『紙雛』
夢見が悪かったので吐き出す気分で書きつけたメモを、小話にした3つ目、最後のお話です。
本文内の【】で閉じられている箇所は実際に夢で認知した情報です。
【】が若干邪魔かもしれません。
本話のタグ:「夢見が悪いので書いた。今は公開している」「夢見要素少なめ」「【】内は夢見の内容」「【】以外に記載の箇所はフィクション」
雛祭りにはお雛様がつきものであり、それは代々受け継がれているものもあれば、新しく購入されるものもある。
風習に応じて形式や種類数も異なり、流し雛などのように折り紙で作ったものもあれば、人形師が精魂を込めたものまで様々である。
家庭によっては風習とは無縁で、雛祭りというイベントの添え物程度の扱いになることもあり、昨今では雛壇を飾らないという家も少なくない。
価格に購入をためらう家もあれば、折り紙で作ることを楽しみとしている家もある。
これは、そんな家で折られた紙雛が受けた、苦難の話である。
「顔をよこせぇぇぇ〜」
ベッドの中で毛布を被った娘は、なにかの声で薄目を開けた。寝ぼけている彼女には見えているものがなんなのか分からなかった。
次の瞬間には猫が飛びついていたため、夜中に何やってんだ、と思っただけで再び眠りに落ちた。
彼女にとっては、その程度の出来事でしかなかった。
時間を遡って、当事者の話である。
彼らはまだ形になって間もなく、しかし自分たちが何者であるのかをしっかりと理解していた。
三人官女、五人囃子、随身、男雛、女雛である。
本来あるべき雛壇がないため、座布団代わりのポケットティシューに男雛と女雛が揃えて並べられ、それ以外は無造作に置かれている。
彼らを作り上げた家人は既に就寝しており、その姿はなく明かりも消えている。
しかし彼らには互いを認識できているようで、まるで立食形式のパーティのように歓談していた。
最も目を引くのは金の鎧を纏った大男である。随身である武官として作られた彼はその面に蓄えた長く白い顎髭を撫で付けながら、腰に下げた剣で成した偉業を語っている。
もう一人の随身である文官は銀の法衣を纏った丸々とした小男である。八の字の髭とくっきりしたほうれい線を時折なぞり、手にした法律書をめくって事例を挙げている。
聞き入っているのは三人官女のうち二人。赤い振袖の娘は武官に、桃色の振袖の娘は文官に寄り添い、頬を赤らめてその話を聞いている。
五人囃子たちは緑、黄、紺、灰、茶。それぞれ上がったり下がったり寄ったり離れたりの麻呂眉だ。手にしている楽器も異なっており、今はチューニングで忙しい。
三人官女の残り一人は薄緑色の留袖を纏い、女雛の文句を聞いている。そのためか頬は赤みが薄く、眉間のシワとほうれい線もくっきりしている。
女雛は槐、藤、桜の三色を重ねた打掛を纏い、手にした扇で顔を隠している。その向こうで薄緑の官女に囁くようにして文句を言っているのだが、それは男雛の面相についてだった。
男雛は一人、その隣に座って彼女の言葉を聞いていたが、紫と藍と白の羽織は怒りに震えている。
しかしその顔には一切の表情が浮かんでいない。髭も眉もなく、ただのっぺりとした白い紙がそのままになっているのだ。
それを見た女雛は先程から絶えず文句を言い、二人の間には夫婦雛とは思えないほどに剣呑とした空気が澱んでいる。
「これならひょっとこのほうがマシだわ」
「なんだとこのおかめ」
「蓬莱の玉の枝でも差し出されねば、割に合わんわ」
「朽ち果てた玉すだれでも拾ってくるか?」
だがその言い合いは実に低次元である。似た者夫婦とも言えるが、それに付き合わされている薄緑の官女は呆れつつもなにも言えない。
夫婦の仲睦まじい姿を披露するため雛壇で、相手の顔が気に入らないなどというくだらない理由で口論は続く。
しかしとうとう限界を超えたのだろう。男雛は座布団を降りてしまった。
