名探偵 vs 有能
穏やかな雰囲気は突如、若い女性の悲鳴によって破られた。
始めにそれに気がついた男が、乱暴に扉を開け、急いで叫び声のする方へと走り始めた。部屋でくつろいでいた他の面々も、慌てて後を追った。
「何事!?」
「分からないわ。さっきの悲鳴は……」
「二階からだ!」
階段を駆け上る足音が、夜の闇に染まった洋館の中に、何重にも響いた。悲鳴は途絶えることなく、ずっと奥から聞こえ続けていた。先頭を走っていた男は、二階の、一番端の客室まで辿り着き、勢いよく扉を開けた。
「おい! 大丈夫か!?」
「……ぁあああああ……!!」
彼が部屋の扉を開け放っても、悲鳴は止まなかった。男は鋭く客室の中に目を走らせた。荒らされた様子もなく、窓ガラスは割れていない。ただ昨晩から島を覆う不穏な暗雲が、外から激しく大粒の雨を窓に叩きつけていた。部屋の中央では、叫び声の主が、長い髪を振り乱し尻餅を着いている。やがて彼の後を追って、次々と人々が客室へと雪崩れ込んで来た。
「ひっ……!」
その光景に、誰もが息を飲んだ。
青を基調に造られた、十九世紀末のウィーンを思わせる荘厳な客室。
今やその客室は、止め処なく溢れ出る血によって、大部分が青から赤へと染まっていた。人々の視線の先にあったのは、身体中をメッタ刺しにされた、変わり果てた宿泊客の姿だった……。
□□□
「なるほど……シアン化物ですね。所謂”青酸カリ”ですよ。ミステリィ小説にもよく出てくる、アーモンドや煙草、りんごの種などにも含まれる超身近な毒物です」
男はそう言って、死体から顔を上げた。
男の名前は、伊佐使伎修。
とある大学に務める教授であり、化学者である。伊佐使伎は皺一つない白衣に身を包み、丸眼鏡を光らせて、近くにいた少女に話しかけた。
「簡単に言うと、炭素原子の横に窒素原子が三つ結合し、自身のミトコンドリアの中にあるたんぱく質を閉じ込めたんです」
「毒殺……じゃあ、ナイフは偽装ですか?」
学校のテストはいつもギリギリ赤点だった探偵・嵯峨峰岬岐の、分かっているんだかいないんだか曖昧な表情を前に、伊佐使伎は気難しそうな顔で頷いた。
「その可能性が高いですね。何れにせよ、死因は青酸カリと見て間違い無いでしょう」
「岬岐ちゃん。被害者は昨日の夜、ロビーにあるソファで酒を飲んでいたみたいよ。さっき全員に事情聴取したわ。アリバイがないのは泊まっていた客二十三名中、四名だけね」
「ミチルさん」
またある背の高い少女が、岬岐の元へと近寄って来て、そっと小声で耳打ちした。
彼女の名は、汐汰海池流。
何でも彼女、今まで全国を飛び回り数々の難事件を解決してきた、警察の間では有名な敏腕弁護士らしい。海池流は、まるでシャンプーのCMみたいにサラリと艶のある黒髪を靡かせ、凛と澄ました顔で岬岐を一瞥した。
「なるほどですね……じゃあ容疑者は、四人ですか」
そう言って岬岐はそわそわと、ピンと天井に跳ねた自分の寝癖を押さえつけた。
「嵯峨峰。凶器は毒物みたいだが、身体中に打撲の痕があるな。被害者は、何処からか突き落とされた可能性が高い。宿の外に崖があったろ。彼処かもな……」
すると、またとある男性が、部屋の窓から外の景色を覗きながら岬岐にそう呟いた。
男の名前は、鮎鮑鯏鯢。
名前に魚がたくさん付いている人である。名前に魚がたくさん付いている人は、岬岐に向かって渋い顔をして見せた。
「もしかしたら犯人は、打撲の痕を隠すためにわざとナイフでメッタ刺しにして、外部の犯行に見せかけたのかもな」
「なるほどですね。じゃあ後で崖を調べに……」
「みんな、証拠を見つけたぞ。犯人が残したと思われる手帳が、ちょうど崖の上に落ちていた」
さらに、今度は先ほどから外を調べていた資産家の焔燈煌煇が、嬉々として部屋に戻ってきた。
「慌てて逃げた時、残されていたんだろうな。どれどれ? 犯人の名前は……」
「ちょっと!! ちょっと待ってください!!!」
焔燈が手帳に書かれた名前を読み上げようとしたその時、部屋に岬岐の叫び声が響き渡った。集まった人々は驚いたように動きを止め、キョトンとした目で岬岐を見つめた。
