プロローグ
なんだかんだで第三次世界大戦が勃発し、文明は滅びた。
エスカレートする挑発行為の果てに偶発した局所的戦闘は、やがて全世界的な広がりを見せ、それに伴い各国が保有する核兵器は、スコールのように各地へと降り注いだ。神に愛されていたものは爆撃と放射能で即死し、信仰心が足りなかったものは火傷と癌とでゆっくり死んでいった。
各国政府は敵と味方からの爆撃で機能停止し、無辜の民は恐怖と混乱で互いに互いを殺し合う。結果的に何万年もかけて作り上げられてきた国家、都市は跡形もなく吹き飛ばされ、狂騒を極めた都市部から離れた地方にのみ、人が生きていけるだけの秩序が残された。しかし、核兵器の影響は、地上に立つすべての人間に影響を及ぼし、彼ら地方民もその秩序から文明の再興を果たす暇もなく、放射能汚染によって死んでいった。
このようにして、人間が築き上げてきた文明なるものは消滅した。
しかし、注意して欲しい。この時点ではまだ文明が消滅したのみで、人類が滅びたわけではない。
いかに人を効率的に殺せるかという合理的かつシンプルな目的の下、研究に研究を重ねられた核兵器をもってしても、すぐに人類を滅亡させることは叶わなかった。
発せられた放射能は致死量を超えており、おまけ程度の爆撃に伴って、コンピューターの計算通りの拡散を実現して見せた。しかし、ここで一つの奇跡が起きた。それも今までの人類史で繰り返されてきたような、奇天烈でナンセンスな奇跡だ。
それは、放射線に耐性を持つ人間の存在だった。核兵器が使われることなく、御神木のように武器庫に奉られていた時代には、そのような特異体質の存在を考えることすら禁忌であったし、ましては、自分がその体質かどうかなど、年に一回程度の健康診断で判断できるわけがなかった。科学者が自ら産み落とした可愛い子供たちに殺されてしまった以上、なぜそのような体質が存在しているのか、あるいは、遺伝子にどのような変異が起きているのかといった厳密なことは謎のままだ。
しかし、手がかりが全くないわけではない。その体質を持つ人間の生息分布には地域的偏りが存在しており、代表的な場所としては、チェルノブイリ、フクシマ、ペンシルベニアが挙げられる。正確なデータに基づいていない以上、推測に過ぎないが、恐らく大戦前に大規模な原発事故が発生した場所において、そのような特異体質を持つ人間が生まれるのだろう。
とにかく、彼/彼女らはシャワーのように放射能を浴びたにもかかわらず、癌を発症することはなかった。その結果、爆撃による直接の被害を受けた者を除けば数少ない例外として、生存を果たすことができた。
しかし、ご承知の通り、彼/彼女らが二代目のアダムとイヴになることはなかった。
確かに、放射能によって癌といった死に至る病気を発症することはなかったが、まるでそれを埋め合わせるように、放射能は生存者の身体に著しい変化をもたらしていた。その変化を端的に言うと、彼/彼女らは生殖機能を失ってしまったのだ。
特質耐性とも言うべき体質は大量の放射能から生存機能の保護を果たしたものの、生殖機能までをも守り切ることはできなかった。生殖機能が失われれば、新たな命を生み出すことはできない。そして、いくら原爆から生存を果たしたところで、人間である以上、いつかは死んでしまう。すなわち、結局原子爆弾は時間をかけることで、人類の絶滅を果たすことができたというわけだ。
チェルノブイリといった数少ないコミュニティにおいては、特質耐性を持った選民が困難の末に独自の秩序を生み出すことに成功したものの、結局そのコミュニティは縮小と消滅を発生と同時に運命づけられており、そして運命に抗うことができたコミュニティは一つとして存在しなかった。そして、第三次世界大戦による文明の消滅から、人類史の消化試合とも呼ぶべき時代を経て、結果として人類は滅びることになった。
以上が、前回までの復習だ。この前提知識をもとに、今回はいつもとは趣向の違った講義をしてみたいと思う。すなわち、文明の終わりから、人類の滅亡。この短い時代を生きた個人にスポットを当て、この時代の一つの側面を描き出してみたい。言い換えるなら、将来の滅亡が約束された時代の中で、人間は何を考え、どのような行動を取ったのかということを述べるということだ。
もちろん、注目する人間は個人的存在であり、そこから他の人類の行動様式へと一般化することはできない。しかしながら、それは全体を構成する一部分であり、一つの真実であることは疑いようのない事実だ。そして、歴史を今現在の時点から振り返って捉えた時、我々は得てして、客体としての彼/彼女らが、一人一人理性と感情を持ち、なおかつ何かに向かって必死にもがき苦しんでいたという事実を忘れがちだ。
葛藤と感情を因果関係の名のもとに奪うことで、我々は殺菌消毒された一つの美しい歴史観を得ることができる。しかし、その時代には確かに人間一人一人が存在していた。私たちがそのようなアーティスティックな歴史観に心惹かれるのと同じように、彼/彼女らもまた美に心を動かされ、不条理には強くこぶしを握り締める。
ある西洋の哲学者が言ったように、死は各人にとって固有のものであり、代替不可能である。それと同じように、その時代において生きた人々にもまた、固有の感情、意思、人生が存在していた。そのような事実をくみ取ることも、我々が過去を論じるときに必要なのではないだろうか。
少々脱線してしまったが、話を元に戻そう。
先ほど述べたように、今回は人類史の消化試合のような時代に生きた人間の、さらにその一エピソードについて述べていく。また、語り方は前年の講義に引き続き、小説の形式を取ることにする。その方がよりわかりやすいだろう。
さて、今回、私が注目する人物は、フクシマコミュニティに属していたある成人女性だ。
フクシマコミュニティは他のコミュニティと比較しても、かなり早い段階で安定した秩序を実現していた。それはかつて日本と呼ばれた国の文化・風俗によるというよりはむしろ、比較的近場において、爆撃から逃れた中都市が複数残存しており、そこから恵まれた物資を大量かつ効率的に調達することができたからだと言われている。これから述べるエピソードは、秩序形成以前ではなく、コミュニティがすでに安定期に入った時期にあたることを頭に入れてもらいたい。
さて、基礎知識はこれくらいにして、早速だが本題に入る。
このエピソードから何を感じ、得ることができるのかはわからない。可能な限り諸君が退屈しないように心がけたいと思うが、もしかしたら単なる時間の無駄になるかもしれない。
また、先ほど述べたことを頭の片隅に残したまま聞いていただけるとありがたい。彼/彼女らは、確かにその時代に存在し、悩み、食べ、そして死んでいった。それは代替不可能であり、かつもう再現することができない、一回性のものであるということを。