monk-03「虐殺③」
不意に、雲の波間から斜陽が零れた。少しの間、辺りが温かい色をした陽光に包まれる。夜闇が訪れる直前の、世界を満たす橙色の輝き。
赤い実の果汁のような淡い光に濡れた岩々の大地の一点に滲んだ真っ黒な影――男の姿が、纏っていた薄闇を夕陽に溶かされ、視界の先へと現れる。
「――何だ? あいつは……」
黒衣の外套を風になびかせ、悠々とこちらに歩んでくる男。ぼさぼさに乱れた癖のある黒髪が特徴的な、色白の年若だった。――二十は超えているだろうか? クリルさんより少し年上で、ゴルザスさんより若干若い年齢に見える。寂れた田舎の役人みたいなくたびれた格好をしている割に、何処か高貴さを漂わせる彫の深いきりりとした顔立ち――顎は細く、鼻は高い。唇は横一文字に引き結ばれ、羽ペンで払ったように整った眉の根には気難しそうに皺が寄っている。――そしてその眉の下で、月夜の湖面のような深い藍の瞳が鋭くこちらを見返していた。
表情は厳しいが緊張して強張っているわけでもない。……感情の読めない顔のまま物言わずこちらに近付いて来る彼。三人に向けられていたその鋼のような眼光がふと僕に止まる――その時、感情の機微さえ感じさせないでいたその瞳に驚きの色がほんの少し窺えたような気がしたが、確かめる前に僅かな変化はすぐに元の無表情の仮面の下に隠れてしまった……やっぱり気のせいだったかもしれない。彼の目には……何だか、隙が無いのだ。
「……構えろ魔女」
「――分かってる」
ゴルザスさんが低く呟き、セイラさんが短く応える。
横を向くが、セイラさんが杖を胸の前に握り直している他は二人の様子にこれと言った変化は見受けられない。――でも、彼らの戦いを間近で見てきた僕には分かる。
――空気が変わった。
二人は既に、遠くに見えるあの男が――あの得体の知れない何者かが、敵でも対応できるように状況を開始している。
「ザイアくん、あたしの後ろに」
「はい……」
言われるがままセイラさんの陰に入った。……女性を盾に使うみたいで男として駄目な気もするが、ちっぽけなプライドを優先させて良い場面じゃないと自分に言い聞かせる。腕っぷしも弱く魔法の才能もない僕は、殴り合いでは活躍できない……だからせめて、彼らが負傷したときいつでも治癒を行えるように、邪魔にならない場所から戦いを見守る。それが僕の仕事だ。
「……しかし本当に何者だあれは? こんな辺境に一般人が居るとは考えづらいし――そもそも気配が尋常じゃない。魔王の協力者? いや、そんなことをする奴が居るとも思えない」
「あたしも謎。ただ、もしかすると魔王が何か召喚して使役したのかもしれない。召喚術は高位の魔法で、とても子供……普通の魔術師に扱える代物じゃないけど、魔王の馬鹿みたいな魔力をもってすれば、故意であれ事故であれ、術自体は可能だろう。――問題は、あれが、あたしたちにとって敵か否か、だよ」
「手を外套の下に隠しているな。武器を持っているのかもしれない。何も言って来ないが、距離詰めて来てるっつーことは接戦型か……」
――瞬間、ゴルザスさんの口元に凶暴な笑みが滲んだのを、僕もセイラさんも見逃さなかった。普段は冷静で、とても頼りになる人だけど……戦闘の際、時折見せる彼の獣性が、僕はまだちょっと怖かったりする……。本能的に好きなんだよな。この人、戦いが……――
「……魔王は?」
「近くには居ないみたい。魔力が感知できない」
「ふむ――」
二人、小声で素早く話し合って数秒後、ゴルザスさんが言った。
「――魔女、ザイア、行って来る」
その決定に僕なんかが口を挟む余地はない。首を小さく縦に振り、彼の背中を見送る。
「気をつけてよ?」
セイラさんの言葉に、ゴルザスさんは振り向かないまま僅かに頷いた。
そのまま真っすぐ男の元へと向かうゴルザスさん――そりゃ、正直に言えば仲間に危険に身を晒すような真似してほしくはない……けど、それは間違いなく安全なやり方がある場合の話だ。そしてもしそんな手があるのなら熟練の戦士である彼らがそのことに気付かないはずもない。つまり、今はこれが最善。――重視すべきは、あの男が徐々に距離を詰めてきているということだろう。名乗りも何もしないのは何とも不気味だが、彼の間合いが近接であることは雰囲気から考えてまず間違いなさそうだ。きっと抜き身の小刀でも服の下に隠しているのだろう。だったら、拳闘士という同じ接戦型の戦士であるゴルザスさんが様子見に適している。ゴルザスさんの方からも距離を詰めているのは、中・遠距離型の魔法使いであるセイラさんと男との間隔を適切に保つため――そして接戦する地点を非戦闘員である僕から遠ざけるため……。本当、気を遣わせてばかりだな、僕……。
「――動いた!」
と、うつむき加減に嘆息する僕の前でセイラさんが器用にも小さく叫んだ。慌てて顔を上げる。
視界の先、目測で十メートル程の距離にまで接近したゴルザスさんと黒服の男――互いに立ち止まり、既に臨戦態勢だ。――やっぱりっ……敵かっ!
