第四話
今回はギタの過去編です。
古い古い記憶の中、いつも真っ先に浮かぶのは、ベッドで苦しそうに息を荒げる小さな存在だった。彼女は数日に一度はこうして苦しそうにベッドに倒れ込み、その度に皆を心配させた。
「大丈夫? 今、お水を持ってくるからね」
苦しそうな妹の様子に、母は慌てて水瓶へと駆けてゆく。その隙をついてギタはそぉっと小さな存在に歩み寄った。
「苦しい?」
「……へ、平気。慣れてる、もん」
こんな時にすら強がってみせる妹に、ギタは呆れた笑みを浮かべた。
「慣れるもんじゃないよ、こんなの」
自分だったらきっと耐えられない、そう思うのに。この小さな妹は、それでも精一杯強がってみせるのだ。せめて家族に心配を掛けないようにと。
彼女は生まれた時から体が弱く、病気がちでいつもベッドに臥せっていた。本来なら外で走り回りたい年頃だろうに、そんなことをすれば翌日には必ず体調を崩すので満足に外で遊ぶこともできなかった。誰よりも悔しい思いをしているのは彼女だろうに、妹は一切そんな弱音を吐くことはなかった。
両親はそんな妹を哀れんで、名医が居ると聞けば馬の足でも数日掛かるような遠方にまで医師を尋ねては妹を診せていた。しかし妹の症状は一向に良くなることはなく、寧ろ年を追うごとに酷くなっているようだった。
そんな妹の病状に、ギタはこれでは妹は一生治らないのではないかと思い始める。医者を信じていないわけではなかったが、そもそもそんな遠方の医者に毎回診て貰うことなど不可能だし、遠距離を移動させていては、妹がより一層体力を消耗させてしまうことなど明らかだったからだ。だとしたら――と考えて、ギタは一つの可能性に辿り着く。自分達に出来ることがあるとするなら、効果のある薬を手に入れることだと。しかも出来るだけ安価な物を。この家の財政状況は、妹の治療費も相まって、決して良いとは言い難かったからだ。
しかし、安い薬は紛い物も多く、そんな危ない物を妹に飲ませる訳にはいかない。だとすれば答えは必然的に一つに絞られてくる。安全かつ安価に薬を手に入れるには――自分で作ればいいのだ、と。
それからギタは、近くにあった診療所に頼みこんで、仕事を手伝わせて貰うことにした。その対価は薬草の知識を貰うこと。元来勉強が嫌いではなかったギタは、まるでスポンジが水分を吸い込むように薬草の知識を手に入れていった。
そうして一年も過ぎた頃には、ギタは診療所の医師が舌を巻く程の立派な薬剤師見習いとなっており、一般的な薬であれば一人で難なく処方できるレベルにまで到達していた。ここまでくれば妹のための薬を見つけることが出来るかもしれないと、ギタは休日を利用しては山野を歩き回り、妹の症状に効きそうな薬草を掻き集めた。
「ギタ……? あなた、また、薬を作っているの?」
最小限の灯りだけを頼りに夜な夜な作業をしているギタの元を母親が尋ねてきた時のこと。ギタは手元の乳鉢から顔を上げて母を見上げた。
「うん、あの子に効く薬があるかどうか、試したいから」
ただ、実際には服用させることは難しかったのかもしれない。薬草は組み合わせによっては重大な副作用を伴うものも多かったからだ。それでも、あの子を救う手立てがあるのかもしれないと思えば、ギタはその手を止めることができずにいた。
「そう……何か良い薬は作れそう?」
ぽつりと落とされた母の言葉に、ギタが作業の手を止めて再び母を見上げる。月明かりを受けて青白く光るその顔は、翳りばかりが強く表情をきちんと掴み取ることはできなかったが。
「? どうかな、頑張ってはいるけど」
ここ最近、妹の症状は再び悪化していた。母の顔に色濃い疲労が浮かんでいるのが何よりの証拠であった。
そうしてその翌日、忘れもしない――いや、一生忘れることができない事故が起きてしまう。その日は朝から妹の具合が思わしくなく、午後には突如として意識が混濁し始めてしまったのだ。両親は慌てて医師を呼び寄せたが、妹の意識が戻る気配はない。ここまで重篤な状態に陥ったのは初めてのことで、その場の全員が完全にパニック状態になっていた。
