清潔感のある白で統一されており、開け放たれた窓から入る風で、カーテンがゆらゆらと揺れていた。
その手間に置かれた一台のベッドの上には、髪を緩く結った女性が上半身を起こして横たわっている。彼女はこちらに視線を寄越すと、ターコイズ色の瞳を柔らかく細めた。
「フォルカー! 薬剤師さんは連れてきてくれたの?」
彼女はフォルカーの顔を見るなり、ベッドに左手を突いて身を乗り出してくる。その姿に誘われるように二人は室内へと進んだ。
「あぁ、勿論! 紹介するね、こちらが今、俺に薬学を教えて下さっているギタさんだよ」
すっと左手に動いたフォルカーの背後から、相も変わらず全身を黒に纏ったギタが姿を現す。きっと驚かすだろうとは思ったが、出来るだけ違和感のないようにギタは軽く頭を下げた。
「初めまして、ギタと申します。お加減は如何ですか?」
黒いフードの端から、そっとベッドの上の住人を覗き見る。そこには美しいブロンドの髪を左肩で結い、ほんの僅かに瞳を見開かせた女性が居た。齢は10代後半から20代前半といったところだろうか。その病状のせいか顔色はあまり優れなかったが、それを差し引いても余りある愛らしさがあった。
彼女の容姿に、ギタはなるほどと一人胸の内だけで頷く。この人なら、確かにフォルカーが全身全霊を懸けて救いたいと願うはずだ、と。
「初めまして。今日は態々私のためにご足労頂き、有難う御座います。私は、リミララ・ウルべと申します」
『こんな格好ですみません』と謝罪し、リミララはベッドの上で会釈した。
「いえいえ、ご病気なのですから、そんなことはお気になさらずに。こちら、宜しかったら窓辺にでも飾って下さい」
ギタはそう告げて、手元の花束を差し出す。その色に、リミララは『まぁ!』と愛らしい声を上げて両手を差し出した。
「こんなお気遣いまで頂いて、返ってすみません。後程花瓶に飾らせて頂きますね!」
手元の花束からパッと上げられた顔には、その花に負けないくらいの美しい笑みが乗せられている。それは同性でも心がときめいてしまうような笑顔で、こんなものを向けられたら、異性なら堪ったものじゃないだろうと思えた。
「さぁ、こちらにお掛けになって下さい。色々お話を聞かせて頂きたいの!」
こんな全身黒尽くめの人間なんて怯えさせるだけだろうと思っていたのに、リミララからはそんな気配が一切感じられない。そのことにたじろいでしまったのは、ギタの方だった。椅子をベッドに寄せられて座るように促されているというのに、一向に動こうとしないギタに、リミララとフォルカーは二人揃って小首を傾げていた。
「どうか、なさいました?」
「いえ、あの……私はこんな格好なので、そんなに近くに寄らせて頂いたら、ご気分を害するのではないかと」
確かに触診は必要かもしれないが、その時にだけ近付けばいいだけのこと。不用意に寄らない方がいいのではと暗に提案してみるが、リミララは返って意味が解らないというような表情を浮かべた。
「格好? その黒いお洋服のことですか? それなら私は気にしてなどいませんが?」
なるほど、流石フォルカーが想いを寄せるだけの人物だ。彼と同様に器が大きいのかもしれないと、ギタはフードの下で薄い笑みを零した。
「そんなことより、ギタがリミララを診てやって下さい」
そうしてフォルカーにもやんわりと肩を押されれば、ギタは軽く頷いて用意された椅子に座るしかなさそうだった。
「フォルカーからいつもギタさんのお話を伺っていたんです。だから一度はお会いしたいと思っていたので、お会い出来てとても嬉しいですわ!」
にっこりと微笑むリミララは、気を使ってお世辞を言っているようには見えなくて。『会いたい』なんて今まで一度として言われたことのなかったギタは、それだけで動きがぎこちなくなってしまう。
「いや、あの、私はそんな大した薬剤師ではなくて。お力になれるかどうかも、解らないんです」
「そうなんですか? フォルカーはとても凄い薬剤師さんなんだと、いつも自分のことのように自慢していましたが?」
「リミララ!」
