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シャッター音の後、カメラのレンズ下からゆっくりと写真が出始める。しばらく待ってから拓人がその写真を引っ張り出し、玲奈に手渡した。玲奈はそれをパタパタと振って、写真が浮かび上がらせてから、出来栄えを確認した。写真の色彩はデジタル画像とは比べ物にならないほど荒く、またあまり写真を撮る技術がない拓人が撮ったせいか、逆光で若干二人の顔は暗く映っていた。玲奈はそれを桃花に手渡した。じっと写真を見つめる桃花の背後に回り、拓人も写真を見る。自動で補正がつくデジタルカメラとは違い、なかなかうまく取れないですねと言い訳がましくつぶやいた後で、拓人は撮りなおしますかと尋ねた。しかし、玲奈よりも早く、桃花が拓人のほうへさっと振り返り、懇願するような目で見つめながら首を何度も横に振った。
「桃花もこう言ってるし、撮りなおさなくても大丈夫」
玲奈は笑いながらそういった。そして、桃花の小さな手を握り、ゆっくりとした歩みで再び海の方へと歩いていく。拓人もそのカメラを再び首にかけながら、二人の後をついて行く。
「そういえば、本当に玲奈さんの叔父さんがあの石碑を建てたんですか?」
ぼんやりと海を眺めながら、拓人は玲奈に問いかけた。
「そんなわけないじゃない。冗談に決まってるでしょ」
「もっともらしい冗談を言わないでくださいよ」
拓人があきれた様子で言った。
「それでもさ、誰かがあの石碑を作ったってことは変わりないでしょ」
「はあ、そりゃあ、あんなものが自然にできるわけがないですしね」
玲奈は海に背を向け、柵にもたれかかった。はらりと顔にかかった前髪を右手でかきあげる。
「誰かが企画を立てて、何人かで何度も打ち合わせをして、それとはまた別の人が汗を流してあの石碑を建てたのよ、きっと。私の叔父さんはもちろんその中にいない。というより、誰一人として、石碑に関わった人間を私は知らないわ。当り前だけど、それってなんだか不思議じゃない?」
拓人は何かを確かめるように石碑へと目を向けた。石碑は自分が話題に上っていることなど全く気が付いていないかのように、威風堂々と胸を張って立っていた。
潮風が吹き、磯の香りが地上へと運ばれる。目の前に広がる藍色の海はまるで文明の崩壊に気が付いていないかのようにのどかで、穏やかだった。玲奈が風で乱れた前髪を整え、横髪を耳にかきわける。隣には桃花が玲奈のtシャツの胴元をつかんでいて、はるか遠くに見える北海道の大地へと視線を向けていた。拓人がカメラを右手に持ったまま、玲奈の横に立ち、今にも朽ち果てそうな木製の手すりに手をかけ、身体全体を前のめりにさせた。
「長かった夏休みも今日で終わりね」
「それってどういう意味ですか?」
拓人は玲奈の方に振り向き、困惑した表情を浮かべる。玲奈は茶化すよう目で拓人を一瞥した後、桃花のほうへと顔を向け「桃花もそう思うでしょ?」と尋ねた。桃花はじっと玲奈の顔を見つめながらこっくりとうなづき
「私もそう思う」
と答えた。玲奈は左手を桃花の頭に乗せ、やさしい気持ちでその頭をなでる。桃花は目を細め、ぎこちなく微笑んで見せる。玲奈も彼女の気持ちすべてを受け止めるようにこれ以上ない優しさを込めて微笑み返した。そして、あんぐりと口を開けたまま固まった拓人に再び顔を向けた。うだるような、まとわりつくような熱気を引き連れた季節が、涼やかな風と肌寒い早朝の静けさに急かされるように、足早にどこか遠くへ走り去っていく。
「さあ、もう帰ろう。明日からやっと、九月が始まるしさ」
次回、最終話です。