「先生! 娘は、この子はどうなるんですか!?」
「……今は何とも言い難いですが、状況としてはあまり良くはない、でしょう」
医師の言葉に家族全員が言葉を失う。そんな、こんなに急に悪化するなんて、誰も想像だにしていなかったのだ。
「先生! 何でもしますから! だからどうか、この子をお救い下さい!!」
母親は床に跪いて医師に縋りつく。けれどそんな母の様子を見ても、医師はちらりと目線を一度寄越しただけで、すぐにあらぬ方向へと視線を向けた。
「出来るだけのことはしています。けれどお子さんのこの症状は、正直今の医療技術ではどうにもしがたいものだと思われます」
切って捨てられたように告げられた言葉に、医師に縋りついていた母の手が離される。それが現実だったのだとしても、我が子の身に起きたことだということを受け入れることなどできなかったのだろう。
「それでは、この子は……どうなる、んですか?」
途切れ途切れに問う母親に、医師は視線を向けることもなくあっさりと告げる。
「今夜が山だと、それだけは覚悟なさってください」
その刹那、母の両の腕がぼたりと膝の上に落とされる。その様子を見詰めたまま、ギタは口元に手をやって息を呑んでいた。幼心にもそれが妹の死を意味する言葉なのだということが理解できたから。次の瞬間、ギタは部屋の片隅へと走り寄る。そこにはギタが今まで処方してきた様々な薬が並べられていた。ガチャガチャと薬瓶を鳴らしながら全てのラベルを確認する。何か、今の妹に処方できる薬はないかと、ただそれだけを思って。
気付かぬ内に息は上がり、はぁはぁと肩で息をしていた。氷のように冷えた指先は細かく震え、感覚さえ失いそうだった。間の前に差し迫る死の恐怖に、ギタは飲み込まれようとしていたのだ。
「何をしてるんだ?」
ギタのその様子に、父親が背後からそっと声を掛ける。室内に居た医師はその義務を放棄するように『一旦診療所に戻ります』と短く告げて帰ってしまったらしい。正に、打つ手なしということだったのだろう。
「薬を……あの子に効く薬を! 何か、何か作らないと!!」
今ここで薬を作らなければ、ここまで勉強してきた全てが無駄になってしまう。ただあの子を救いたいが故にやってきたことなのに。あの子が命を落としてしまっては、意味がなくなってしまうではないか!
ギタが震える手で薬草の計測を始めると、その手を大きな掌がやんわりと包み込む。その温もりにハッとして顔を上げれば、そこには何とも読み取れないような表情を浮かべた父の姿があった。
「よしなさい」
言葉が発せられるのとほぼ同時に掌をぎゅっと握りこまれる。その感覚に、ギタはひゅっと喉を鳴らした。
「あの子は、それを望んでいないだろう。もう十分に頑張ったよ、あの子は」
それに続く言葉を、聞きたくないとギタは瞬間的に思った。それを音にしてしまえば、取り返しがつかなくなると誰しもが理解していたから。
「もう――楽にしてやろう」
「…………っ!!」
それは暗に『諦めろ』ということなのだと。今、まだ、ベッドの上にある温かなその命を、見捨てろという風にしかあの時のギタには聞えなかった。それはきっと、母親も同じだったのだろう。
「嫌よ! 冗談じゃないわ! この子はまだ生きてる! それを、諦めろというの!?」
父親に喰いつかんばかりに詰め寄る母の姿は、鬼のそれに近かったかもしれない。いや実際、何かに取り憑かれていたのかもしれない。だからこそ、あんな恐ろしい行動に出られたのだろう。
「ギタ! あなた、ずっと、この子のために薬を作っていたんでしょう!? 何かこの子に効く薬はできなかったの!?」
