第三話
あまりに長いので、一話の量を増やしていこうと思います。
言葉を失うフォルカーに、ギタは薄く微笑む。あぁ、ここまでかと、そう観念して。
出来れば彼の望む薬が出来るまで協力したかったが、それももう無理だろう。きっとこれから彼はその顔を恐怖に染め上げ、がたがたと震えながらこの家を慌てふためいて出て行く。その姿が容易に想像できて、ギタは小火騒動で力んでいた肩の力をふっと抜いた。
「ごめん……だから、マントも手袋も脱げなかったんだ」
『気持ち悪いものを見せてしまって、悪かったね』とだけ言って、ギタは壁の方へと後ずさる。その背を、出来るだけ彼から遠ざけるように。今までだって、何度もあったことだ、大したことじゃないと自分に言い聞かせる。酷い時は瞬時に悲鳴をあげて逃げ去られたこともある。それに比べれば、フォルカーはまだ我慢してくれている方だと。
室内に響くのは、竈にくべられた薪が燃えるパチパチという音と、窓辺に置かれた時計の刻むカチカチという秒針の音だけ。その静寂が酷く重苦しく、出て行くなら早く出て行って欲しいとギタが望み始めたその時、がたりと椅子が鳴ってその静寂を切り裂いた。
「その背中……どうなってる、んですか?」
次いで聞えてきた声に驚いて顔を上げれば、ゆらりとこちらに歩み寄ろうとする彼の姿が目に入る。フォルカーは尚もぎしぎしと床を軋ませながらこちらに近付こうとしており、想定外のフォルカーの行動にギタの方が慌てて壁へと擦り寄った。
「いや、あの、これは……気付いた時にはこうなってて、何がどうしてっていうのは、私にも分からな……っ!?」
彼を止めるように前に突き出した右手を、フォルカーがあっと思う間もなく掴んで手袋をするりと外してしまう。生地の下から現れた手の甲にも小さめの針がびっしりと生やされており、その光景にフォルカーが一瞬だけ瞳を見開いた。
だからよせばいいのにとだけギタは思う。態々そんなおぞましい物を自分から確認しなくてもいいだろうと。呆れたように腕から力を抜き去る。早くその手を離して欲しいと願っていれば、その右手が温かいものに包まれる感触が走り、目を剥いてしまう。何事かと目を向ければ、右手はフォルカーの両手に包み込まれていて。想定外の光景にひっと息を詰めて身を固くしたのは、驚いたことにギタの方だった。
「な、何して……!? 針!! 針、危ないからっっ!!」
掌側には確かに針は生えてはいないが、手の甲には短めの針が数十本と生えている。その針に触れでもしたら、フォルカーの手の方が傷つくことは明らかだった。しかしその当のフォルカーは、ギタの右手をそっと折り曲げ、あろうことか突き出された針の先をちょんちょんと指先で突いてみせる。
「こ、れ……本当に生えてる、んですね? お洒落で付けてるとかじゃなく?」
「だ、誰が好き好んで、こんな針を付けるというの!!」
望んでなどいない、一度だって。全て抜けてくれたらいいと、どれほど切に願ってきたことか。そんな針をフォルカーは未だに興味深そうに突いていた。時折『痛っ!』と声を上げてはいたが。
「結構鋭いんですね。まるでヤマアラシみたいだ、図鑑でしか見たことはないけど」
ヤマアラシ――ギタも図鑑でしか見たことのないその姿を思い出す。確かに自分の背中はあの生き物にそっくりだとそう思えた。自分を喰らおうとする天敵に向けて、その針を逆立てる攻撃的なあの姿。
しかし今、問題となるのはその姿ではなくて。こんな針だらけの奇妙な体を目にして、何故フォルカーは逃げ出さないのかということだった。
「あ、の……フォルカー?」
恐る恐るそのビリジアンの瞳を覗きこんでみれば。
「はい? なんでしょう?」
