5.算盤
さすがに、商家の娘がはじく算盤は早い。そして正確に扶持米の不足分を左衛門の「覚え書き」に書き記した。それを見た左衛門が驚いたのは、藩士のおよそ三分の一は中津に残さざる終えないと結論づけてあった事と、その対応策が練られていた事だった。その対応策を練っていたのは、なんと新八郎だったのである。
「ああ見えて、新八郎なかなかよく城下を知っておるわい。それにいちの手際の良さ、ひょっとしたら……。いやいや、そううまくは行くまい、どれもう一度御家老にお会いしよう」左衛門は自分が思っていた事に、同じく気が付いた二人を頼もしく思い、ついに老中に進言する事を決めた。もう日が高い、それでも左衛門は身支度を整えた。
「左衛門殿、お気をつけて」
いつものようにふさがその背中を見送った。その後ろ姿を見送っていたふさが、あわてて屋敷に消えた。何やら、叫んでいる。
「いち、いち。何か燃えている匂いがする、早く新八に伝えなさい」
「お母様、新八郎殿は既にあそこでございます」
ふさがいちの指差す方向を見ると、大股で駈けている新八郎を遅れがちに追いかけるのは「野辺」だ。彼は祝言以来、この屋敷の一部屋に住んでいる。
「カン、カン、カン……」
ようやく半鐘が鳴り始めた。その頃には新八郎は類焼を防ぐために、くだんの荒くれたちと一緒になり、火元近くの塀を次々とたたき壊していた。
「また、火事か。このところよく続く事だ、藩も考えねばなるまい。江戸の大火ほどではあるまいが、中津も『火消し隊』を作っておかねば安心して暮らせまい。新しい藩主となられる奥平昌成様は、そんな事までお考えなされる方であろうか。いかんいかん、これは余計な事だな」
この左衛門の思いつきが、やがて小笠原藩士を救う事になる。しかし、それと引き換えに、その後およそ百年間、石坂氏は中津を離れることができなかったのである。彼は再び頭の中の算盤を弾いては、何やらぶつぶつひとりごちしながら堀端を歩き続けた。暫く行くといつものように竿を持った井岡にすれ違った、だが左衛門は彼に気付きもせずにうつむいたまますれ違おうとした。
「おいおい、左衛門。考え事をしながら歩いていると、そのうち堀にでも落っこちるぞ、こんな頃合いに城か?」
「おお、井岡、先日は済まなかったな。新八のために祝儀までもらったのに、今までその礼が遅くなってしもうたな」
「いやいや、額は少ないが許せよ、暮らしていくのに金は邪魔にならぬ。ハハハッ」
笑いながらそう答える井岡の腰には大小が無かった。井岡はその視線を感じるとこう言って笑った。
「おい、わしの大小は確かに質屋に置いてはいるが、おまえは気にするな。そろそろ受けにいくつもりだ。まあ、あれなど技ものでもない、なまくらだ。それにこのご時世、いまさら刀など買うものなどはいやしない、ハハハッ」
「なまくらなどと、わしに嘘をつきやがって……」
「一の門」をくぐった頃、石坂左衛門は井岡の名刀を欲しがっていた藩士の顔を何人か思い出した。
「質屋に口添えしておくよう、ふさに言っておこう、井岡にとって大小を手放すなど、何より辛い事だろうて」
左衛門の頭は再び算盤を弾き始めた。藩士の行く末を左右するのは、彼の算盤にかかっている。このままでは小笠原藩士の半数は扶持米のあてが無い。
「一万石は一万石、増えはすまい。どう勘定すればいいか、どう話をまとめるか、すべてこのわしの算盤にかかっている」
左衛門には、実は妙案があった。それと同じ様な事を新八郎も考えていた。
「どう話して老中に納得させようか」
そのことに彼は腐心していた。
「井岡のように、藩士は生活を切り詰めていても大小は手放さない。落ちぶれようとも決して心から町人たちと交わろうとはしない……。内職に精を出していて、無精しいていも『まげ』は結う、なんと藩士とは厄介なものだ。新八郎が示した通り藩士たちに新たな役目を与えねばならないだろうな、老中もわしの考えに賛同してくださればいいのだが……」
左衛門はよくよく思案しながら、ようやく最後の門に着いた。その姿を見つけて、あわてて門番が出てきた。
「これはこれは石坂殿、さあ奥で老中がお待ちでございます」
「急な事で誠に申し訳ない」
門番にそう挨拶を終えると案内されるまま、左衛門は城内に消えた。