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玲奈は明かりの消えた寝室で横になっていた。小さな手でかけられていた毛布をどかし、ゆっくりと起き上がる。リビングと繋がるドアの隙間から照明の光が漏れていた。玲奈はアニメキャラがプリントされたスリッパを履き、その扉をゆっくりと開く。リビングの明るい照明の下、ダイニングテーブルに頭を突っ伏した状態の母親がいた。扉の開く音に反応し、母親が顔を上げ、眠たそうに目をしばたく。母親の目の前にはラップがかけられた一人分の夕飯が置いてあった。
「もう遅いから早く寝なさい」
母親は壁にかけられた時計を見ながらそう玲奈に言った。母親の口調からどこか逆毛だった雰囲気を察した玲奈は返事をすることもできずその場に立ち尽くすことしかできなかった。その玲奈の様子を見た母親は小さく舌打ちをした。
「パパ・・・・・・最近ずっと遅いね」
玲奈は母親を気遣う心持ちでそうつぶやいた。しかし、その言葉に玲奈の母親の顔が一瞬で豹変した。両目はカッと見開き、恥辱に耐えようとしているかのように唇を強く噛みしめる。机の上に置かれた両拳は静脈が浮き上がるほどに強く握りしめられていた。
「ママ?」
「うるさいっ!!」
母親は目の前に伏せられていた茶碗を手に取り、それを玲奈がいる方向へと思いっきり投げつけた。陶器の茶碗は玲奈がいる位置から二メートルほど右の壁に直撃し、けたたましい音を立てて割れた。玲奈が恐怖と戸惑いで硬直する中、母親はさらにテーブルに置いてあった一人分の夕食を床へと叩きつけ始める。そして、おもむろに後ろの棚上に飾られていた、三人が映った家族写真へと手を伸ばした。
「やめて!」
母親は獣のよう声で「こんなものっ!!」と叫び、手にした写真を写真立てごとを床へと叩きつける。写真立ての表面のガラスは木っ端微塵に割れ、破片が周囲へと散らばっていく。母親はその場に崩れ落ち、両手で顔をおおい、泣き叫んだ。その咆哮は口元を覆った手でくぐもり、鈍い音となって部屋の中を反響した。玲奈は恐怖で唇を震わせながら、ゆっくりと母親のもとへと歩み寄る。散らばった破片を避けながら母親の直ぐ側まで近寄ると、恐る恐る母親の方へとその小さな手を伸ばす。
「ママ・・・・・・泣かないで」
かすれるような声で玲奈はその言葉を振り絞った。母親は涙でぐちゃぐちゃになった顔をあげ、玲奈を見つめた。そして、玲奈を自分の方へと抱き寄せ、力強くその華奢な身体を抱きしめた。「ごめん・・・・・・ごめんね」と、母親は呪文のように玲奈の口元でそう繰り返した。
なんでママが謝るの? 玲奈の右の瞳から一滴の涙がこぼれ落ちる。玲奈は短い腕を懸命に伸ばして、母親を抱きしめようとした。大好きだとか、大嫌いという概念では割り切ることのできない感情が玲奈の中で渦巻いてた。母親が怖いとか、憎いという感情が一切なかったというわけでもない。それでも玲奈は抱きしめ続けた。視界が涙でぼやけていく。玲奈はパジャマの袖で涙を拭い、ふと足元に転がった大きなガラスの破片へと視線を向けた。そのガラスの表面には、小さな体で母親を抱きしめる、愛おしい桃香の姿が映っていた。