「どうした?」
「皆さんちょっと、優秀すぎやしませんか!?」
岬岐が焦った顔で人々を見渡した。
「早すぎです……! いくら何でも、これじゃすぐ事件解決しちゃうじゃないですか!?」
「ダメなの?」
「ダメって訳じゃないんですけど……何だか納得行かないって言うか……」
「そうね……確かに、岬岐ちゃんの言う通りかも」
困り顔を浮かべる岬の隣で、海池流が、関係者からヒョイっと手帳を取り上げ窓から放り投げた。
「ああっ! 何てことするんだ!?」
「ねえ皆。私たちちょっと、でしゃばりすぎたと思わない?」
海池流の言葉に、その場にいた全員がハッとなって、気まずそうに顔を見合わせた。
「もっとこう……ミステリィにしたって、モノの順序ってものがあるでしょう?」
「確かに。俺たちちょっと、先走りすぎだったかもな」
鮎鮑が、頭をポリポリと掻いた。
「これじゃ、折角十万字超の大事件も、五千字足らずで終わっちゃうよ」
「本職の探偵がいるのに、目の前で本物の殺人事件が起きて、はしゃぎすぎましたかね……」
「ねえ。ここは改めて、皆で事件を最初からやってみましょうよ!」
海池流が皆を見渡して、顔の前で両手をパン! と叩いた。
「え??」
「そうだな……それが良いかも知れない」
「うん、やろう! 俺たちならきっとできるよ!」
「よし、やってみようか!」
「え? え??」
今度は岬岐がキョトンとする番だった。
戸惑う岬岐を置いて、それぞれが殺人事件発生の状況を再現するために、元いた位置へと戻って行った。
□□□
穏やかな雰囲気は突如、若い女性の悲鳴によって破られた。
始めにそれに気がついた男が、乱暴に扉を開け、急いで叫び声のする方へと走り始めた。他の面々も慌てて後を追った。
「何事!?」
「分からないわ。さっきの悲鳴は……」
「二階からだ!」
男が叫び声のする部屋へと辿り着き、やがて彼の後を追って、次々と人々が客室へと雪崩れ込んで来た。
「ひっ……!」
その光景に、誰もが息を飲んだ。
客室は赤へと染まっていた。人々の視線の先にあったのは、身体中をメッタ刺しにされた、変わり果てた宿泊客の姿だった……。
□□□
「なんだろうこれ……さっぱり分からない。さっきから独特のアーモンド臭がするけど、一体『何酸』カリなんだ!?」
「青酸カリじゃないんですか?」
「誰か、被害者のアリバイを確認した方がいいんじゃないかしら。犯行時刻や死亡推定時刻が割り出せれば、容疑者の数も絞れる気がするわ。あぁ、誰か調べてくれる人はいないかしら……」
「ミチルさん、さっき四人って言ってたじゃないですか」
「サンショウウオって、敵に襲われると白い毒性の粘液を皮膚から出すんだよ。粘液の匂いが山椒に似てるから、この名になったんだってさ」
「はぁ……。でも、それと事件の何の関係が……」
「あぁ、証拠がどこかに落ちてないかなぁ。犯人が残したと思われる手帳が、ちょうど崖の上に落ちてないだろうか。慌てて逃げた時、残されていたりして。なぁ、一回外を見に行って見ないか」
「おぉ、それは名案だ」
「あまり期待はしないけど……やってみる価値はあるわね」
「そうだな。行ってみるか」
「ちょっと!! ちょっと待ってください!!!」
ゾロゾロと現場から出て行こうとする関係者たちに、またしても岬岐が叫んだ。
「今度はどうした?」
「わざとらしすぎます!!」
岬岐は頬を膨らませて怒った。その場にいた全員が、気まずそうに顔を見合わせた。
「こう言う気の使われ方は、嫌です! どう考えても、皆知ってるのにわざと言ってるじゃないですか!?」
「確かに」
「俺たち演技下手くそ過ぎたかな……」
「だって二回目だもんな、死体見るの。そりゃやっぱり、最初の時よりは衝撃度が落ちるって言うか……」
「ちょっと? 私の話聞いてますか、皆さん??」
「もう一回、やってみようよ! 今度はきっと上手く行くかも知れないよ!」
「そうだな……ここで諦めたら、探偵さんに花を持たせて上げられないな」
「ちゃんと事件を発見できるように、頑張りましょう! 私たちが力を合わせれば、きっとできるから!!」
