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目の前にいきり立っていた急斜面の崖の上に出ようと、玲奈は迂回経路を探し始める。先ほどまでは気が付かなかった虫のさざめき、羽音がわずらわらしいほどに玲奈の耳に障った。人間がいなくなったこの世界において、ここまで数多くの生命の息吹を感じられたのは随分と久しぶりだった。大戦が進むにつれ、人間の数は目に見えて減少し、結局、放射能への耐性を持つごく限られた人間のみが残された。しかし、そもそも絶対的母数が少ない彼らは多くの場合において、たった一人戦火の跡に取り残されてしまった。愛する人間を失い、自分だけが生き残った。きっと彼らの中にはその耐性を持つにもかかわらず、孤独による絶望から死に至ったものもいるのだろう。玲奈と拓人は幸運にも同じ耐性を持つ人間とのつながりを早い段階で築き上げることができたが、孤独に侵され、気が狂ってしまった人間も数多く見てきた。
桃花は一体どうだったのだろう。玲奈は立ち止まり、痛む足の付け根をさする。青黒いその部分に手で触れると、針で刺されたような鋭い痛みが走った。桃花もしばらくの間、文明が滅びたこの世界で深い沼の底のような孤独を味わったのだろうか。それとも、玲奈らが彼女を見つけた時に行動を共にしていたあの男と、体を寄せ合いながら必死に生き抜いていたのだろうか。
答えはわからない。桃花は自分からそのことを喋ろうともしないからだ。そして、それはもしかすると、自分の仲間を殺した玲奈たちに対する、精一杯の当てつけのつもりなのかもしれない。しかし、そうだとしても、それは単なる当てつけでしかなかった。桃花は、玲奈や拓人や他のコミュニティメンバと同様、自分に危害を加える人間を殺してでも、あるいは大事な人間を葬り去った人間に媚を打ってでも、生き抜く道を選んだことは変えようのない事実だったからだ。
玲奈はなんとかよじ登れそうな角度の斜面を見つけ、両手で木の幹をつかみながら登って行った。腐葉土で覆われた柔らかい傾斜に足を取られないよう、必死に足に力を入れる。しかし、大きく踏み出した足が勢いよく滑り、そのまま前のめりに倒れこんでしまう。ひざとひじが土で汚れる。汚れを払うと、筋のようなかすり傷ができていた。玲奈はその態勢のままじっと傷を見つめ続けた。じわりと内側から赤い血が滲みだし、土の茶色と赤色が混じり合っていく。
何を必死になっているのだろう。玲奈はこのような状況でふとそのような感情に囚われてしまう。大戦が勃発してまもないころ。玲奈は生き抜くために毎日をしゃにむにになって駆け抜けた。身体が悲鳴をあげても、残酷な現実を突きつけられても、玲奈は生にしがみつき、生き抜いてきた。しかし、その先で手にしたものは一体何だったのだろう。死ぬほどつらい思いをして、やっと長く暗い洞窟を抜けた先にあったのは、結局、灰色に塗りたくられた味気ない景色に過ぎなかった。
あの頃とはいったい何だったのだろうか。いや、私はまだいい。その中で回りから頼りにされ、一時ではあるが、多少の承認欲求を満たすことができた。でも、桃花は? みっともなく生き抜くことを選んだ彼女を待ち受けていたのは、私のような人間の慰み者として、惰性のまま生きていく日常だった。もちろん、桃花自身が自身のことをどう思っているかなんてわからない。それでも、玲奈は言いようのない虚脱感に襲われた。彼女の生と、そして自分自身の生に考えをめぐらすことで。
がさりと玲奈の前方で何かが動く音が聞こえた。玲奈は顔を上げ、音のするほうへと視線を向ける。そして、彼女は目の前に、巨大な体躯をしたイノシシがじっとこちらを見つめていることに気が付いた。軽く口を開け、その中から鋭い牙がのぞいている。おそらく生まれて初めて目にしたであろう人間に対し、興奮のあまり身体全体を震わしていた。
ピンと張りつめた緊張が二人の間を伝い、静けさが山の中を包み込んだ。玲奈はその態勢のまま、じっとイノシシを見つめ続ける。そして、イノシシはゆっくりと、玲奈がいる方向へ向かって歩き出した。