3.あんみつ
いち乃は金蔵の娘であったが、嫁入り道具の話などは作り話だ。新八が左衛門に娘の事を話しやすいようにとの下工作だった。さて、昼近くになり、荷下ろしもやっと終わり、新八は手にした銭で数人の男達と団子屋に入った。
「新さん、今日のは特別いい檜だなぁ」
「おや、兄さん解るのかい?」
橘屋から車を引いてきた若者が口を挟んだ。
「俺も随分前に材木屋に奉公していた時があったのさ、火事の前の柱より、数倍はいいものだ。さすが播州橘屋。しかしよくこんな貧乏藩に金があったもんだ」
「これを聞いたらもっと驚くぜ……」
卸値を耳打ちされた男は、思わず叫んだ。
「そんな値で中津へ売ったのか。橘屋の気は確かなのか?」
厠から新八が出てきたのを見て、いち乃が目配せをした。
「さあ、さあ、お団子とお銚子をお配りしますわね、新八様も早く座ってくださいな」
姫路では数倍の値もする檜材を安価で、遠く中津まで送ったのは、橘屋の主人の娘愛しさからであった。しかし新八もいち乃もそれは城下では決して言わなかった。
「よいか、落ちぶれようと、藩士は藩士、恩は藩主に報うものだ」
いち乃は金蔵の口ぶりが侍の様でそれを聞く度、苦笑していたのを思い出した。
「姉さん、ところで今日はどこに泊まるつもりなんだい?」
「えっ、どこっていつもの……」
「まさか。焼け落ちたのがお寺だって知らなかったのかい」
「番屋に泊まる訳にもいきませんぜ」
「誰かいち乃の宿を手配してくれんか……」
新八のそれを聞いて一人の若者が返事をしようとした。
「馬鹿! 無粋な事をするな」
一人、また一人とほろ酔いで若者が椅子を立った。もちろんあの程度の銭で飲んだ酒で酔うものなどまったくいない。しかし新八といち乃に気を利かせていつもそうだ。今日は泊まれない寺へと二人はいつものように向った。
「新八様、あんみつって知ってる?」
「知らんな、小間物かい」
くすりとわらっていち乃は答えた。
「団子より甘い食べ物よ」
「へえ、そいつはいい。どこで売っている」
「一度難波で食べた事があるの、明石じゃあ売っていない」
「そうかそれなら中津だったら一生食えんな。貧乏藩だし、団子屋もあの一軒きりだしなぁ……」
「そうねぇ、でもここが好きでしょう。新八様」
まだ臭ってきそうなススだらけの山門を二人はくぐった。
「好きさ、ここは俺がうまれ育った町だからな」
「そう、私も明石が好き」
新八は少し前を歩く、いち乃のうなじに見とれていた。くるりと向き直った丸い瞳のいち乃が小声で言った。
「でも、新八様の方がもっと好き」
新八がいち乃を抱く腕の力を緩めたのは、遠くから半鐘の音が聞こえたからだった。間もなく、団子屋で別れた若者が二人の後から駈け付けた。
「新さん、姉さん。火事だ、来てくれ!」
「おう!」
「お嬢さんは私にお任せください」
車引きの若者が息をはずませながらやっと追いつき、新八に言った。
「気をつけて、新八様」
あわてて駆け出しながらも右手を上げ、やがて彼は見えなくなった。
当時の火事は始末が悪い、城下は整えられていない上に風が吹けば次々に燃え移る、防火水槽などはもちろん、水桶もいざという時に水を汲めないようなものさえある始末だ。類焼を防ぐために燐家を壊して鎮火を待つくらいしか方法が無かった。大火になってしまえばそのための人夫が極端に不足してしまうのだ。中津の大火はこうして何度も繰り返していった。
「お勤めご苦労であった」
幸い今日の火事は半焼家屋数軒で済んだ。白い馬に乗ったままきちんとした服装の藩士がふんどし姿で入れ墨の若者に「おざなり」な礼を言った。いくばくかの銭が人夫のまとめ役の男に渡された。それぎりその白い馬はくるりと向きを変えると立ち去った。
「馬から降りるくらい、しても罰は当たらないぞ」
「あいつ、大したことなくて残念そうだったぜ」
「火が消えていったいどれだけ経ってから来ているんだ!」
「よせよせ、まだ片付けが残っているだろう。早い事やってしまおうぜ」
「家は半焼だが、雨がふりそうだ、仕方ない今晩は番所で寝てもらおうか……」
暫くたっての事、左衛門の屋敷を訪れたものがあった。
「石坂様、実はお願いがありまして……」
その夜は、橘屋の金蔵親娘は結局、石坂家に泊まらねばならなくなったのである。