突如矛先が自分に向けられたことにギタは怯えた。母は涙をボロボロと零しながらも両目をかっと見開き、正に鬼のような顔をしていたからだった。その鬼気迫る様子に、ギタは振り返って再び机の上の薬瓶を漁り始める。そうしてふと目に付いた一つの小瓶。それは二日前に処方した物で、気付け薬に近いものだった。
「これ、なら……もしかしたら、効果がある、かも」
けれどそれを誰かに飲んで貰ったこともないし、自分で服用したわけでもない。だから思い通りの効果が得られるかどうかの確信もなかったのだけれど、母はその薬瓶を奪うようにギタの手から引っ手繰ると、妹の横たわるベッドへと走り寄った。
「よせ! 何をする気だ!!」
意識を失いただ横たわるだけの妹の項に手を差し入れて、母はその小さな口元に薬瓶を押し当てていた。
「飲ませるのよ! もしかしたら、助かるかもしれないでしょう!?」
瞬時にギタも母に走り寄る。確かに気付けの効果を狙って処方した物だが、医師の指示の元に処方された物でもなく、ギタのオリジナルだ。もし有害な効果が出たとしたら、それこそ今の妹には死に直結する。
「やめて! 私のオリジナルの薬なのよ!? どんな効果が出るかも分からないのに!」
ギタが力一杯母の腕を掴んでも、その手は岩でも掴んだかのように動かない。
「じゃあ、他に手立てがあるとでも!? 医者にも見放されたのよ!?」
母の腕がギタの手を振り払う。どうかしていると思ってはみても、あの時の母は正に藁をも掴む気持ちだったのだろう。母の手が再度妹の唇に薬瓶を押し当てる。その手を父が掴んだが。
「やめなさい。ギタを疑うわけではないが、どんな効果が出るのかも分からないんだぞ?」
母の手首を掴む父の手に力が込められるが、母は怯むことなく父を睨み返す。
「それでも! 今、この時に何かしなかったら、この子はもう……助からないかもしれないのよ!?」
気持ちは解る、解るけれども、あまりに危険度が高すぎやしないだろうか。他の手立てだってあるかもしれないのにとギタが唇を開いた瞬間、母の手が父の手すら振り払う。あっと短く声を上げる間もなく、母は薬瓶を傾けて妹の唇の隙間に流し込んでしまう。
「やめろ!! 何してるんだ!!」
父が慌てて母の手を掴んで引き剥がすが、薬瓶の中身は殆ど妹の口の中へと消え失せていた。
「…………っっ!!」
ギタは両手を口に当てて息を呑む。なんてことだ、まだ人に投与したこともない試作品だったというのに!
「馬鹿なことを!! 早く吐き出させろ!!」
父は妹の体を掴んで下向かせようとしたが、それを今度は母親が制した。
「いいのよ、これで! これできっと、この子は助かるわ!!」
母は薄っすらと笑みを浮かべていた。その狂気染みた笑みに、父親もギタも言葉を失った。正気じゃない……そうは思っても、最早彼女を止める術はないように思えたから。
しかしその母の願いも虚しく、妹は凡そ二時間後くらいに突如嘔吐し、それきり意識を取り戻すことはなかった……。
「……天に召されました。どうかこの子に、永久の安らぎを」
妹の急変に駆けつけた医者は、最後に脈と瞳孔の開きを確認して妹の死を宣告する。その瞬間、家族全員が息を呑み、母はその場に頽れた。
「どうして!? どうして!? ギタがあの子のためにと作った薬だったのに、どうしてその薬がこんなことに!!」
わぁぁぁっと床に突っ伏して泣きじゃくる母の叫びに、医者が顔を顰める。それからギタの方へとゆっくり振り返る。医者と視線が絡んだ瞬間、ギタはびくりと肩を跳ね上がらせた。
「薬? 一体何を飲ませたんですか?」
ぎしぎしと床板を軋ませながら医師がギタに詰め寄ってくる。その彼の前に立ちはだかったのは、父親だった。
「止めたんです、私も、この子も。けれど、あいつがそれを聞かずに無理矢理飲ませてしまって」
「……事情はお察ししますが、何を飲ませたのかというのは調べねばなりません」
『下手をすれば、殺人罪に問われますよ』と告げられた瞬間、父とギタは顔を真っ青に染めた。まさか、妹を助けようとしただけなのに、それが殺人ととられるなんて!