そして武官に剣を受け取り、テーブルの彼方へと去っていく。
「……愛想を尽かされたのかもしれませんね」
「え」
官女の言葉で男雛の行動の意味が理解できたのだろう。女雛の揶揄するような声が、怯えたような声へと変わる。
晴れの舞台で三行半を突きつけられるなど、この上ない恥さらしである。しかも作り手である御母堂と御息女に、男雛のない雛壇に残る姿を晒すことになるだろうと、容易に想像できる。
かける言葉も見つからず、薄緑の官女は側を離れて武官の元へと赴いた。
彼女も武官も相応の年である。しかし先達として諌めもせずに見送った理由を、武官は朗らかに語る。
「うむ。奥方の満足する顔を得るため、御母堂方を参向なされると聞いてな。一助になれと見送った次第」
「顔の出来など、夫婦になる上では大事ではなかろうに……はぁ、呆れてものが言えぬ」
お屠蘇があったら一足先に飲み始めそうな呆れ声は、武官の大笑いでかき消された。
さて現在、当の男雛である。
他の紙雛の顔が家人である娘御によって書かれるのを見ていた彼は、その姿を探して隣の部屋へと辿り着いていた。
紙雛たちが集うリビング。そのテーブルから飛び降り、はるかな距離を歩いて、襖の隙間に身体をねじ込んだその先は、寝室であった。
家人である娘と、その母親が布団を並べて眠っており寝息をたてている。
いびきに身体が震わされて、彼は剣を握る手に力を込めた。
彼など片手で握りつぶしてしまえる巨躯が生み出す風に飛ばされないように、腰を落としてジリジリと進む。
足元が畳であったのは彼にとって幸いだった。武官に借りた剣を突き立て、吹き荒ぶ吐息に耐えて眼前へと赴き、彼は声をかけた。
しかし、彼女の眠りは深く、吐息だけが返ってくる。煽られて畳の上をカサカサと転がり、再び這うようにして眼前へと立ち、更に大きな声で呼びかける。
懲りもせずに三度繰り返した彼の姿が、娘のうっすらと開いた目に映った。
【枕元に置かれた紙雛には顔がなく、それが「顔をよこせぇぇぇっ!」と叫んでいる。なんだこれは、と彼女の寝ぼけた頭が思った直後、それが姿を消した。なんだか変な夢を見ているなぁ、と思う頃には、彼女の目は再び閉ざされ】眠りへと戻ってしまい、結局そのまま朝まで目覚めることはなかった。
男雛は吐息よりもはるかに苛烈な勢いで、その身を壁へと打ち付けていた。
電光石火の一撃は彼の身体をすくい上げるように弾き飛ばし、紙雛たちがいたテーブルよりもはるかに高く、天井付近まで打ち上げていた。
辛うじてその一撃を受けた剣は、形は崩れてただの紙に戻っている。身体は壁に擦られながら、緩やかに落下していく。
混乱しながらも彼は、部屋の中に御母堂と御息女以外の存在があったことに、今更ながらに気づいた。
茶トラのオス、2才。
その名を『ぬこ殿』という。
この家に現れる小さな黒い虫。それを排除することを使命とする、スイーパーである。
彼の鋭い爪は、黒くてカサカサと音を立てる生物を決して逃しはしない。
『ぬこ殿』の丸い目がらんらんと深緑色に輝いており、落下している男雛を見つめる。
その尻尾が、尻が、腰が、背中が。距離を詰めるに合わせてゆらゆらと揺れる。それがある種のカウントダウンであることは明白だった。
「ま、待たれよ『ぬこ殿』、某は決して不埒者などでは……『ぬこ殿』? 『ぬこ殿』ぉぉぉっ!?」
全身のバネを活かして振るわれたその左手は、バレーのスパイクよりも強烈だった。
落下が撃墜へと変わり、全身が打ち付けられて畳の上を滑り、更なる追撃で右に左にと弾かれながら、男雛は死を覚悟した。
動くこともままならず、反撃しようにも剣だった紙は既にどこかに飛んでいった。硬い小箱にもたれるように倒れ伏し、はだけた羽織を直す気力もない。
引き裂かれることを覚悟した男雛は動くことすら諦めた。
