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この彼女のルーティンは、ガチャリとドアを開ける音によって中断された。玲奈はその音に反応し、玄関の方へ顔を向けたが、椅子から立ち上がることはしなかった。玄関から足音が近づてきて、リビングに玲奈より少しだけ年下の、二十代前半の好青年が入ってきた。
彼の肌は日に焼けて黒く、コミュニティに住む他の人間と比較すると随分とたくましい腕と脚をしていた。頭には少し季節外れの麦わら帽子をかぶり、首には柄つきの汗ふきタオルを巻き付け、両手には土が付着したままの不格好な野菜が入ったザルを抱きかかえていた。男はコーヒー片手に椅子に座り、気だるそうに自分の方へ顔を向けている玲奈の恰好を見て、少しだけ不愉快そうな顔を浮かべた。
「せめてパンツくらいは履いておいてくださいよ」
「呼び鈴も鳴らさずに部屋に入ってきておいて、その言いぐさはないんじゃない」
玲奈はムッとしたようにそう言い返した後で、挑発するように足を組み替え、露出した下半身をわざとみせびらかした。
男は興味なさそうに相槌を打ちながら、洗い場の方へ行き、そこに抱えていたザルを置いた。そして、何の断りもなく蛇口をひねり、その場で野菜の一つずつ洗い流し始める。玲奈はその光景を片肘をつきながらぼんやりと見つめた。
「拓人くんも、物好きだね。わざわざ野菜を育ててるなんて」
拓人と呼ばれた男は、顔を手元に向けたまま返事をした。
「時間は有り余るだけありますしね。それに、食料は足りてるって言っても、保存食ばかりじゃさすがに飽きるでしょ」
飽きる? 玲奈はその言葉に反応し、くすりと微笑んだ。
「少なくとも一か月間は、毎日違う味を楽しめるのに?」
玲奈の言葉を拓人はハイハイと受け流す。そして、そのまま流れるように、今朝のフクシマの天気や、先ほどのラジオの話などへと話題が移っていった。会話のおよそ半分以上が、以前にどちらかが話したことのある内容であり、違っているとすれば、拓人が以前話したことを玲奈が話しているか、あるいは玲奈が以前話したことを今度は拓人が話しているというくらいだった。
ただ彼らはマークシートを埋めるように、流れゆく時間をつぶしたいがためだけに会話をしていた。それは目の前に絶え間なく現れ続ける時間というものを前に、彼らを含むコミュニティの人間が編み出したささやかな対抗手段の一つだった。生産的である必要は全くない。物資はコミュニティの人間を十分に満足させるだけ存在していたし、また、何かを生み出したとしても、消費主体としての人間はごくごく限られているのだから。
彼女は朝から何も食べていないことを思い出し、棚の下から超長期保存加工が施されたフレンチトーストを取り出した。この超長期保存加工が発明されたのは、第三次世界大戦のちょうど十年前であり、その当時には一大ブームを引き起こした。従来の保存期間を大幅に拡張し、賞味期限を百年後と設定することを可能にしたこの発明は日本及び世界に衝撃を与え、全世界の人がその食品を欲し、それをはるかに超える量が工場で生産された。もちろん、発明者も、賞味期限が訪れる前に人類が滅びるなど夢想だにしなかっただろう。
彼女は中身を半分にちぎり、片方を拓人の口の前に差し出した。拓人が上手に口でトーストをくわえるのを見届けた後で、玲奈はもう片方を口に入れ、それを冷めたコーヒーで流し込んだ。二人の会話はいつの間にか止まり、ラジオから流れる音声と蛇口から流れる水の音のみがリビングに流れていた。しかし、その一種の静寂は寝室の扉が開く音によって破られた。玲奈が目を向けると、そこには幼い桃花が裸のまま、眠そうに目をこすりながら立っていた。