伝聞系に自分の様子を晒されて、フォルカーは頬を朱色に染めていた。まさか、この病室でそんな話をしていたなどと露程も知らなかったギタは、マントの下でアイリスの瞳を見開いてフォルカーを見上げていた。
「貴女の元で学ぶことが全て新鮮で、とても為になるのだと、それはそれは楽しそうに話していて。羨ましいなと秘かに思っていました」
「だ、から……ちょっと!」
フォルカーは慌てた様子でリミララを止めようとしていたが、その横顔は更に赤味を増している。フォルカーの自分に対する想いを知らされて、ギタの方まで頬に熱が集まってくるのを感じていた。確かにフォルカーは勉強熱心で、何に対しても貪欲といえるほどに興味を抱いているようだとは思っていたが、まさか自分に対してまでそんな風に思っていてくれていたなんて。
「だから、フォルカーがそこまで惚れ込んだ貴女なら、きっと私を救って下さるって思ってました」
ふわっと入り込んできた風に、リミララのブロンドが舞い上げられる。その隙間から垣間見えたターコイズの視線に、ギタは一瞬言葉を失ってしまった。先程までの柔らかい笑みはそこには一切存在せず、ただただ何かに縋るような引力だけが残されていた。その色に、ギタも悟る。彼女自身が、自分の残された時間が僅かだということをきちんと理解しているのだと。
「……私にできることは、ほんの僅かかもしれません。それでもフォルカーとの約束を違えることがないよう、精一杯やらせて頂く所存です」
「ギタ……」
こくりと首を力強く振れば、隣のフォルカーが零れるようにギタの名を呼んだ。自分にできるのは、そのくらいだから。この命にもし意味があるのだとすれば、一人でも多くの人を救うことだろうと。右手の手袋をすっと引き抜く。その手は指先だけを残して包帯でぐるぐる巻きにされていたが。それもこれも、リミララを驚かせないための処置だ。
「触れても、良いですか?」
それでも包帯でぐるぐる巻きの手なんて凡そ気持ち悪いだろうとも思ったが、リミララは嫌悪の色など一切見せず、ただこくんと頷いてみせる。
「もちろん! どうか、宜しくお願いします」
そうして軽く下げられた頭に、ギタは薄く笑んで右手を伸ばして彼女に触れた。
脈、耳元の浮腫み、舌の色、眼瞼結膜の色などを確認していく。彼女の体は華奢というレベルを越えて細く、体温も幾分低いように感じられた。
「確かに、貧血が顕著に出ていますね。医師の処方している薬は分かりますか?」
「はい。ハマスタシの葉とケウロンの実、それからヤクジョウの根にアジワナの樹皮です」
ハマスタシは止血作用、ケウロンの実は鉄分の吸収を促進させる作用、ヤクジョウの根は疲労回復効果、アジワナの樹皮には滋養強壮の効果があるとされている。処方としては誤りはないが、貧血の治療としては打つ手が少し弱い気もする。そもそもここまでの重度の貧血を引き起こしているなら緩和療法ではなく、その根本原因を絶たなくてはならないだろう。
「失礼ですが、何処かからの出血はありますか? 表面的なものだけではなく、内臓疾患系のものも含めて」
ギタの問い掛けにリミララは首を緩く左右へと振った。医師の診察でもそういった症状はみられないという。だとすれば、考えられる原因はやはり出血というよりは、造血の方にあるといって間違いないだろう。
「……わかりました。有難う御座います」
診察を終えてギタは再び右手に手袋をつける。その様子を黙って見詰めていたリミララだったが、少しの間の後、ギタに声を掛けてきた。
「それで……私は、治りますか?」
ストレートな質問に、けれどでも、ギタは何も返せずにいた。出血が要因ならその部分の治療を行えばいいが、造血の方に問題があるのだとすれば話はそう簡単なものではないと解っていたからだった。
「……私にできることがあれば、精一杯させて頂きます。ですから、何か症状に変化があった場合、フォルカーに全て伝えて下さい」
明確な答えを返せなかったことに歯痒さを感じながら、椅子から腰を上げる。しかし現状は、そのくらい厳しいということなのだ。