だが、それが幸いした。
『ぬこ殿』はネコである。獲物が反応すればするほど、苛烈に弄ぶ。
暫し男雛を見つめていたが、動く様子がないことに退屈したのか、爪を食み、顔を洗い、あくびする。
ペロリと口を舐めると、『ぬこ殿』は立ち上がって、襖の隙間を押し開けてリビングへと去っていった。
戻ってくる様子がないことを確かめた男雛は、自らの命拾いに安堵し、ため息を漏らした。
だが女雛の元へと帰るためには、再び『ぬこ殿』の襲撃をいなし、テーブルの上というはるかな高みへと戻ることになる。
しかも家人たちはこの騒ぎですら目覚めておらず、結局顔を得ることは叶えられていない。
恐怖に震え、せめて盾にできないかと硬い小箱を確認した男雛は、その中に仕舞われていたものを見て驚いた。
慎重に震える手で取り出したものは、宝物と呼ぶに値するものだった。
もはや羽織はボロボロで、お内裏さまというにはあまりにみすぼらしい。だが彼は羽織を自らの手で破り、宝物を包むと、決して落とすことがないように身体に結わえる。
「なんとしてでも帰り、あのおかめに目にもの見せてくれる」
そう決意した彼の視線の先、襖を超えた先にあるリビングから、『ぬこ殿』が走り回っている音が聞こえた。
彼の脳裏をよぎったのは、テーブルの上に置かれた紙雛たちが、彼の鋭い爪によって引き裂かれる光景。
震える身体に鞭を打って、『ぬこ殿』が押し開けた襖を抜けて周囲を伺う。
リビングは変わらず暗いままだったが、らんらんと輝く瞳はその中で良く見えた。
彼はテーブルの上に上がり、先程男雛にしていたように、右に左にと何かを弾いていた。
武官は男雛が剣を借りたため丸腰だ。五人囃子は楽器を持っているが、それで戦えるものではない。三人官女も、文官も逃げることができるかどうか。
そして、女雛。
その首が食いちぎられるさまを思い、彼は駆け出した。
だが、その彼へと向かって『ぬこ殿』が弾いた何者かが落下してくる。
反射的にそれを受け止めようと、彼は両手を広げて待ち構えた。
引き裂かれて変形した紙のような、薄い皮膜のようなものが、その身体よりも長く広がっていくのを男雛は見た。
それは、黒い色をしていた。
それは、薄い身体から、細い手足を伸ばしていた。
それは、とても人とは呼べない姿をしていた。
眼前へと飛んでくるそれが、決して紙雛などではないことに気づいた男雛は、慌てて身を屈めて『それ』が広げた口や伸ばした手を躱した。
落下の衝撃など全くないらしく、『それ』はリビングの床へと足を下ろす。いや違う。『それ』は自らの身体を変形させ、紙よりも薄い翅を広げて舞い降りてきたのだ。
一瞬の間に全身の向きを変えて男雛へと向き直る。まるで元から空を飛ぶための機構であったように、その背中から伸びていた翅は格納され、滑りを帯びた黒く固い殻のようなもので覆われている。
『それ』はカサリ、カサリと足音を立てて、男雛との距離を測っているようだ。
「お、おのれ! 妖異あやかしのたぐいかっ!?」
初めて目にする人でも猫でもない、異形の生物。
『それ』はあまりに忌み嫌われており、名を記すことさえ悍ましい存在。
『それ』は男雛を餌として認識しているのか、決して逃すまいとするように、男雛を正面へと捉え続ける。
対する男雛は徒手空拳。
だがその拳は弱々しく、『それ』の固い外殻を打ち砕くことなど不可能だ。対する『それ』の強靭な顎は彼の胴体でさえ容易く食いちぎるだろう。そこに結わえつけた、宝物ごと。
「ならぬ。某の身命を賭しても、失うわけにはいかぬのだっ!」
だが、彼の覚悟など『それ』は頓着しない。ただ本能のままに食うこと。生きて増えることだけが『それ』の全てである。そして『それ』の餌に対する貪欲さは、この家にいる全ての者を凌駕する。
