名探偵 vs 時空警察
「うぅ……なんだろ? 寒気が……」
嵯峨峰岬岐は、暗い夜道を一人で歩きながら、小さく身を震わせた。
草木も眠る丑三つ時。
帰りは随分と遅くなってしまった。狭く細い路地裏には、ポツンポツンと、ところどころ薄汚れた蛍光灯の光があるだけで、ほとんど自分の影すら見えない暗闇に包まれていた。
ほんの数時間前、市外で起きた連続殺人の犯人を突き止め、事件を解決したばかりだった。
事件は凄惨極まった。
閉ざされた洋館でバラバラになった死体や、壁のあちこちにこびり付いた返り血の数々を思い出し、彼女はさらに憂鬱になった。岬岐は自分の肩を抱いて、ため息を一つこぼした。探偵業を営んで間もないが、現場のグロテスクさには、今後もきっと慣れることなど無いだろう。
両脇にそびえる住宅の隙間から、甲高い音を立てて夜風が吹き荒び、彼女の体を乱暴に叩いて行った。季節はもう夏だというのに、今夜はよく冷える。暗い夜道を一人で歩いていると、何だか急に心細さに胸が締め付けられた。庭先に植えられたケヤキの枝や、ベランダに干された白いタオルが、何だか幽霊の手のひらみたいに見えてきて……そこまで考えて、彼女は思わず苦笑した。
岬岐には霊感の類はなかった。特に否定する気も無いが、別に信じてもいない。本当に幽霊がいるのなら、殺人事件など、立ちどころに解決してしまうではないか。
「あれ……?」
岬岐は不意に、ドキリと胸を高鳴らせた。視界の端に、何やら人影のようなものを見かけたのだ。強い風によろめきつつ、彼女は慌てて電柱にその身を隠した。幽霊よりも、怖いのは生身の人間だ。人影はどうやら二人組らしく、狭い一本道を、真っ直ぐこちらに向かって歩いてきていた。岬岐はますます顔を引きつらせ、電柱の後ろからそっと前方の様子を見守った。影はそのままゆっくり、とうとう岬岐の隠れている電柱の側までやって来た。
「そこの君!」
「ひッ……!?」
目の前の人影から、急に鋭い声で呼び止められ、岬岐は飛び上がった。
現れたのは、紺色の制服に身を包んだ、年配の警察官だった。
なんだ……脅かさないでよ、もう。
岬岐は思わず、その場にへなへなとへたり込んだ。警察官は、片手に持っていた懐中電灯で岬岐の顔を照らすと、何だか難しい顔をして唸った。
「さっきこの辺で、『恨めしや……』と言っていたのは君か?」
「へ??」
突然妙なことを聞かれて、岬岐は面食らった。
「いやね、さっきこの辺の住人から、通報があったんだよ。見知らぬ若い女性が、『恨めしや……』と呟いて歩いている、とね」
「私も聞いた。どうもこの道の方から聞こえた気がしたんだが……」
もう一人の警察官も、周囲を探るようにキョロキョロと首を回した。岬岐は青ざめた。
「そ、そんな……」
「君ねぇ」
年配の警察官が、顔に皺を寄せながら怯える岬岐の肩に手を置いた。
「そ、それ、わ、私じゃありません……!」
「『恨めしい』というのはいくらなんでも」
「確かに殺人事件は解いてきましたけど、でも!」
「『恨』というのは、人を傷つける言葉だから使ってはいけないと、法律で決まっているじゃないか。ダメだろう」
「へ……?」
岬岐は思わずポカンと口を開けた。
「『恨む』とか、『呪う』とか、とんでもない。忌み言葉は怪談でも禁止だ。学校で習わなかったのか」
「あの……貴方たち、何者ですか?」
警察官は胸ポケットから手帳を取り出し、胸を張った。
「我々は、23世紀から来た時空警察のものだ」
「時空警察?」
「あぁ。この時代で、『禁止ワード』が使われていると通報があってね。タイムマシンに乗って、駆けつけて来たんだが……」
「ま、待ってください!」
岬岐はようやく立ち上がった。
「この時代では、まだ『恨めしや』は規制されていません」
「でも、我々の認識だと、それはもうダメな言葉なんだよ。あぁ、そうだった」