「いや、あの……気持ち悪いとは、思わない、の?」
今まで誰一人として、この姿を目にして逃げ出さなかった者などいない。だというのに、彼からは逃げ失せようとする気配が感じられなかった。
「……どうして気持ち悪いなんて思うんですか?」
その声に、ギタの方が絶句した。
どうしてなんて、こっちが聞きたい。
寧ろどうして気持ち悪いと思わないの、と。
「面白いなー、でも大変そうだなー、どうして生えたのかなーとかそういう疑問は湧きますが、気持ち悪いなんて思わないですよ」
『あっ! でもこの針、毒はないんですよね!?』などと、今更明後日な質問を繰り広げては、更にギタを絶句させる。今まで誰一人として、この容姿を受けれ入れてくれた者などいなかった。だから自分は忌むべき存在なのだと、人目に触れる場所でなど生きていてはいけないのだとずっとそう思ってきたのに、フォルカーというこの男は、たったその一言でギタの中の常識をいとも簡単に覆してしまったのだ。
そうしてフォルカーは、刺さらないように細心の注意を払いながらそっと針の上に左手を乗せて、右手は掌側からギタの左手を覆う。他人の温もりを感じたのは、この体になって初めてのことだった。
「だから言ったでしょう? 俺は気にしませんからって」
そう告げて満足気に微笑むフォルカーの顔を、ギタは一生忘れることはないだろうとそう思った。
それからは小火を起こしたこともあり、ギタはフォルカーの前でマントや手袋を嵌めるのを止めた。フォルカーもそれに異論はなかったらしく、寧ろその方が安心するとまで言われた。家の中であれだけの重装備をされては、返って何かあるのだろうかと怖かったのだとまで白状された。
「ギタの瞳は、アイリス色だったんですね」
テーブルに広げた薬草を前にして、フォルカーはじーっとギタの顔を覗き込む。その距離の短さに、ギタの方が驚いて背を逸らせた。
「な、何を突然……」
「いや、ずーっとフードで隠されてて見れなかったんで、改めて確認してたんです」
言いながらもフォルカーはギタの顔を見詰めるのを止めなかった。普段人の視線に晒されることなどないギタは、酷く居心地の悪いものを感じてしまう。
「髪はチョコレート色で、普段はフードを被っているせいか、肌が雪のように白いですね」
他人と自分を比較したことなどなかったから気付きもしなかったが、そうなのだろうかとギタは思う。そもそも自分の容姿を他人に晒すことなどないと思っていたから、身だしなみも必要最低限のものしかしてこなかった。
「こんなに綺麗なのに、隠すなんて勿体無い」
ぼそりと吐き出された最後の一言に、ギタは手にしていた擂り粉木をがたんと倒してしまう。その衝撃ですり鉢まで倒れそうになり、慌ててフォルカーも手を伸ばしてそれを押さえてくれた。
「な、何してるんですか! 大丈夫ですか!?」
「ご、ごめんさない!! いやだって、貴方が変なことを言うから!」
『綺麗』なんて言われたことは、生まれてこの方一度だってない。寧ろ『不気味』や『気持ち悪い』更には『化け物』とまで言われたことさえあったのに。
「変なことって、何ですか?」
「……き、綺麗とか、嫌味言うから……」
頬に妙な熱が集まってくるのを感じて俯いていれば。
「嫌味なんかじゃないですよ、本当のことなのに」
唇を尖らせてそんなことまで言ってくるから、ギタは益々伏せた顔を上げることができなくなってしまった。針だらけのこの体。その時点で誰しもが恐れ戦いて逃げるというのに、この男はそんな女を目の前にして『綺麗』だとすら言い放つなんて。
「変な人……」
一人ごちたその声は、フォルカーに届くことなく空気に溶けたようだった。
