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「大戦が起きる前はね、空港の中の売店で売り子をしてたの」
拓人は思わず玲奈の方へ顔を向けた。しかし、玲奈と、そして桃花も顔を動かさず、ただじっと真上を見ているだけだったので、拓人は先ほどの言葉が自分の幻聴だったのかもしれないとまで考えた。
「土産とか、飛行機の中で時間をつぶすための本やら雑誌を売ってた。もちろん、給料は安かったけど、周りの人たちはみんな優しかったし、仕事そのものに何の不満もなかったっけ」
「玲奈さんがそんなところに努めてたなんて初めて聞きましたよ。なんで隠してたんですか?」
玲奈はようやく拓人のほうに顔を向けた。
「別に隠してなんかはないわ。ただ聞かれなかっただけ。こんな話をしても退屈でしょ」
子供のような言い訳に拓人は苦笑いを浮かべた。桃花は言葉を交わす二人の間で、退屈そうに大きなあくびをした。
「じゃあ、なんで今更そんな話をしようと思ったんですか?」
玲奈は桃花の頭を愛おしそうになでながら話を続けた。
「職場でね、トイレの清掃をやっていたパートのおばちゃんと仲良くなったことがあるの。なんで仲良くなったかは思い出せないけど、お互い妙に打ち解けあって、いろいろと突っ込んだ話までする仲になったわけ。で、そのおばちゃんなんだけどね、なかなか大変な人生を送ってきたらしいの」
玲奈はそこで言葉をつぐみ、拓斗の方をじっと見つめた。それはまるで、拓斗がこれから語ろうとしている話に関心を抱いているかを注意深く見極めようとしているかのようだった。そして、しばしの沈黙の後、意を決したのか、玲奈は話を再開した。
「貧乏な家に生まれて、物心がついた時には父親もいなかった。離婚したって母親から聞かされたけど、近所の人の話から察するに、単に不倫相手と蒸発しただけらしい。兄と姉が一人ずついて、その三人をお母さんは女手一つで育てなくっちゃいけなくて、それはとても大変なことだろうって小学生の時からずっとわかってたらしいの。欲しいものも買ってもらえなかったし、周りからはいじめられた。母親は家に帰ってもおばちゃんのお話なんて聞かずに、仕事の愚痴をただただ垂れ流すだけ。少しでも適当に受け流すと、ヒステリックに殴られるもんだから、おばちゃんは懇切丁寧な相槌を打って、時々聖女のような慰めを与えていたって。もちろん母親が自分たちを育てるために必死になっていることも理解してたし、実際に何回もそう言い聞かされていたから、邪険に扱うなんて無理な話よね。それにね、兄弟仲も悪かったらしいの。母親の前ではなんてことない風に振る舞ってたんだけど、母親が仕事で家にいないとまあ大変。姉と兄はお互いに罵り合って、ちょうど月に一回程度はそれが殴り合いに発展するし、負けた方はその腹いせに近くにいたおばちゃんにやつあたりをするわけ。姉が負けた場合はまだ殴られるだけで済むらしいけど、兄の八つ当たりはひどかった。殴る蹴るで済まされたときもあったらしいけど、高校生の兄に、その時おばちゃんは小学生だったんだけどさ、肋骨の骨を折るくらいにボコボコにされたらしいの」
玲奈の語りに拓人はじっと耳を傾けていた。その様子は一見すると、話しを聞き流しているようにさえ見えるほどだった。
「それで、ハッピーエンドまではあとどれくらいですか?」
拓人の困ったような愛想笑いに応えるように、玲奈も微笑を浮かべた。
「悲劇的な子供時代を耐えぬいて、なんだかんだで高校は卒業できたらしい。卒業とともに小さな会社の事務職に就職。そのころには姉と兄も家をとっくに出ていって、家の中にはおばちゃんと母親しかいなかったらしい。おばちゃんは真面目に働いて、上司からもまっとうな評価をいただいていた。だけどね、給料は全部お母さんに渡してたらしいの。だから、自分のために使えるお金は全くなくて、どうしても必要な時以外はデパートにショッピングも行けなかったらしいわ」
玲奈と拓人の間で仰向けになる桃花はいつの間にか目をつぶっていた。それでも玲奈はその頭をそっと手でなぞりながら話し続ける。