「わ、私、そ、そんなつもりは、なくて……!」
「えぇ、それは分かりますよ。けれど私も警察に届け出る義務がありますので。その薬は何処ですか?」
硬質な声音で問われ、ギタはガクガクと震える手で一つの薬瓶を差し出す。それは母がその殆どを妹の口の中に流し込んでしまった薬だった。医者は瓶の蓋を開けるとすんすんと鼻を鳴らして中身を確認する。それからギタの方へと視線を寄越して、何を調合したのかと尋ねてきた。ギタは慌てて振り返り、机の端に立て掛けてあったノートを開き、とある1ページを指し示した。
「アギジリの葉にオウギョウの根、クゴの実にサイゼルの葉、それから……」
と、医者は指先でギタの書いた文字を辿りながら読み上げる。その声にギタはこくこくと頷くだけだった。そうして数種類の薬草の名前を読み上げた医者が、ピタリとその指を止めた。
「ん? このリジュヌの実とは?」
その名にギタがびくんと体を大きく揺らす。そう、ギタが恐れていたのはその実の効能だったのだ。
「私が調べた限りだと、オンギルスの葉に近い効能があるとのことでした。けれど、実際にはそれよりもより強い効能があるようだったので、配合したんです」
「オンギルス……ということは、血管拡張作用か」
『だとすれば、確かに間違えてはいないが』と一人ごちた医師が、紙面に落としていた視線をギタへと向けた。
「しかし、これは一般的に使用される薬草ではないね? 医師の指示で処方したわけでもないだろう?」
医者の言葉に、ギタはこくりと深く頷く。元々妹の病気を治す手立てになるのではないかと、ギタが一人で始めたことだ。それを確認すると、医者はギタの処方箋を素早くメモし、薬瓶にも固く蓋をした。
「申し訳ないが、これは預からせて貰う。医者の義務として、警察に届け出ねばならないからね」
『警察』という名に、ギタは更に顔を青褪めさせる。実の妹を殺した疑いを掛けられるということなのか。それから医者は床に蹲る母の傍に膝をつき、『心からお悔やみ申し上げます』とだけ呟き、母の肩をポンとひとつ叩くと腰を上げてそのまま出て行った。
「なんてことだ……だから、止めろと言ったのに」
医者が出て行った扉を見詰めたまま、父親がうわ言のように呟く。その声に、床に蹲ったままだった母親が勢いよく顔を上げた。
「よくもそんなことを! あの時、あの子を救う手立てがあるとしたら、ギタの薬しかなかったでしょう!?」
「他に手立てはあったかもしれないだろう! それを、お前が俺達が止めるのも聞かずに勝手に飲ませたんだろう!?」
父親の言葉に母親が唇をきつく噛み締める。
「他の手立てって!? あの時、他に良い方法があったとでも思うの!? だったら、あの時にそう言うべきでしょう!」
「それは……っ!」
今更だ、全てが今更だというのに、妹の遺体を前にして罵り合うことが正しいことなのだろうか? 未だに罵り合う両親の声は、もうギタには届いていなかった。彼女は妹が横たわるベッドへと歩み寄ると、すぐ傍で両膝をつき、冷たくなってしまった小さな手を握り締めた。
「ごめん、ごめんね……どうにかして、あなたを救いたかったの」
例えそれがエゴだとしても、どうしてもあなたを救いたかった。この世に生を受けてまだ数年しか経っていない、この小さな生き物を助けたかったのだ。そうして妹の手に縋って涙するギタの背後で、ゆらりと母親が立ち上がる。ギタと同じアイリス色の瞳を大きく見開かせたまま。
「あんたの、せいよ……」
地を這うような低い声音にギタが驚いて振り返れば、そこには墨を流し込んだような黒味を帯びた二つの瞳がギタを見下ろしていた。
「あんたが、あんな怪しい薬を作ったりしなければ。そうすれば、私がこの子に飲ませようなんて思わなかったし、この子がこんな風に死ぬこともなかったはずだわ!!」
キンと空気が凍りついたような気がした。母親の声が、視線が、ギタを一息に貫く。ギタはその恐ろしさに息を継ぐこともできずに、はくはくと口を開閉させた。
私が、妹を、殺したという、の?
救いたいと、ただそれだけを願って毎日調合を繰り返していたのに?
その全てが、あの子を殺すためのものだった、と?
ぐにゃりと視界が歪んで、一気に辺りが暗くなったような気がした。ぐるぐると世界が回って、倒れこんでしまいたくなる。何一つとして正常に考えられなくなっていた。
「やめろ!! ギタはあの子を思って、毎日寝る間も惜しんで薬を作っていたというのに!」
「その結果がこれなの? 結局、あの子を殺したも同然じゃない!!」
母の言葉がギタに深く突き刺さる。
母は妹の葬儀を終えてもうわ言のように同じ言葉を繰り返していた。
「あんたのせいよ。あんたがあの子を殺した」
それが八つ当たりに近いものなのだとしても、幼いギタの心にはそれはあまりにも重過ぎる一撃だった。母親は完全に精神を病んでしまっていた。我が子を失った衝撃と、その命に止めを刺したのが自分であるということを認められずにいたのだ。そうして仕舞いには、こんなことまで呟くようになり――。
「あんたさえ、いなければ……!」
もうギタも限界だった。父親はギタの味方で、そんなことを言う母親を戒めてはいたが、実の母から向けられる射殺すような鋭い視線に、ギタの精神ももう耐えられなかった。
その頃からだった。背中に鈍い痛みを覚えるようになったのは。それは日に日に酷くなり、その内ギタは起き上がることも困難になっていった。
このまま私は死ぬのだろうか? ギタはベッドでそんなことを思うようになる。けれど、それで良いような気もしていた。もう疲れ切っていた、心も体も。『早く妹の所に行きたい』そう願っていた彼女の背は――明くる日、鋭い針で覆われていたのだった。