客商売
なろうイベント「春チャレンジ2026」のお題「仕事」ということで書いてみた話。
本項のタグ:「春チャレンジ2026」「仕事」「客」「お客様」「礼」「礼儀」「感謝」
店員にお礼を言う必要なんてない。だって金を払っているんだから。そんなことをする暇があるなら仕事しろよ。
大雑把に言えばそんなことを言われた。定食屋で昼飯を終えた直後の上司の言葉だった。
食券式で自分でトレイを下げる店では、むしろ回転効率を重視しているように見える。自分のトレイを下げることもなく足早に喫煙所へと去っていく背中は、では店の理念に沿っているのかと問われれば首を傾げる。仕方なく自分のトレイと合わせて返却場に移して、店を後にする。
「ご馳走様」
先程のような言葉を置き去りにされても口をついたのは間に退店した客につられたからだろうか。
「ありぁっしたぁ」
店外へと出て省みれば、割と無自覚に口にしていた気もする。略語とも言えない店員からの声が耳に馴染み、そんな風に思う。そう言えば来店したときにも店員には声をかけられていた。
「らっしゃっせー」
あるいは店長なのか常駐スタッフなのかこちらの顔を覚えている店員は少し言葉を添えることもあった。
「いつもありあっす」
外回りから戻ってきた上司が入店してこなければ同席もしなかっただろう。そういえばと振り返ってみれば、店員たちは当たり前に来客時に声をかけている。
「らっしゃっせー」
「さっせー」
「いらっしゃいませ、空いてる席にどうぞ」
「らっしゃっせー。いつもご贔屓に」
いつも同じ時間で同じ席に座って食事している馴染みの顔ぶれは自分だけではなく他にもいて、いくつかの顔に向けられる言葉ほど愛想が良い気がした。退店するときにかけられる声も同じだろうが、ふと気づく。
上司が退店したときには声がかけられていなかった。
たぶん上司は気づいてもいないだろうし、気にもしないだろう。そう思いながらひとつ離れたところにある喫煙所に向かって歩く。なんとなく上司がいるだろう最寄りの喫煙所には行く気にならなかった。
煙の中へと入り込んでタバコを取り出す。午後も仕事に思いを馳せていると喫煙所に入り込んで来た顔馴染みが火を探し出したので、分けてやる。
「どうもどうも」
煙と共に礼が出てくるのを皮切りに、雑談が始まった。とは言ってもお互いにどこの誰とも知らない間柄だ。仕事の話なんかは躱しつつ雑多なニュースの感想交換に終始するうちに、他の喫煙者が混ざっては抜けてを繰り返す。
そんな中でふと、上司と同じような呟きを目にしたという声が他から上がった。
「ならダイナーでも行きゃいいんじゃーねぇの?」
煙のひとつが述べた感想に、なるほどと思う。金のやり取りに徹したビジネスライクな関係だけでいいなら、店員にも愛想というサービスは提供する義理がなくなる。席が汚いと文句を言う客にテメェが掃除しろとモップを押し付けるシーンはなんの海外ドラマだったか。
「お客様と客の違いですか。最近ではカスハラなんて言葉もね。売手側から切って捨てられたら楽でしょうが、なかなかね」
煙のような髪色で電子タバコを手にした喫煙者がこぼす。顔の皺に染みついた気苦労に煙が染み込むような笑みを社内報で見た記憶があったが当然、口にはしない。取引先のクレーム対応をした経験ならこの場にいる誰もが心当たりがあるのだろう。
それぞれに思い描いた相手の顔へと向けて長めに煙が吐き出される。
「それなら最初から店員のいない店に行けば良いのよ。中坊のツッパリじゃあるまいし良い年した大人が世渡りも覚えずに駄々捏ねて。客としても男としても下の下じゃない」
煙以上に噴き出た毒に視線を向けるとピンクパープルの唇が妖しく笑んだ。普段使う別の喫煙所でもたまに見かける女性は明らかに水商売のにおいがする。客も男も上から下まで知り尽くしているような視線が蛇を思わせて煙で遮り、短くなったタバコを吸い殻入れへと落とす。小さな消火音に背を向けて喫煙所を後にする。そろそろ戻らないと午後イチのミーティングに遅れてしまう。
普段よりも遠くの喫煙所を使ったこともあり、今日は二本目はやめて少し早歩きで会社へと向かうと、空きテナントが目についた。ミーティング内容への再確認とテナント跡を辿る記憶が、鉢合わせた上司の不満気な顔で一瞬止まる。
「全く、最近のヤツぁなってないねぇ。タバコの火を借りといて礼の一つも言いやしない。他人への感謝ってもんがないよ。そう思うだろう?」
そういえばテナントがあった場所には無人の立ち食い蕎麦屋があったな、と雑に相槌を返しながら思い出した。
久しぶりにXを開いたら思考実験ネタが落ちていたので書いてみた話。
礼や感謝や礼儀を捨ててビジネスライクな店になれば、食うかどうかはどうでもいいから金払ったらさっさと出ていけ、と罵倒されて追い出される店がスタンダードでも良いじゃない。とか思った。行きません。落ち着いてゆっくり食事させてください。
皆さんもそっちの方がいいで……え? 罵倒されるために食事しにいく……?
店と客の需要と供給が噛み合っているなら、いいと思います。