年配の方が何かを思い出したように頷き、ポケットから板を取り出した。板にはこう書かれていた。
※この物語はフィクションです。
「……なんですか? これ」
一体どんな未来の技術なのだろうか、空中にピタリと停止した板を見て、岬岐は目を丸くした。警察官が頷いた。
「文字通り、『※この物語はフィクションです』という注意書きだよ。23世紀の推理小説や犯罪小説には、読者が決して真似しないように、三行ごとに『※この物語はフィクションです』と挿入しなければいけない決まりなんだ」
「それからもちろん、TVショーや映画にもね。すっかり信じ込んでしまった人たちが、宇宙人の侵略や幽霊の存在に怯えないように」
「そんなの、読みにくくって仕方ないでしょう! 第一、現実はホラー映画でも推理小説でも無いですよ」
岬岐は憤慨した。警察官二人組はお構いなしに、道のあちこちに『※この物語はフィクションです』の板を飛ばして行った。
※この物語はフィクションです。
「23世紀にホラー映画はない。過去の名作のリバイバルはあるけどね。免許制で」
「視聴者から苦情が絶えなくてねえ」
「例えば『恨めしや……』も、『私は決して貴方自身に何の因果もありませんが、都合上敢えて言わせていただきます。アァ、貴方様に会えて良かった』と、こう言い換えなければならない」
「何ですかそれ! 全然意味が違うじゃないですか!」
「しかし、『恨』というのはねえ」
「良くない言葉だよ」
警察官が顔を見合わせて頷き合った。
「ミステリ小説にしろ、『死ぬ』とか『殺す』という表現は、未来にはもう無いな。何しろ危ない言葉だからね」
「『天に召される』とか、『転生する』とかかな。そこはまぁ宗教的な違いが……」
「あのねぇ……!」
岬岐は声を震わせた。
「綺麗な言葉にしても、意味ないでしょう! 実際に人が死んでるんですよ!」
「でも、さすがに『殺す』は使っちゃダメだろう」
「ダメなのは、人に向けて使うからでしょう。だったら野球の『捕殺』とか、『殺虫剤』とか、どうなるんですか。危ないからって、言葉だけ隠したって、何にもなりませんよ。『殺人』という言葉が無くなれば、殺人事件はもう、未来永劫起こらないんですか? 『いじめ』という言葉を無くせば、この世から『いじめ』は無くなりますか?」
※この物語はフィクションです。
「また……!」
「この注意書きは、作者や、事件の関係者を守るためでもあるんだよ。何せそういう事件が絶えなくて……」
「でも、だったら『※フィクション』とさえつければ、何でも書いていいっていう、何だか言い訳になってるような気もします。おじさんたちだって……」
「ウワァアアッ!?」
「へ!?」
突然警察官が飛び上がって、その場から後ずさりし始めたので、岬岐まで大きな声を出してしまった。
「や、やめろォ!」
「なんて言葉を使うんだ、君は!」
「ど、どうしたんですか、おじさんたち……」
「それ! それだよ!」
警察官の一人が目を引ん剝いた。
「おじさんに、おじさんと言うのはやめなさい!」
「禁止ワードだ、それは!」
「えぇ……ウソ……」
※この物語はフィクションです。
岬岐は驚いた。どうやらこの二人、「おじさん」と言う言葉に、並並ならぬショックを受けているらしい。だったら何と呼べばいいのだろう。警察官は慌てて元来た道を逃げ帰ろうとした。
「待ってください、おじさん!」
「ぎゃああああッ!」
「助けてッ 助けてくれぇッ!!」
「おじさーん!」
「チクショー! 覚えてろッ、この小娘がッ!!」
「恨むぞッ!」
「『恨む』って言ってるじゃないですか」
それから自称時空警察たちは、闇の中へと走り去ってしまった。後に一人残された岬岐は、とりあえず次の殺人事件の依頼をメールでチェックして、急いで家路につくのだった。