だが、『それ』はその簡易な精神構造と強すぎる本能のために忘れていた。
男雛が腹に巻きつけた宝物。そこに飛びついて押さえ込み、頭から食うことだけしか思考が回らず、先程まで何を相手にしていたのか。
『天敵』
テーブルの上から音もなく舞い降り、その鋭い爪が外殻を貫き、プニプニした肉球を持つ両手が全身を抑え込んだ。
「ぬ……『ぬこ殿』ぉぉぉっ!」
まさしく天の助けである。
『それ』を封じ込めた『ぬこ殿』は、目を細めて尻尾を振り誇らしげだ。この後、彼は一通り遊んで家人に討伐報告を行うことだろう。
だが、眼前にもう一匹。
床に這い蹲っているものを、『ぬこ殿』の目が捉えた。
再び目が輝きを増し、『それ』を封じたまま、首を伸ばしてにおいを嗅ぐ。
「ぬ、『ぬこ殿』?」
じっと見つめて、食いついた。そのまま捻るように首を振り、頭をあげるのに合わせて放り投げる。
「『ぬこ殿』ぉぉぉっ!?」
再び天井めがけて舞い上がった男雛は、必死にもがいた。また『ぬこ殿』の猛攻を凌げるだけの強度は、紙雛である彼にはない。
今や形を保っていることさえ限界なのだ。着地した時にどこまで形が保たれているか。
受け身を取ることすらせず、宝物を守るように身を固めた男雛は、緩やかに落下した。
打ち付けられると思っていた身体は、思いのほかやんわりと受け止められる。
「おお! 男をあげなさったな!」
武官によって抱きとめられた男雛は、その腕で逆さまに抱えられたまま、女雛の元へと運ばれていく。そのみすぼらしく、無様な姿を見た三人官女が顔を背けた。
「こ、この大うつけっ! なんたる無様か!」
激怒したのは女雛である。結婚披露宴に新郎が野戦姿で現れたような状況。文字通り箱にしまわれていた折り紙だった彼女には、それはあまりにも無様で、破廉恥で、ふしだらな姿だった。
本来纏っている筈の羽織は破れ肌蹴て、まるで風呂敷のように身体に結びつけてある。隠されているべき真っ白な素肌があられもなく晒されている男雛の姿に、怒りと羞恥が混ざって直視出来ず、しかし目をそらすことができない。
「全く……顔もないのに姦しい」
そう、女雛にも顔は描かれていなかった。
男雛と女雛という、仲睦まじい夫婦の顔を家人が描かなかった理由は単純に手抜きだ。ほかの紙雛の小物などを含めて作って、面倒になったのだ。
本来なら雛壇に並べてある筈の彼らが、車座にまとめられていたのもそのせいである。
「宝物獲りでくたびれた。某は寝るゆえ、黙っておれ」
「なっ……!」
怒りが羞恥に勝り更なる怒声をあげようとした女雛の顔が、男雛によってはられた。
その衝撃に転んだ女雛は、何が起きたのかわからず、ほうけた。
そのまま力尽きたのだろう、倒れるように崩れ落ちた男雛をしっかりと見つめる。
真っ白で眉すらない、のっぺりとした顔。
見るだけで自身も同じであることを思い知らせる、不快な顔のはずだった。
しかしその顔を見るだけで、女雛は溢れんばかりの思いに駆られている自分に気づき、そっと自分の顔を隠した。
「これは……なんと美しい……」
ことの顛末を見ていた雛たちの、誰が漏らした言葉だろうか。
鉛筆の黒だけで書いた眉ではない。
鉛筆の赤だけで染めた頬ではない。
「蓬莱の玉の枝には劣るがな。夫婦になることに文句は言わせんぞ」
「……こんなものがなくとも夫婦じゃろうに。ほんに、うつけめ」
そっと寄り添うように座った女雛は、男雛の頭を膝に乗せる。
表情がなくとも照れ臭そうに見える男雛の顔を撫でるその顔は、真っ白でのっぺりとしたものではない。
画素数で言えば数十万。
プリクラと呼ばれる機械によって描かれたその顔は、女雛の顔となって満面の笑みを浮かべていた。
なお、ぬこ殿が『戦果』を家人の枕元においたことで別のホラーが生まれているのですが、それはまた別の話。
次話は本章の後書きになります。