見下ろした先には、うら若き女性の姿。こんなに愛らしい女性なら、世の男性を惹き付けてやまないだろう。できることなら、代わってあげたいとさえ思う。自分の命など、彼女の命の重さに比べたら羽毛のように軽いのだから。
「また、来て頂けますか?」
立ち上がって扉の方へと後ずさったギタに、リミララはそんな声を掛けてくる。
「……貴女が望むなら。けれど、私が伺っても何のお役にも立てないと思いますが」
面白い話ができるわけでもなく、しかもこの容貌だ、返ってリミララを怯えさせるだけだと思うのに。
「いいえ、同い年くらいの女性が、しっかり自立されてる姿を目にできるだけで、勇気が湧きます。私もいつか、ギタさんのように独り立ちできるのかもしれないって」
単純に、驚いた。自分は自立しているわけなんかじゃなく、一人で生きていくことを余儀なくされただけだというのに。ギタからしてみたら、周囲にこれだけ心配され、愛されているリミララの方が数倍羨ましかった。
「そう、ですか。では機会があれば、またお伺いします」
ぎりっと両の手を知らず強く握り締めていた。代われるものなら、代わって欲しかったのは、ギタの方だったのかもしれない。ほんの数年でいいから、こんな風に誰かに必要とされ、愛されて生きられたのなら、例えその後に待つものが死だけだったとしても、きっと幸せだと思えただろうから。
「それでは、これで失礼します」
短く退室の挨拶をして踵を返す。翻るフードの向こう側に見えたのは、リミララを心配そうに見詰めるフォルカーの顔だった。
「それで……ギタから診て、リミララの病状はどうですか?」
病院からの帰り道、ついでだからと街中で買い物をしながら歩いていると、隣からフォルカーがぼそりと問い掛けてくる。その声はいつもより幾分重かった。
「正直に言ってもいい?」
前置きをしてからビリジアンの双眸を見上げる。フォルカーはごくりと喉を鳴らすと『どうぞ』と続きを促した。
「私が診た感じでは、何処かからの出血による貧血だとは思えなかった。だとすると、やはり造血の方に問題があるのだと思う」
店頭に並べられたオレンジを一つ手にとりながら、ギタは言葉を繋げる。
「もしそうなのだとしたら、事態はかなり深刻じゃないかと。その内貧血だけではなく、免疫・止血の異常も出てくると思う。そうなった時には、もう……」
今日は天気も良く、買い物客の数も多かった。その騒がしさが一瞬遠退いたように思える。今のギタとフォルカーの間には、それだけの静寂が流れていた。
「免疫系の方には、実はもう、少しずつ異常が現れ始めていて……」
すぐに風邪を引くし、その風邪がいつまで経っても治らないということが増えてきているという。そのため、面会の時間も人も制限を掛けている状況なのだと告げられた。フォルカーのその言葉に、ギタはやはりなと己の胸の内だけで頷く。
「ここからは、少し無謀なことも取り入れていかなくてはならないかもしれない」
ぎゅっと手の内にあるオレンジを少しだけ強く握り締める。残された猶予は少ない。これ以上、悠長に構えているわけにはいかないと認識を新たにする。
「それでも、リミララに合う薬を見つけられるかどうかも正直分からない。そんな状況でも、フォルカーは私に任せてくれるの?」
オレンジを握り締めたまま、右手を振り仰ぐ。そこにはこちらをじっと見下ろしていた緑の瞳があった。
「俺は、ギタを信じています。貴女なら、リミララを救ってくれるってあの時そう思えたから」
――これが、『信頼』というものなのか。
初めて受けるこの感覚に、ギタは一人身を小さく震わせる。今まで誰一人として自分を必要としてなどくれなかった。いやむしろ、忌み嫌われる存在だと思い続けてきた。その背を鋭い無数の針で覆った娘など、何処の誰が必要とするだろうかと。
鼻の奥がツンとする感覚が現れて、ギタは慌てて下を向いた。こんなことで自分の感情が振れているなんてフォルカーに知れたら、彼に呆れられてしまうかもしれないと思ったから。
「……では、その想いに応えなくてはならないね」
何とかそれだけを吐き出すと、ギタは店主にオレンジとトマトを差し出して袋に詰めて貰った。