それから黙々と二人で薬草の仕分けを行っていたのだが、とある瞬間にフォルカーの伸ばした手元にギタの手が触れてしまい、途端にフォルカーが顔を顰めて手を引っ込めるのが目に入る。
「……っ!」
「? 大丈夫?」
枝か何かに触れたのだろうかと最初は思った。ギタは気付いていなかったのだ。この体になって他人と過ごした経験が殆どなかったから。しかし次いでフォルカーが押さえた右手から赤い液が滴るのが目に入り、ギタはがたんと椅子を鳴らして立ち上がる。
「血が……!」
「大丈夫、ですよ。大した傷じゃない、から」
そうして傷を隠そうとするフォルカーに、ギタは嫌な予感が背中を走るのを感じる。フォルカーが左手をテーブルの下に隠そうとするのを無理矢理引き出してみれば、そこには紛うことなき自分の針が数本突き刺さっていたのだ。
「……っ!!」
その傷口に、ギタが言葉を失う。自分の不注意で、他人に針を刺してしまうなんて。
「すぐに、消毒を」
「いや、そんな深くないから、大丈夫ですって」
しかしそんなフォルカーの言葉にも、ギタはもう耳を傾けることはなかった。戸棚から薬箱と包帯を取り出してきて、フォルカーの前にドンと置く。それをぎっと睨み付けたまま、ギタは悲痛な面持ちで呟いた。
「私が手当てすれば、また針が刺さるかもしれない。申し訳ないんだけど、自分でやってくれる?消毒液はこの青い瓶、塗り薬はこの緑の瓶に入っているから」
それだけ告げると、ギタは自室へと引き篭もってしまった。
そう、この針は、他人を傷付ける。
己の身を護るためだけに存在しているから。
だから愛おしいその人にだって、手を伸ばすことなど許されない。
仲間と身を寄せ合うことだって、できないのだから。
忘れてはいけないのだと、ギタはベッドに突っ伏したまま己の胸に深く深く刻み込む。二度と他人を傷付けないように、自分を痛めつけるのだ。
それから数日後、ギタとフォルカーは久々に街に買出しに来ていた。大方の物は自宅近くの畑や、山の中の獲物で賄うことができたが、それでも足りない物は出てくるわけで、そういった物をこうして纏めて買いに来たのだ。今日の買い物リストは食材に調味料、薬瓶、その他に包帯などの医薬品である。それぞれを各店で購入するのだが、ここでもフォルカーの例の意味不明の効力が発揮された。
「高い! もう一声!」
「いや、うちもこれで食ってるんだから、勘弁しておくれよ」
「じゃあ、せめてこれも付けてよ!」
そう言ってフォルカーが手に取ったのは一つの林檎。今日は林檎なんて買う予定ないんだけどとギタが止めようとすれば。
「……ん~もう、参った! ならこの林檎付けるから、他は勘弁してよ?」
根負けした店主が、フォルカーが手にしていた林檎も紙袋の中へと入れてくれる。その様子に、フォルカーは『流石、美人のお姉さんは違うね~!』と更に愛嬌を振りまいていた。
「林檎なんて、要らなかったんだけど?」
先程の八百屋から少し離れた所まできてからギタがそう言えば、フォルカーはパシパシと瞬きを数度繰り返してからギタのフードを覗き込んだ。
「何を言ってるんですか! 林檎は貴重なビタミン源です! ギタは細すぎるから、色々もっと食べないと!」
ふんふんと鼻息荒く話すフォルカーは、次の店でも値切りを始める。その様子にギタは口も挟めない。
「いやちょっと待ってよ……。うちは医療品店だよ? そんなこと言われてもねぇ」
「分かった! ならこの瓶と包帯を5個ずつ買うから、それなら少し引いてくれない? 纏め買い値引きってやつ!」
5個!? 私は今日は3個ずつ買うつもりだったというのに、何を無駄使いしようとしているのか。
