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イノシシは抵抗のそぶりも見せようとしない玲奈に戸惑いを思えるように、突き出た鼻で玲奈の身体をかぎ始める。鼻先が玲奈の二の腕に触れたとき、背筋をくすぐるような不快な湿り気を感じた。それでもイノシシに対する恐怖もなければ、逃げようとする気力もなかった。以前は身体の一部のように存在していた死への恐怖など、平穏で退屈な日常の中で跡形もなく擦り切れてしまっていた。そして、この瞬間になってようやく、桃花が玲奈たちの車から降り、一人、山の中へと入っていった理由がわかったような気がした。
多分桃花は、最初から失踪してやろうとは思っていなかったのだろう。ただ運転席に座っていた二人につられるように車から降り、自分に気が付かないまま車が発進してしまった。その時、今までずっと張りつめていた何かがこと切れてしまったのだろう。二人が自分を見捨てようとしているわけではないということだって理解している。ここで待っていればすぐに車が戻ってくることも、その後、二人して置いてけぼりにしてごめんねと心から謝ってくれることだって理解していたはずだ。許せないとか、見捨てられたんだという気持ちでない。桃花はなんだかすべてがばからしくなって、そして、自分でもよくわけのわからないうちに一人山の中に入っていった。その時の桃花はきっと、タマオが死んだ時に見せた表情を浮かべていたのだろう。
その時。反応を見せない玲奈を弄ぶように、イノシシが玲奈の太ももにかみついた。ジーンズごしにイノシシの鋭い牙が玲奈の太ももに食い込み、鋭い痛みが玲奈の身体全体を駆け抜ける。玲奈は押し殺したような嗚咽を漏らしただけで、抵抗はおろか悲鳴を上げることすらしなかった。その痛みを受け入れるかのように、唇をかみしめ、両手をぐっと握りしめる。
かみつかれた場所からじわりと血が滲みだしていく。玲奈は痛みを感じながらも、悲鳴や助けてという声を発しようとはしなかった。このままイノシシにかみ殺されるか、そうでなくとも重傷を負い、誰にも看取られることなくここで朽ち果ててしまうのだろうか。ふっと玲奈の頭の中にそのような考えが浮かんだ。いや、違う。どうして生き延びようとしなければならないのか。その言葉が今の玲奈にはより真に迫った考えのように感じられた。
コミュニティで平和に暮らしている間、死んでしまおうと思ったことなどいくらでもある。すやすやと眠っている桃花の小さな首に両手を置き、このまま首を絞め、一緒に死のうと考えたこともあった。それなのに、今更生きようともがこうとすることが、今の玲奈には滑稽に思えた。いつの間にか身体を貫いていた痛みは、向こう岸へと渡ってしまっていた。これでいい。玲奈はそれだけをつぶやくと、すべてを受け入れるようにゆっくりと目をつぶった。