秋の言の葉
季節は、1年に4つ回る。春、夏、秋、冬。それはどれも良いが、だがどれが好きかと言われると、僕は秋なのかもしれない。もちろん、ひとそれぞれ好きな季節があるだろうし、それが夏だろうと一向に構わない。
だが、彼女だけには、秋が好きであってほしかった。それはただの僕の願望でしか無いのかもしれない。でも、それは僕にとっては大事なことだった。彼女との、あの秋の出来事。
北海道に秋が来るのは早い。もう9月の始まり辺りから既に肌寒い日が出てくるのだ。それで10月中旬には肌寒いを通り越す日が来るのだから、秋が終わるのも早い。そんな短い季節を好きになったのは、あの日の出来事からだ。
3年前、僕は彼女と初めてデートした。僕も彼女も、恋愛には疎く、ともかくぎこちない表情のまま、とりあえず自分がマイカーで彼女をエスコートしたわけだが、そのデート先に決めたのが支笏湖であった。20の男が選ぶデート先にしては地味で、もしかしたらそんなところをデート先に選ぶなんて女の子にしたらとても的はずれに思われるかもしれない。けれど彼女とのデート先に、僕は支笏湖が最適だと思った。彼女とは話を大して出来ず、カップルとしてはぎこちない分、ワッと騒いでみるものより、ただぶらぶらと美しい風景を見ながら歩く方が、きっと楽しいと思ったからだ。
その予感は的中し、日本でも有数の透明度を誇る湖と、きれいに紅葉した山々を見ながら、二人は心行くままに色々なところを歩いてみた。彼女は初めて支笏湖に来たらしく、その美しさを「言葉に出来ない」だなんて便利な言葉を使い表したが、事実その表現が当てはまるほどに、それは美しい風景だったのだ。
満天の青空、完璧な紅葉、奇跡的に綺麗で透明な湖。
それはきっと、僕らカップルでなくても感動したのだろうけど、言葉のない僕らにしては、より一層の感動が加わった気がした。
その日は確か、キャンプ場でテントを張って、一緒に寝ていたはずだ。僕らはテント内で、ほぼほぼ話もせず眠りについた。結局、そんな景色を見ているだけのデートであったのだが、そのデートが僕の初めてであって、僕に強烈な思い出を残したのは言うまでもない。それが彼女にとって楽しかったか、楽しくなかったのかは置いておいてだ。
それから5年がたった。僕は25になり、彼女も同じく25になったであろう。彼女との最後の連絡は4年前で、彼女との関係は大学3年生の時に自然消滅したのだ。だが勘違いをしないでほしい。僕は彼女が嫌いになった訳ではない。きっと僕が恋愛に弱いため、二人の別々に動く人生のベクトルを、合成させることが出来なかったのだろう。
だからこそか、僕は未だに彼女のメアドを消してはいない。だからきっと、いつだって彼女に繋がる。そんな安心感で僕は彼女と離ればなれになっても平気でいられたのかも知れない。だが、僕はついこの前、何かの拍子にふと、彼女のメアドに『元気ですか?』とメールを送ってみた。しかし、直ぐに帰ってきた返信は、『存在のしないメールアドレスです』という機械的メッセージであった。だから僕は彼女の電話番号に連絡を試みる。だがそれも駄目であった。それで僕は絶望をしてしまった。彼女とはもう一生会えないと、そう思ったから。4年も放っておいて、それはないだろうと自分でも思うのだが、本当に僕は彼女との縁が切れてしまったことにただただ泣き叫んでしまったのだ。
それで今日、僕はフラりと、札幌から支笏湖にドライブをすることにした。思いでの場所である他に、そこは僕がもともと好きな場所であったし、ドライブには丁度いい長さの道のりでもあるのだ。だからこそ、こんなにも秋の天気のいい日を見逃す訳にはいかなかったのだ。