「いや、私のことはいいので……皆さん!? ちょっとどこ行くんですか、皆さぁん!!」
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穏やかな静寂は突如、若い女性の悲鳴によって破られた。
始めにそれに気がついた男が、乱暴に扉を開け、急いで叫び声のする方へと走り始めた。他の面々も慌てて席を立った。
「何事!?」
「分からないわ。さっきの悲鳴は……」
「二階からだ!」
男が叫び声のする部屋へと辿り着き、やがて彼の後を追って、次々と人々が客室へと雪崩れ込んで来た。
「ひっ……!」
その光景に、誰もが息を飲んだ。
客室は赤へと染まっていた。人々の視線の先にあったのは、身体中をメッタ刺しにさ「もうたくさんだ!!」
「ちょっと、伊佐使伎くん!?」
突然頭を抱え、叫び始めた伊佐使伎を、海池流が慌てて窘めた。
「ダメじゃない、ちゃんと言われた通りに死体を発見しなきゃ……」
「もういい、もう疲れたよ。これで十四回目じゃないか! 犯人は私だよ」
伊佐使伎は目の下にクマを作り、やつれた顔で海池流を見上げた。気がつくと、時刻は深夜零時を過ぎ、日付はすでに変わっていた。
「ちょっ……いきなり何を言い出すのよ、伊佐使伎くん」
「犯人は私、私なんだよ。彼奴は妻と不倫してたんだ。だから……」
「伊佐使伎……大丈夫か? 疲れているなら、一回休憩挟もうか?」
「だから、休憩なんていらないよ。これで事件は解決だ。もう、こんなこと終わりにしよう」
血の染み込んだ絨毯に跪く伊佐使伎の周りで、海池流たちが戸惑ったように顔を見合わせた。
「……ダメよ」
「え?」
「うん、ダメだね。これじゃあ、事件が解決したとは言えない」
鮎鮑が頷いた。
「死体を発見した瞬間に名乗りを上げる犯人がいるか? これじゃ、俺たちが目指している殺人事件とは程遠いよ」
「こんなんじゃ、全国で戦えないわよ」
「ぜ、全国?」
「もう一回……もうワンテイクだけやりましょう! 今のはイイセン行ってましたよ……次はもっとイイ死体発見ができるかも!」
「ところで、例の探偵さんは?」
「それが、何だか良く分からないんですけど、『こだわるポイントが違う』って怒ってるみたいで。先に部屋で休んでもらってます。幸い彼女は、発見当時現場にはいなかったですからね」
「そうか。何とかして彼女が目を覚ます前に、全国レベルの『死体発見』を再現したいものだな」
「俺たちの底力を、見せてやろうぜ!」
「そうね……さぁみんな! 十万字目指して、行くわよ! 伊佐使伎くん! こんなレベルで捕まえてもらおうだなんて、百年早いわよ!!」
「ひぃぃ……っ!」
海池流が勢い良く皆の尻を叩いた、その時だった。
穏やかな雰囲気は突如、若い女性の悲鳴によって破られた。
始めにそれに気がついた男が、乱暴に扉を開け、急いで叫び声のする方へと走り始めた。部屋でくつろいでいた他の面々も、慌てて後を追った。
「何事!?」
「分からないわ。さっきの悲鳴は……」
「二階からだ!」
階段を駆け上る足音が、夜の闇に染まった洋館の中に、何重にも響いた。悲鳴は途絶えることなく、ずっと奥から聞こえ続けていた。先頭を走っていた男は、二階の、一番端の客室まで辿り着き、勢いよく扉を開けた。
「おい! 大丈夫か!?」
「……ぁあああああ……!!」
彼が部屋の扉を開け放っても、悲鳴は止まなかった。男は鋭く客室の中に目を走らせた。荒らされた様子もなく、窓ガラスは割れていない。ただ昨晩から島を覆う不穏な暗雲が、外から激しく大粒の雨を窓に叩きつけていた。部屋の中央では、叫び声の主が、長い髪を振り乱し尻餅を着いている。やがて彼の後を追って、次々と人々が客室へと雪崩れ込んで来た。
「ひっ……!」
その光景に、誰もが息を飲んだ。
青を基調に造られた、十九世紀末のウィーンを思わせる荘厳な客室。
今やその客室は、止め処なく溢れ出る血によって、大部分が青から赤へと染まっていた。人々の視線の先にあったのは、身体中をメッタ刺しにされた、変わり果てた宿泊客の姿だった……。