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玲奈もまた前方を確認した。拓人の言う通り、固い灰色のコンクリートに、立派な雌鹿がその身体を横たわっているのが見えた。
「よそ見してて前を見てなかったな」
拓人はそうつぶやきながら、シートベルトを外し、そのまま車外に出る。玲奈もまた興味半分で車外に出て、あわれな動物の様子を近くで観察し始めた。
不運にも車に轢かれた雌鹿はまだかすかに生きているようで、前足がぴくぴくと動いている。それでも、コンクリートには鹿を中心に赤い染みが徐々に広がり始めており、鹿が致命傷を負っているということが見て取れた。鹿は人に慣れた猫のように、近づく二人に対して何の警戒も抵抗も見せなかった。代わりにその鹿は、助けを求めるかのようにそのくりくりとした瞳をきょろきょろと小刻みに動かしていた。
「これはもうどうしようもないわね」
先程まで、大いなる自由を享受し、山やコンクリートでできた地面を陽気に走り回っていたであろう鹿に対してそう言い放った。
「燃料用に解体します?」
「解体用の包丁とか持ってきてるの?」
拓人は玲奈の質問に首を横に振った。もちろん、解体用の大ぶりの包丁がなくとも、ナイフだけで肉だけをそぎ落とすこともできるのだが、それでは時間がかかってしまうし、何より手やら服やらが血で汚れてしまう。それに、生きたままの解体など、ずっと前に数回やったことがあるだけで、上手くやれる自信はない。
「燃料が足りないっていうわけではないし、放っておこうか。帰りに拾うっていう手もあるし」
玲奈の指示に拓人は「そうですね」と同意した。フクシマコミュニティの黎明期からのメンバーである玲奈は、拓人よりずっと多くのことを経験してきた。その分、拓人は玲奈のサバイバル技術に対し、それ相応の敬意を払っていた。二人はそのまま車に戻り、シートベルトを締める。そして、拓人は一旦バックした後で、上手に鹿の死体を避けて、再び車を走らせ始めた。
しかし、一分もしないうちに、拓人は突然ブレーキを踏みこむ。慣性の法則に従って、二人の身体は前のめりになる。
「ちょっと! 今度は何?」
玲奈はそう拓人を非難した。しかし、拓人はそれに返事をしないまま、身体ごと後部座席の方へ向けた。玲奈もそれにつられて後部座席に目をやる。そして、すぐに拓人が車を止めた理由を理解し、玲奈と拓斗は互いに顔を見合わせる。その時の二人の顔色は梅雨時に咲くアジサイのように真っ青だった。
「桃花ちゃん……いませんよ」