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拓人は椅子から立ち上がり、小さく伸びをした。
「どうです? 玲奈さんも一緒に行きません?」
「私に子供ができたら、考えてあげる」
拓人は玲奈の言葉に苦笑いを浮かべながら、台所に戻り、玲奈の家に置いて行く分を除いた残りの野菜をかごに入れた。そして、それを持ち、玄関へと歩いて行く。玲奈は桃花の横に再び腰を下ろし、「またね」と顔を向けずに声をかけた。
「そういえば、タマオはどこいるんです?」
「どこかで雌猫の尻でも追い回しているんでしょ」
拓人はふーんとつぶやいた後、お邪魔しましたと言いながら家を出ていった。残された玲奈と桃花はソファに座り、先ほど入れたDVDを見始めた。毎日この繰り返し。コミュニティの中には拓人のように自らを追い立てるかのように、何か違うこと、楽しいことを模索し続けるものと、それを諦め、ゆりかごのように心地よいルーティンにその身をどっぷりとつからせるものの二種類しかいなかった。もちろん、玲奈は後者の人間であり、なおかつ、さらにそれを徹底している人間だった。
時々玲奈は数少ない拓人に対して、あざけりと羨望が混じり合ったような感情を抱くことがある。自分たちは子孫を残すことはできないまま、いずれ老いて、あるいは病気で死んでいく。残されるものは何もない。だからこそ、自分の好きなように生きるのか、それともあまりの絶望に自らの両目をつぶしてしまうのか。表に現れる結果は違っても、突き詰めれば両者を突き動かしているものそれ自体は同じなのだ。そして、片方を馬鹿だと思い込むことで自らを安心させ、同時に将来に漠然とした不安に襲われるたびに片方を羨望のまなざしで見つめるのだ。
もちろん自分がこのような考えを持つことになるとは思いもしなかったし、かつては拓人のように痛々しいほどに生きることに誠実であった時期もあった。玲奈はふと、ずっと昔の記憶、それもまだ人類が滅亡するという話を気軽に論じることができた時代の記憶を思い出す。
彼女が桃花と同じくらいの年齢で、地元で一番の企業に勤める父親と、彼を支える母親とともに平穏に日々を過ごしていた時のことだ。その日は珍しく熱を出し、学校を休んで自分の寝室で眠っていた。そして、ふと午後三時ころに目を覚まし、小腹が空いていることに気が付いた。その時にはすでに体調もだいぶん回復しており、彼女はベッドから起き上がり、リビングへと歩いて行った。
その時の空いていた扉からリビングへと入った時の光景を、玲奈はいまだに鮮明に覚えていた。電気が消され、暗くなったリビングの真ん中で、母親はソファに座り、場違いなほどに明るい光を放っているテレビの画面をじっと見つめていた。まるで世界がこの家だけを残して、どこか別世界に移動してしまったかのような静寂の中で、テレビから聞こえてくるタレントの声だけが、まるで呪文のように右耳から左耳へと流れていった。その真向かいにいた母親は、玲奈がリビングに入っていったことにも気が付かず、死んだような目でじっとテレビの画面を見つめていた。いや、そのまなざしは、画面の奥にある何か別のものを見つめていたのかもしれない。少なくとも言えるのは、そのような母親の表情はその当時の玲奈はまだ見たことがなかった、ということだった。
玲奈はその光景を目にした瞬間、凍り付いたようにその場に立ち尽くした。そして、母親に気付かれないように足音を立てないようにして、自分の寝室へと戻った。そして、かけ布団にくるまりながら、今見た後列な光景がどうか幻であって欲しいと強く強く願った。そして、強く願えば願うほど、彼女の爪先から少しづつ、何か目に見えない何かが自分の身体を這いあがっていくような感覚を覚えた。生きる意味という概念すらまだつかみ切れていない、幼い彼女にとってその時の光景はあまりに衝撃的だったのかもしれない。
しかし、玲奈は今では、その時の母親の姿を受容できるだけの大人になっていた。いや、なってしまったという方が正しいのかもしれない。彼女を含めた、コミュニティの人間だけでなく、大戦前の人間もまた同じような二択を突き付けられていたのだろう。そして、そう考えることで、自分の立場が幾分救われたように感じる一方で、どうしようもないほどに巨大な絶望の前に、さらなる虚脱感さえ覚えるのだった。