「ちょっと、フォル……」
言いかけたギタを、フォルカーは黙って右手を翳しただけで制してしまう。するとその合間に『う~ん』と顎に手をやって悩んでいた店主が、渋々といった感じで顔を上げた。
「じゃあ、しょうがないなぁ…。瓶と包帯5個ずつで32アウルでどう?」
「…………っ!?」
最初は5個で35アウルだったはずだ。そこから3アウルも値引きに成功したことになる。その分で薬瓶がもう一つ買える。
「乗ったぁぁぁ! それで買わせて貰うよ、店主有難う!!」
フォルカーは店主の右手を両手で掴み、ぶんぶんと上下に振り回している。実際には想定外の出費にはなったが、薬瓶も包帯も腐る物でもなく、数ある分には確かに困らない。
「フォルカーは……買い物が上手いね」
全体的に見れば予算以上の買い物をしてしまってはいたが、それでも多少足が出た程度だ。しかも無闇矢鱈に買い漁ったわけではなく、想定以上に購入した物は全て日持ちが見込める物か、日用品だけだった。
「ギタの貴重な資金ですからね! 1アウルだって無駄にしませんよ!」
そうして胸を張ってみせる姿は相変わらずだが、驚くべきはその買い物の手腕ではなく、コミュニケーション能力の高さだ。先日の薬を全て売り切った時も同様だったが、フォルカーはふざけているように見せて、実は相手の一挙手一投足を取りこぼすことなく見ているようだった。何処か痛む所、具合の悪い所は無いか、はたまた相手が不快にならないラインを見極めて、そのギリギリの交渉を進める。これは人との関わりを絶ったギタには、到底真似できるものではなかった。
「俺、ギタの役に立ててます?」
ふわりと振り返ってフォルカーが笑みを零す。その甘やかな笑顔の後ろには、まるで大型犬の尻尾でもついているようで。『褒めて、褒めて!』と強請っているようだった。
「……あぁ、とても助かったよ」
素直に礼を述べれば、フォルカーが暫し瞠目して固まっていた。何事かと小首を傾げれば、今度はフォルカーはポポッと頬を朱に染めて視線を逸らす。
「どうかした?」
「……いいえっ! 何でもありません!!」
何か気に障ることでも言ったかとフォルカーを見上げれば、彼は赤く染まった頬を隠すように背を向けてしまった。
そうして恙無く買い物を終わらせることができた二人は、自宅へと向けてゆっくりと歩を進めていた。『今日は良い買い物ができましたね!』などと言いながら、隣を歩くフォルカーは終始ご機嫌だった。そんな二人の耳に突如として聞えてくる女性の叫び声。驚きでそちらに視線を向ければ、そこには剣を突きつけられた女性の姿があった。
「か、返して下さい! そのお金がないと、私……っ!」
「う、うるせぇ! 俺だってここ何日も碌な飯食ってないんだ! この金がなきゃ、俺だって死にそうなんだよ!!」
男の左手には皮袋がぶら下げられている。恐らく切先を向けている女性の物なのだろう。哀れだとは思うが、こういう厄介事には首を突っ込まない方がいいのだとギタは今までの経験上で学んでいた。それでなくともこの容姿は目立つ。黒一色で染められた着衣もだが、このマントの下に隠された物を晒したりしたら、それこそ大騒ぎになるからだ。関わらない方がいいとフォルカーを促そうとしたが、振り向いたその先には目的の人物の姿は既になく――。
「それは彼女の物か? だったら大人しく返せ」
切先を向けられた女性の前に立ちはだかるその男。ギタはその勇姿に言葉を失った。
「お前、何者だよ?! そいつと関係あんのか?!」
「いや……知らない人だけど」
「だったら、関わってくんなよ!!」
剣を手にした男が振りかぶる。その姿にフォルカーの背に庇われた女性が『きゃっ!』と短い悲鳴を上げる。