男は外套に隠していた両手を胸の前に上げ、こちらに右肩を突き出す前傾姿勢。そしてじっと、拳闘士らしく拳を胸の前に構えるゴルザスさんを睨んでいる。
男の左右の手には、やはり何か握られていた……けど――
「……?」
――最初僕は、彼が双剣使いなのだと思った。彼の持つ『何か』には、刃渡り二十センチほどの刃が着けられていたからだ。……しかし、もし剣だとしたら、柄の形状が……何というか、歪だ。
刃と同じくらいの長さを持つ、棒状の土台と言うべきか……でも、持つ部分が横に折れていて……それに、遠目からでは細部まで見えないけど、何だかエラく複雑な構造をしているような……見たことのない形状の武器だ。知識でも知らない。別大陸の技術か? ……しかし、どんなものかは知らないけど、機能性あるのかあれ? 別にあんなごちゃごちゃしていなくたって、シンプルに刃だけあればいいと思うんだけど……。
セイラさんなら知っているかもと思い横から顔を覗くが、彼女も初見の武器に戸惑っている様子だった。……この人でも知らないなんて……。
――一体あの男の武器は、何なんだ?
「よお! 色男!」
ゴルザスさんが男に向かって声を掛ける。
「先に獲物を抜いたのはそっちだ。俺らに敵対する意志を見せた以上、戦う気なんだろ?」
「……ゴルザスさん気合入ってますね……」
呟くと、セイラさんが確かに……と頷いた。
でも違和感もある、あの話し方は落ち着いた性格の彼らしくない……そもそもいつもの彼なら戦いの前に敵と言葉を交わすような真似はしない。せいぜい名乗り程度だ。……何か聞き出そうとしているのだろうか。セイラさんはその何かに既に思い当たっている様子で、じっと耳を澄まして彼らの会話に集中している。だから僕も黙ってそうした。
「――俺も戦いたい! お前みたいに正面から決闘を挑んでくれる奴、中々現れてくれないからな。お前、只者じゃないって感じだし、ワクワクしてる! これは本当に本心だ! ――ただ、一つ気になることがあってな。お前、俺たちの前に鎧を着た男に会わなかったか?」
「煩い」
男が低く呟いた。
言葉を発したこと自体意外だったが、それ以上に、彼の声音の無機質さに驚く。それは酷く冷たく、乾いた声だった。血の通った人間から発せられたとは思えない、問答無用で聞くものに畏怖の念を抱かせる――得体の知れない圧力を持った言葉。……まるで、首を切られた後もまな板の上で跳ねまわる鶏の首根っこを面倒くさそうに押さえつけた屠殺者のような、それは『殺す側』の呟きに聞こえた。
――ゴルザスさんの筋肉が一気に緊張するのが遠くからでも見えた。
こちらの様子に頓着することなく、男は続けた。
「わたしに問答は不要だ。勇者なら殺した。――拳闘士、魔法使い、次はお前たちを殺す」
実に淡々と、そう述べる。
いや、待って……今何て言った?
――勇者――殺した――次はお前たち――
…………え?
男の言葉を完全に理解できず、陰から身体を半分以上出して彼らの様子を伺ったまま固まってしまった僕の肩を背後に押し戻して、セイラさんが唸るように言う。
「……ザイアくんって、勘とか信じる?」
質問の意味を計りかねて、あまり陰から出ないようにしながらセイラさんの横顔を伺う。
いつも余裕で冗談が好きでおちゃらけた性格の――一度も底を見せたことのなかったセイラさんが、キッと目を見開き、冷汗を頬に流し、唇をギュッと噛みしめて……緊張した眼差しを男に向けていた。彼女の初めて見せるその顔に、僕は自分の認識の甘さを知る。
彼らはあの男を視界に収めた瞬間からその並々ならぬ気配を敏感に察知していた。――だが今、その認識さえ改めたのだ。
「あいつが何なのか情報が少なすぎて分からない。持ってる武器も、あの構えも、着ている服がどんな身分を表しているのかも、全部ちんぷんかんぷんだ……ただ、あたしの第六感がこう告げている――」
気持ちを落ち着かせるように、一度帽子の鍔をそっと抓んで、セイラさんは言った。
「――あれは危険だ」
言い終わった直後――『ポッ』という気の抜ける音が聴こえ、見れば――
――ゴルザスさんの左の肩から先が、吹き飛んでいた。
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