町中では、僕はいつも激しい音楽を流しながら運転をするのだが、支笏湖へ向かう道のりに音楽は流さない。ちょっと寒くても窓を開けて、自然の音を堪能することが一番耳に楽しいからである。
そんな音を堪能してドライブしていると、ようやく支笏湖の湖沿いの道路に出る。支笏湖は面積こそ日本で八番手だが、最低水深は2番目に深い360m、平均水深も265mだ。そのため貯水量はなんと琵琶湖に次いで二番手。水質調査で何度も日本一になる超透明度の湖が日本で二番目の貯水量であるというのだから、それだけでその湖がどれだけ神秘的かわかるだろう。更に言うと、そのそこに沈んでいる大木や、たまに見かける魚たちが、その神秘さに磨きをかける。ともかくそこは人間のいきる場所ではない、そんな気にさえさせる。
今日は風もなく、湖も波立っていなかった。風のある日はまるで海のように波立っている日もあるのだが、今日は本当に何もかもを通してしまいそうなほどに透明に平面が続いていた。
僕はそれから、しばらくドライブを続ける。そしてしばらくしたところにある有料駐車場に車を入れて、僕は湖沿いの歩道へと出る。今日は土曜であるが、家族連れやカップルなどでそこそこに賑わっていた。
僕はどうせ一人で来たので、心行くままにぶらぶらする。見晴らしのいいところに出ては写真を撮ったりして、僕は充実的な時間を過ごしていたのだ。
それから僕は遊覧船に乗った。ここの遊覧船は船底から湖の中を見ることが出来、よく楽しくて乗るのだが、今日という今日は、本当に透明で、楽しいと言うよりも、感動に近いものを受ける。
そんな遊覧船のなかで、僕は思い出した。そう言えば、彼女ともこの遊覧船に一緒に乗ったのであった。あの日とても透明な水であった。
「綺麗。魚が泳いでいるよ」彼女が言った。
「うん。泳いでいる。流木も沈んでいるね。海だったら浮かんでいるのかな?」僕はそんな下らない返しをする。
「でも、湖だと沈む。それを魚が楽しそうに泳いでいるなら良いじゃない」彼女も、そんな下らない返しをした。そんな会話を、僕らは楽しがってやっていた。きっと、そのカップルは他人から見ても不器用だったのだろう。
そんな思い出を胸に、もう一度、船底の窓を覗く。案の定流木がそこには沈んでいて、少数の魚が泳いでいた。
それからまた思い出が頭をよぎる。
「うわあ、急に深くなった」彼女がそう言う。僕もそれに反応し、窓を覗くと、さっきとはうって変わって、底も見えないほどの深いところに来ていた。
「そりゃあそうさ。日本でも有数の深さだからね。日本一の透明度でも、底が見えないのだから、相当深いしょ」
「うん、すごい。怖いけど、なんかすごいなあ。きっと底は暗いけど透き通っているのかな?」
「………昔はここ、自殺の名所だって噂だったから、骨が沈んでいたりして」僕がそんなことをいうと、彼女はさも恐ろしそうな顔をする。
「怖いじゃない!」そう言うなり、彼女は僕の掌を握ってきた。そして彼女は、「やっぱりそれでもすごいなあ」なんて呟いていた。
そんな僕の掌を握ってくる手は、今はない。ただ、僕は一人で、移り変わる船底の景色を楽しんでいた。あの日のような深いところに出ると、他の客が全員上に居たことも相まってその景色がやけに怖く感じたのだ。やはり人間は、自然を美しいとは思いつつも、神秘的なところにひとり置かれると、怖いと感じ得てしまうらしい。僕はそのためか彼女の掌の暖かさを思い出す。
遊覧船がもとの位置に戻ってきて、僕はまた湖沿いをぶらぶらし始める。すると僕の目に、信じられないような光景が入ってきた。
それは、一艇のアヒルボートであった。それには、一人の女性が乗っていた。長い髪の毛で、整った顔筋に、真っ白なワンピースに白い素肌。それは4年前まで、不器用に貪り見ていた彼女の姿であった。