「関係なくても、困ってる人が居たら助けるのは当たり前だろ!? 彼女のお金なら、返せ!」
些か声が震えてはいたが、フォルカーは怯むことなく男を睨みつける。その視線に、男の中の熱が上がっていくのを感じた。これは不味いことになるとギタは即座に判断する。フォルカーもギタも丸腰であったし、何より自分達は薬剤師であって剣術の心得などないのだ。辺りに人が集まり始めていたが、誰一人として止めに入ろうとする者も居ない。その傍観の様子に、ギタはチッと舌打ちをすると即座にフォルカーに走り寄る。
「うるせぇ!! 俺はこの金がないと、生きていけねぇって言っただろうがぁぁぁっ!」
振り上げられた切先が落ちてくる。フォルカーの背に匿われた女性が更に悲鳴をあげ、フォルカーもビリジアンの瞳を見開いて固まっていた。切られる――誰しもがそう思った瞬間、男が突然『うわぁぁぁっ!』と声を上げて顔を腕で覆う姿が目に入り、皆の動きが止まった。
「なんだこれは!? 目が、目が痛ぇぇぇっっ!!」
男は慌てて顔を左手で拭おうとする。どうやら顔に何かを掛けられたようだった。男のすぐ傍には瓶を片手に振りかぶった姿のままで肩を上下させるギタの姿があった。
「今のうちに、逃げて!」
ギタの声に正気を取り戻したフォルカーが、背後の女性の手を取って走り出そうとしたその時だった。片目だけを薄く開いた男が手にしていた剣をがむしゃらに振り回し始める。
「くっそぉぉぉ!! 何なんだよ、これは! ふざけんなっっ!!」
ぶんぶんと空を切る切先は、その矛先が読めない。流石に青褪め始めたフォルカーが左手に逃げを打とうとした瞬間、男が振り回した剣が落ちてくるのが目に入って。
「あぶな……っ!」
考えるより先に体が動いていた。フォルカーの目の前に飛び出したギタの背が、男の手にある剣で真一文字に切り裂かれる。
「ギタ……!!」
剣圧を受けたギタの体がフォルカーの腕の中に飛び込んでくる。それを素早く受け止めると、フォルカーは腕の中の彼女の顔を覗き込んだ。
「ギタ!? ギタ!! 大丈夫ですか!?」
「た、多分、だいじょう、ぶ……」
じくじくとした鈍痛はあるが、焼け付くような激痛がないところをみると、恐らく出血量は大したことはないだろう。何より自分には……他人を寄せ付けない防御壁があるのだから。
「くそっ! 何なんだよ、これは!! こうなったら、お前ら全員皆殺しにしてやる!!」
怒りに我を忘れた男が目元を押さえたまま雄叫びを上げる。その声に傍観していた観衆からも悲鳴が上がった。男が剣を構え直してギタとフォルカーの方へと歩み寄ってくる。その姿に、ギタは男に背を向けたまま両肩に力を込めた。
「寄るな! これ以上寄れば……お前もただじゃ済まなくなるぞ!」
ギタは奥歯をぎりっと噛み締めて、背筋に更に力を込める。するとざわざわという木々の枝が擦れるような音が響いた後、切り裂かれたマントの隙間から無数の鋭い棘が現れた。
「ひっ……!」
近くでこの騒ぎを見守っていた女性が、短い声を上げる。目の前でギタの背を見詰めていた男も、その針を見て動きを止めた。
「な、何だあれは! ば、化け物か!?」
途端に辺りを取り囲んでいた観衆達がざわめき始める。彼らの関心の的は、剣を持った男の動向ではなく、黒いマントの下から現れた無数の針に変わっていた。
ギタとフォルカーを取り囲む輪が少しずつ大きくなり始める。皆一様に顔を青褪めさせて、後退しているからだ。
「これ以上寄るなら、お前の体目掛けてこの背で突進する。そうすれば、お前の体にこの針が無数に突き刺さるが……いいのか?」
