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トンネルを数回くぐり抜けた後、車は今までの山ばかりの風景から次第に開けた平野へとたどりついていた。そして、その平野を走り続けていくと、ついに窓の外に広大な大海原の姿が現れた。その瞬間、玲奈と拓人は歓声をあげた。後部座席でうたたねをしていた桃花は二人の声に目を覚まし、二人が見つめる先へと視線を向ける。そして、目の前の深い藍色の海を目にすると、大きく目を見開き、初めて見た広大な景色に少しでも近づこうと、身体を窓際まで動かした。玲奈と拓人もまた、桃花と同じように窓の外の光景に目を奪われていた。もちろん海を見たことはある。それでも、車による長い旅路を経てたどり着いた景色はそのような記憶とはまた別格の美しさをまとっていた。
そのまま車は途中、国道四号線から国道二八〇号線へと移り、本州の最北端に向かって海沿いを走って行く。窓からは潮の匂いを帯びた、冷たい空気が車内に流れ込んできた。快晴とは言えないまでも、空は高く、透き通っている。段違いに浮かぶ雲はお互いに示し合わせたように、同じ方向へゆっくりと流れていった。後ろの桃花は飽きることなく景色にかじりついている。その目は開かれ、頬はほんのりと興奮で赤く染まっていた。
「海なんて、コミュニティの近くにもあるのにね」
玲奈は景色を眺めながらぼんやりとつぶやいた。玲奈の言葉はそれっきりだったが、拓人はその言葉にうなづいた。自分自身も全く同じ言葉を言おうとしていたからだった。
「きっと、他の誰かが同じ景色を見ても、何の変哲もない景色に見えるんだろうね」
「そうですね」
北上すればするだけ、磯の香りがきつくなり、次第にカモメの鳴き声も聞こえきた。海上にはポツリポツリと白波が現れては消えていき、その向こうには雲がかぶさった半島の片割れが観察できた。
車はひび割れた道路を上下に車体を揺らしながら走って行く。そして、さらに小一時間走ってようやく、車はようやく目的地である岬へと到着した。三人は車を降り、バラバラの足取りで岬の最先端へと歩いて行った。時々強い海風が吹くたびに、玲奈たちは身体を縮こませ、そして、風が治まるとお互いに目配せし、小さく笑い合った。
「綺麗な景色ね」
岬の最先端に設置された柵から身を乗り出し、玲奈がそう言った。桃花は玲奈のすぐ横に立っており、玲奈の左手でその小さな頭を優しくなでられていた。拓人も柵へと近づき、相槌を打つ。
津軽海峡の向こうには北海道が見えた。船を運転できる者がいない以上、人類があの大地を踏むことはもう二度とないのだろう。そう考えるだけで、すぐそばにあるはずの大地がずっと遠くにあるかのような不思議な気持ちになる。玲奈は桃花の頭から手を離し、朽ち果てた柵に沿って歩き始める。そして、すぐそばにあった石碑へ近寄ると、そっとそれに手をあてた。曇天の空で日に当たっていないからか、その石碑はほんのりと冷たかった。玲奈は文明から置き去りにされた人工物を下から上までじっくりと眺めてみる。すると玲奈の目線より三十センチほど上に、一瞥しただけではわからないような小さなひびが入っているのが見えた。
きっと自分たちが死に、この世界から人間がなくなってしまった後も、この石碑はしばらくの間、ここが岬であることを示す役割を果たし続けるのだろう。しかし、時間が経てばひびがあちこちに入り、いずれ緊張の糸が切れたみたいに倒れてしまう。けれど、その瞬間を目撃する人間はいないし、また倒れた後に、修復していくれたり、また長年にわたる働きを慰撫してくれる者はいない。そのようなことを思うと、玲奈はこの石碑が急に愛おしく思えた。まるで自分を含めたコミュニティの人間と同じ運命を背負っているように思われたのだ。
「どうしたんですか、そんな愛おしそうに石碑をなでて」
車の方から拓人が近づいてきた、そう尋ねた。
「これね、私の叔父が建てたの」
「どうせ嘘でしょ」
玲奈はふと拓人の首にかけられたカメラに気が付く。それは何かと尋ねると、拓人はコミュニティの人間から借りてきたもので、今の今まで車に入れっぱなしにしていたのを忘れてたと答えた。
「写真でも撮りましょう」
「撮りましょうって言っても、現像なんて誰もできないじゃない」
「いや、これはチェキっていう古いトイカメラで、撮ったその場で写真をプリントしてくれるんですよ」
チェキというカメラを玲奈は知っており、なるほどとつぶやいた。ちょうど玲奈が中学生くらいの時に流行していたもので、玲奈自身もかつてそれで遊んでいた記憶があった。拓人は遠くにいる桃花を呼び、石碑の前で玲奈と並ぶように言った。桃花は駆け寄ってきて、言われた通りに玲奈の横に立った。生まれて初めて撮る写真なのだからと、玲奈は桃花の髪や服を簡単に整えてあげた。準備ができると、拓人に合図をし、二人でじっとカメラレンズへと視線をやる。
パシャリ。