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Boy-Meets-September  作者: 村崎羯諦
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 パァァァァン。


 静寂な森の中を、渇ききった銃声がこだました。音は山の傾斜や隙間なく生い茂る木々の間を反射し、単音の重奏が風の音に混じって大気を震わした。玲奈に襲い掛かっていたイノシシは生まれてこの方聞いたことのない人工音にびくっと身体全身を震わし、玲奈の腿から一瞬だけ口を離した。その瞬間、玲奈の右手はこぶし大の先のとがった石を強く握りしめ、その尖頭をイノシシの右こめかみへと突き刺した。石の先端が毛でおおわれた柔らかい肉の中にうずむ感触が玲奈の右手から伝わってくる。急所を貫かれたイノシシは声にならないうめき声を発した。巨大な体躯はそのまま横に倒れ込み、傾斜にそって数メートルほど下へと滑り落ち、一本のヒノキの幹にぶつかって静止した。


 玲奈は肩で呼吸をし、じっと先ほどまで自分を食い殺そうとしていた獣に憐れみと謝罪の視線を落とす。


「ごめんなさい」


 玲奈の腿の傷口から、小川のように一筋の血が足首へと伝っていく。玲奈はその血を右手で拭い、自分の顔の目の前に持ってきた。赤く、どこか瑞々しささえ感じられるその液体が木々の間から差し込むわずかな陽光に照らされ、鈍く光った。


「そうすべきではなかったとはわかってる。でも、もう少しだけ、あともう少しだけ生きさせて。あの子に……まだ何もできてない」


 傾斜の上の方で、再び銃声が鳴った。玲奈は顔を上げ、痛めつけられた身体にむち打ち、立ち上がる。行かなくては。桃花と拓人が待ってる。玲奈はゆっくりと傾斜を登り始めた。傷口からは出血が止まらず、身体は転んだ時の擦り傷だらけだったが、不思議と足は止まらなかった。


規則的に発砲される猟銃の音を頼りに、玲奈は黙々と山を登り続けた。彼女は一歩一歩を踏みしめながら、彼らと合流できた時、つまり、桃花と再会した時になんて声をかけるべきだろうかと考え続けた。勝手にいなくなったことを怒るべきだろうか。彼女の気持ちを汲み取り、同情を示すべきだろうか。様々な考えが頭の中を回り、水の中に落とされた一滴のインクのようにやがて消えていった。


 一時間弱歩いてようやく、玲奈の視界の隅っこに、猟銃を片手に持った拓人の姿が映った。彼の左隣には彼の服を不安そうな様子でつかんでいる桃花もいる。先に桃花が傾斜を登ってくる玲奈に気が付き、拓人に玲奈の存在を知らせようと、強く服の袖を引っ張る様子が見えた。拓人が桃花の指さし方向へと顔を向け、安堵の表情を浮かべた。玲奈は彼らに遠くから手を振ると、拓人もまた、手を大きく振り返してくれた。


「って、何ですかその傷!?」


 合流を果たした玲奈の脚を見た拓斗は開口一番そう言った。拓人の横にいる桃花もまた不安げな表情で玲奈の顔をうかがっていた。自分のせいだと自責の念に駆られているのだろうか。怒られると思って委縮しているのだろうか。玲奈には彼女の小さな胸の中に秘めた感情を理解することはできない。できることと言えば、昔の自分の気持ちを思い出し、そこから桃花の気持ちを推測することくらいでしかない。


 桃花に何て声をかけたらいいのだろうか。桃花は今、どのような言葉を待ち望んでいるのだろうか。あの時の自分は母親になんと言って欲しかったのだろうか。


「ごめんなさい、心配かけちゃって。もう大丈夫だから」


 玲奈は拓人にそう言葉を返した後、桃花の方へと顔を向け、ぎこちなく微笑んだ。桃花の目の奥はなお光を失い、うつろだった。誰がそのようにしたのか、いつからそのようになってしまったのかはわからない。いつか幸せになれると考えられるほど無邪気でも楽天家でもなかったし、もがき苦しんで得た残りの人生も、すべてを忘れて笑い飛ばすには、あまりに長く、気だるげだった。それでも自分は生きることを望んだ。答えや理由が今はわからなくても、今はそれだけで十分だった。


「行こっか」


 玲奈は土で汚れた右手で桃花の左ほおをそっとなでる。柔らかな桃花の肌は夏らしいたぎるような熱を帯びていた。玲奈が発した言葉は、彼女自身が、あるいは桃花が望んでいた言葉とは程遠い言葉だった。しかし、ただ一つだけ言えるのは、その言葉は凸凹に折れ曲がりながらも、力強く明日の方向へ向けられていた。 

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