ぎろりと背中越しに睨み付けるギタの瞳は、アメジストのように妖艶に煌いている。その眼差しを本気と捉え、男がじりっと後ずさり始めた。
「はっ! こっちは金さえ取れれば、お前らみたいな文無しに用はねぇんだよ!!」
男は捨て台詞のように吐き捨てて、いきなり踵を返して走り始めた。その背を追う者は、誰一人としていなかった。そうして当事者が全て居なくなると、残された観衆達の視線が一気にギタの背に集まる。ギタは大きく息を吐き出すと、逆立たせていたその針を元へと戻した。
「……行こう、フォルカー」
短くそれだけ告げて、ギタはフォルカーの腕を取って歩き出す。二人の向かう先は、まるでかの英雄が奇跡で海を割ったかの如く、見事に人波が割れて道を作り出していた。
街を抜けて暫く経ったころ、腕を引かれていたフォルカーが突然立ち止まったのに釣られ、ギタの足も止まる。何事かと顔を上げれば、そこには顔を苦痛に歪ませたフォルカーが立っていた。
「背中を、見せて下さい」
それだけを言って腕を伸ばしてくる彼を、やんわりと拒絶する。
「大丈夫、そこまで痛みはないから、傷は大したことないよ」
「……でも! 切られたんですよ!? 早く処置しないと!!」
尚も背に手を伸ばしてこようとするフォルカーを、ギタは右手を翳して制する。
「いや、こんな所でこの背を晒せば……また人目を引くだけだよ、止めよう」
瞬間、フォルカーの眉が一気に寄せられる。そう言われてしまえば、もうそれ以上彼も抗うことができなかった。その後は二人とも一言も発することなく自宅へと向かった。
自宅へと戻るとすぐにフォルカーがギタのマントに手を掛けて、その背を慎重に診察し始めた。確かにそこまで深い傷ではなかったが、どうやら薄く血が滲んでいるようだった。
「今、薬を」
そう告げて塗り薬を用意しようとしたフォルカーの手を止める。
「いらない」
「……何を言ってるんですか! 出血してるんですよ!?」
ギタの手を振り払う勢いで噛み付くフォルカーに、ギタの方が苦い笑みを浮かべる。
「いや、どうやって塗るの? この背に……」
その顔を見て、フォルカーが大きく瞳を見開いた。そうだ、ギタの背には無数の鋭い針がある。これではその傷口に薬を塗布することもできない。
「大丈夫、本当にそこまで痛みはないから。必要なら、後でお風呂場で薬液を掛けるよ」
短く答えたギタは、再びマントで背を覆ってしまう。今は何だか、フォルカーにその背を晒していたくない気分だったのだ。
分かっていたことだ、この背を晒せば人々の好奇の目に晒されることなど。叫び、蔑まれ、畏怖される異形の存在に成り下がるだけだと。けれどあの時、安全にフォルカーを守る術があったとするなら、あの方法しかなかった。
これで良かったはずだと思うのに、何故だろう……この胸にどろりと落ちてくる鉛のような塊は。周りの人間にあんな目で見られることなど慣れているはずなのに。その視線をフォルカーの目の前で受けたことが苦痛だったとでもいうのだろうか。
おかしなものだ、無理矢理弟子入りしてきただけの男に、なんと思われようともどうでもいいことのはずではないか。いずれ彼は、この家を出て行くのだから。だというのに、この胸を襲う押し潰されんばかりの痛みはなんだというのだろう?
「あの、ギタ……」
それまでずっと黙り込んでいたフォルカーが、恐る恐るといった様子で話しかけてくる。普段の彼からは想像もつかないほどの弱々しい声音に顔を上げれば、そこには唇を真一文字に引き結んだ彼の顔があった。
「もし、貴女が嫌でなければ……その、背中の針が生えてきた経緯を聞かせては貰えませんか?」
『経緯』と問われ、ギタは自分の中に眠る古い古い記憶を蘇らせていた。