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「仕方なかったのよ。燃料がないと車が動かないでしょ」
車のトランクには、予備を含めて十分すぎるほどの固形燃料が搭載されていた。何年か前ならいざ知らず、余りあるほどの物資を手にした今現在において、そのような節約にそこまでの必要性はなかった。桃花も、まだ幼いとはいえ、そうした状況を知らないでいるほど知能は低くなかった。しかしながら、玲奈は反射的にそのような嘘をついた。そしてそれは、玲奈と桃花の間に存在した、悪しき習慣の一つであり、こうして玲奈が虱をつぶすように桃花を傷つける嘘を吐くことは初めてではなかった。そのたびに、桃花はその痛みを言葉に発しようともがき苦しみ、そして、自分が声帯を切除された鳥のように口がきけないという事実に絶望するのだった。
桃花はただただその死んだ瞳で玲奈を見つめることでしか、非難の意を表すことができなかった。そして今回も桃花は、ただじっと玲奈を見つめた。まるでその瞬間の玲奈の姿を一生忘れないぞと脅迫するかのように。
「何か文句でもあるの?」
玲奈は自分の失敗を認めたくないがゆえに、また、凍てつくような桃花の目に臆してしまった自分の気持ちを振り払うためにそう言い放った。語気は強く、また悪びれた様子も見せない、そんな口調だった。
「燃料が足りなかったら車も動かないし、ずっとこの場所にいなくちゃいけなくなるの。桃花だって、そんなのは嫌でしょ?」
桃花はうなづきもせず、否定するために首を横に振ることもなく、ただただじっと玲奈を見つめ続けた。しかし、その瞳には明らかに、見え透いた嘘を看破し、それに対する抗議の意志がありありと感じられた。今まで何度も見たことのあるそのような桃花のまなざしに、玲奈は段々と苛立ちを隠せなくなっていった。生理が来なくなって以降も、玲奈はこのように時々、無性に情緒が不安定になるときがあり、ちょうど運悪くその波とぶつかってしまっていたのだ。
玲奈は髪をかきむしりながら、桃花に近づいていく。桃花は近づいて来る玲奈に不安と恐怖の表情を浮かべた。それでも、その場から離れることはおろか、身動き一つ取ることができず、ただただ迫りくる玲奈を待ち受けることしかできなかった。玲奈は桃花の前で立ち止まり、桃花の右腕をつかみ、それを乱暴に上に持ち上げた。そして、そのまま唇をかみしめ、睨み付けるように桃花の目を見つめた。桃花もまたそれに応えるようににらみ返し、その状態のまま数秒二人は固まった。そして、玲奈は不意に右腕ごと桃花を横に押しのけた。小さくか弱い桃花はその力に思わずバランスを崩し、しりもちをついてしまう。
「勝手にすれば!」
玲奈は桃花に手を差し伸べるわけでもなく、そのままテントの方へと大げさに足音を立てながら歩いて行った。押し倒された桃花は急いで、立ち上がり、その後困惑の表情を浮かべながら彼女の後ろ姿を見つめた。そして、少しだけ躊躇した後、桃花は玲奈の後を走って追いかけた。玲奈は足音から桃花の行動を認識したが、振り返ることはせず、ただばれない程度に歩く速度を遅くするだけだった。
テントにたどり着く直前に、桃花が何とか追いつき、ぐっと右の袖をつかんで初めて、玲奈はさも初めて気が付いたかのように桃花の方へ振り返った。そして、泣きそうな表情を浮かべていた桃花の髪をそっとかきあげ、力強く桃花を抱きしめた。
(私は最低な人間だ。きっと天国には行けない)
玲奈は今にも折れてしまいそうな桃花の華奢な身体を感じながら、心の中でつぶやく。
(愛ではなく憎しみでつながっているのだとしても、それでも私はもこの子を離したくない。地獄に堕ちることよりもずっと、誰ともつながれないまま生きていくことの方が恐ろしいのだから)