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鉄筆2  作者: 黒瀬新吉
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4.来客

心ばかりの宴が屋敷に作られた。先月ひまを出したはずの手伝いの娘が駆けつけてくれた。屋敷は無駄に広い、剣術の稽古場にもなっていた事さえあったのだ。左衛門は剣術はそれほどうまくはなかった。だが、新八はずば抜けていたのだ。もう時代はとっくに過ぎ去っていたが、小笠原藩の若い藩士には、それでも竹刀を振る場所が必要だったのだ。その道場に橘屋の一行は泊まる事になった。焼け出された人たちの布団はすべて出払ってしまっていて、金蔵、いち乃たちの寝具は城下から集められた。隣の部屋に宴の用意ができた頃、道場でもようやく「支度(したく)」ができたようだった。


ひまを出したはずの娘が障子を開けた。

「旦那様、宴が整いました。どうぞお越し下さいませ」

茶碗を置き、橘屋の一行は部屋に案内された。

「なにぶん、貧乏暮らしのためたいした事はできませんが、腹は膨れてしまえば同じ事。金蔵、いち乃殿、今宵はご容赦くだされ……」

案内された部屋に左衛門は入って、言葉を飲んだ。謙遜した宴のはずが、ふさが用意したのだろう、なかなか立派な料理が並んでいた。

「しかし、これだけの料理をそろえる事が果たして今のわしたちにできるのだろうか?」

上座に座ろうとした新八といち乃をふさが呼んだ。

「ちょっと手伝って二人とも」


「金蔵、この度は済まなかったな、お父殿にもよく礼を伝えてくれ」

左衛門が金蔵から返杯された酒を飲もうとした時に、道場の戸が勢いよく開いた。

「何だ、お前たちそんな所から……」

「いち乃、お前……」

ふさが笑って新八の背中を押した。

「さあ、新八。主役がさっさと席に着かないと始まりませんよ」

唖然としたままの左衛門を尻目に、新八といち乃が左衛門の隣に座った。いち乃の着た色打掛はふさのものだった。


「この度は、おめでとうございます」

「なんと、美しい花嫁でございます事」

井岡周八は妻を連れて、真っ先にそう祝辞を述べた。

「石坂様もこれで安心なされましたな、誠にめでたい」

「姉さん、いや奥方様今後とも、新さ、いや新八様と仲つむじ……」

「おい、何しゃべってんだ、この阿呆!」

「ははははっ、まあ座れ、あいさつはいらんぞ」

新八が笑いながら、いつも人夫役をかってくれる男たちにそう言った。道場には寝具の変わりに男たちがめいめいに持ってきた、酒と肴が所狭しと並んでいた。そしてそれは次々に現れる城下の者たちと同じく尽きる事がなかった。


「なんと、これだけの者が新八を祝ってくれるために、屋敷に来てくれるとは……」

いち乃に向き直り、左衛門は頭を下げた。

「いち乃殿、苦労をかけると思うが、幾久しく頼むぞ」

「なんともったいない、父殿。いちと呼んでください、幾久しく」

「体は丈夫にできております、少し粗野ではございますが可愛がってやってくだされ、奥方様」

「まあ、金蔵ったら」

「粗野で悪かったわね、お父様」

「ははははっ、当たらずとも遠からずだな、いち」

「まっ、新八様まで、知らないっ!」


道場で続く、笑い声を置き去りにして、二人はそっと庭に出ると、満月を見上げた。

「あれで良かったのかしら? お父様は私を気に入ってくれたのかしら、ねえ新さん」

「ああ、父上はいちを気に入ったのだろう。俺には解る」

「だといいのだけれど、本当に商家の娘でいいの、新さん」

「何度も言わせるな、いちはわしの女房だ」

「ううん、何度も言って。いちを好いていると」

「ああ、好いている」


生まれたばかりの夫婦(めおと)を満月が照らし続けていた。


酔いつぶれて眠り込んだ左衛門と金蔵たちを起こさないように、ふさが後片付けをしていた。あわてて手伝おうとするいちをふさは別の部屋に呼んだ。そして新しい娘となった、いち乃に頭を下げた。

「いち、新八の事お願いしますよ。中津はこれから大変な事が続きます。左衛門だけでは乗り切れません、新八の舵取りと石坂家を頼みます。あなたしかいません、新八をよろしくお願いします」

「はい、お母様。いちは新八様の妻として、石坂の家を立派に守ります、中津藩士石坂新八郎の妻として」

「あなたの覚悟はよく解りました。いち、早速ですが、さっさと宴の片付けをしましょう。新八も待っていますからね」

そう言い残すと、ふさはまた片付けを始めに道場に向った。

「まあ、お母様ったら……」

いち乃は少し顔を赤らめそう言うと、ふさに借りた色打掛を脱ぎ、手早く「たすきがけ」を終えるとふさの後を追った。


こうして、二人の祝言は終わった。残念な事に新八は翌朝まで新妻の顔を見る事はなかった。おそらくこの夜は特別に酔いが回っていたのに違いない。翌朝早々に橘屋の一行は中津を離れた。その朝のみそ汁からいち乃の日課が始まったのである。


「旦那様、あれでよろしかったのですか? いち乃様を中津の貧乏藩士の奥方などに……」

「これ、誰ぞの耳に入るやも知れぬ。滅多なことを言うな、野辺」

野辺(のべ)」と呼ばれたのは、例の車引きの男だった。

「これでいい、これでいいのだ」

含み笑いの漏れた唇から次いで出た金蔵のつぶやきは潮風に乗り消え去っていった。


「許せ、いち……」

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