僕はその姿を捉えるなり、ともかくアヒルボートの乗り口まで駆けた。駆けて駆けて、駆けた。
僕はアヒルボートの乗り口まで行くと、僕は彼女と同じくアヒルボートを借りる。僕はそれに乗り込むと、彼女のアヒルボートのほうに、命一杯ペダルを漕いでいった。
それで、少しづつ大きくなって来る彼女のアヒルボートに、僕は少し息を飲んだ。果たして僕は彼女に近づいて良いのだろうか?今更ながらそんなことを思う。だが、もう彼女のアヒルボートは目と鼻の先ほどの場所にあった。だから僕はもう覚悟を決めたように、そのアヒルボートに「稲芽」と彼女の名を呼んだ。するとそのアヒルボートのワンピースが少しフワッとゆらめいだ。そのワンピースを纏った彼女の顔は、静かに僕を向くなり、すごく自然な笑顔を見せていた。僕も同じく、自然に笑顔を浮かべていた。
「路斗………。会えた。私、もう会えないかと思っていたのに」
「それはこっちの台詞さ。何でメールアドレスを変えたのをいってくれなかったんだ」
そう僕が言うと、彼女は少し下を向いた。
「ちょっとね、前の仕事でさ、へんな男の人に付きまとわれちゃって。それで私会社を止めてしまったの。その時メールアドレスを変えたんだけれども、路斗に私、ずっと連絡されてないし嫌われているんじゃないかって思って、縁を切ろうと思ったの」そういうなり、彼女はへんてこな笑顔を浮かべる。
「全く、それも僕の台詞だ。僕は君が遠ざかっていくような気がして、連絡を取れなかった」
「私、本当は会いたかったんだよ」彼女がそう呟くと、僕も大声をあげて言う。
「僕だってそうだ。なんだかバカらしいね、両思いだのに、どっちも嫌われただなんて思ってたなんて」そういうなり頭を掻いた。
「ううん。私たちっぽいよ。自分達で自分達の縁を気持ち違いで4年間も切っていたなんて」そう言うなり彼女は不意に泣き出した。その彼女を見て、僕はふと呟いた。
「僕らはまた会えた。それだけでいいさ」
それで僕は少し気になったことを聞いてみる。
「でもなんで、支笏湖に来ているの?」そう訪ねると彼女は涙を抑えながら喋り始めた。
「私、路斗にここを教えてもらってから、ここの景色に恋をしてしまったの。だからさ、ふと来てしまうんだ。たまにさ」
「僕もふと来てしまう。やっぱりこの場所が好きなんだ。だけどね、やっぱり怖いなとも思う。自然に一人ボッチになるのは」そう言うなり、僕は彼女のアヒルボートへと手を差し出した。すると彼女は僕の手を握り返して来てくれた。
「そうだよね。きっと、私たちが恋人を探す理由は、自然の神秘に打ち勝って、自然が美しいと思えるためにあるのだと思う」
「なんか深いね」
「実際そうだと思う。こうやって湖面に一人でアヒルボートを漕いでたら、神秘的だけど、なんか怖く感じるんだもの」そう言うなり、彼女は更に力を加えて僕を握る。「けれど、君がいると、湖はただただ美しく感じる」そういった彼女は、とても透き通った笑顔をしていた。僕はだから、その笑顔に吊られて笑った。
「僕も。君がいると、この場所は怖いと言うよりも、より一層美しく、雄大に見える」そう言うと僕は彼女の手をまた力強く握り返した。
支笏湖の景色に言葉は要らない。それと同様、僕らの恋に言葉は要らないのだ。もう一生会えないと思っていた彼女にこうやってふと巡り会えたのだから。だけど、この手を離したらダメだと言うことを知った。彼女が僕を嫌いだと言うまでは、例え恋の弱虫病が発症したとしても、この手だけは強く握りしめていないといけない。
そう思ったあの日の秋。僕はその日を忘れはしない。手を握り続けたお陰で、僕たちは言葉の会話が下手くそだったけど、ちゃんとしたコミュニケーションが出来たのだから。
この世界に屈しない、家庭が出来上がっていったのだから。