fool-01「星空のキオク」
澄んだ深紫の夜空に、白い満月が浮かんでいる。冷たく湿った夜の風が吹くと、月光に濡れた草原がさわさわ音を立てて揺れた。
時間は深夜。メルに連れられて、わたしは宿を取っている街の外の何もない平原を、空の両手をズボンのポケットに突っ込んだまま空を見ながら歩いていた。
羊毛の上着をシャツの上に着ただけでは、少し肌寒さを感じ始めた夜の冷気。二人きりで散歩がしたいと言われたから、後はベッドで横になるだけだった夜更けにこんな場所まで付いて来たが、メルはまだこの誘いの目的を明かしてくれていない。振り返ると、置いてきた街の光が、地平の一点に白く滲んでいた。随分遠くまで来たものだ。「――おい」わたしは前を歩く少女の背中に声を掛けた。
「どこまで行くつもりなんだ」
足は止めないまま、彼女は少しだけ振り返り、目深に被った頭巾の下から、翡翠の眼差しをそっとこちらに向けると、
「……あの街から、十分離れられるまでです」
まるで誰かに聞かれることを恐れているかのような小さな声で、素早くそう告げた。そしてまた、前を向いた。
「だったら、もう十二分に離れたはずだろう? そろそろ、こんな夜更けに散歩に誘われた理由が知りたいんだがな」
尋ねているのに、今度は彼女は振り向きもしない。試しに立ち止まってみたが、気付いても無視することに決めたのか、気付くほどの余裕すらないのか、やっぱりメルは止まってくれなかった。仕方なく大股で近付き、横に並ぶ。
「おい。どうしたんだ?」
メルは何も答えない。本当に妙だ。
横から顔を覗き込む。月明りしか頼るものがないからフードの下の表情はよく見えないが、引き結ばれた薄い唇と、向かう先を猫みたいにじっと睨む瞳から、緊張しているのが分かった。何故? そんな顔をしているのか。
「わたしを誘ったときは普通だったじゃないか。それが街を離れた途端急に無口になってさ。言っとくが、ここには今、わたしたち二人だけだぞ。周りを見てみろ。生えてるのは低い草ばかりで、隠れてるものといえばたまに鳴く虫くらいなものだ――まあ、お前にはずっとわたしたちを付け回す怖い顔した幽霊が見えているというのなら、話は別だがな」
「幽霊なんかじゃ、ありませんよ」
メルはポツリと言った。冗談への返しも変だ。こんなに素っ気ないメルは初めてだった。
わたしはまた空を仰いだ。真円の満月を、特に何の感動もなく見つめる。だけど話のネタが欲しかったから、「綺麗な月だな」と心にもないことを言った。「――ええ」メルが答え、それで話は終わってしまう。「でも、」そう思っていたら、彼女は更に言葉を重ねた。
小さく息を呑み、メルはしばし逡巡する気配を見せてから、
「あんなに月が明るいと、他の星が隠れてしまいますね」
それで、この話は終わりとでも言いたげだった――と言うか、終わりにしたい様子だった。ますます表情を固くして、うっかり喋り過ぎたことを後悔している風でさえあった。
だが、ここで会話を閉じてしまうには、彼女に放っておかれた時間がわたしにはいささか長すぎた。
「星が見えないと困るのか?」
彼女は横目でチラリとわたしを見上げて、すぐに前に視線を戻した。
「――別に」
そしてそんな短い答えを返した。
……こいつ、こんな頑なな奴だったか?
「何だ」
わたしも少しむきになる。
「別にって、もう少し話してくれたって良いじゃないか。誘ったのはお前なのに、どうしてそんなに素っ気ないんだ。わたしたちは一日の最後に、仲良しらしく、こんな外れまでぶらついて来たんだろう? だったら楽しくおしゃべりしなくては変だろう――なあ……もういい加減にだんまりは止せよ」
つい声が荒くなってしまった。あまりにも大人気ない。今のは言い過ぎだった。
少し心配になって、横目で隣の少女を見下ろした。
彼女もわたしを見上げていた。顔をこちらに向け、大きな瞳で、じっとわたしを見つめた。怯えている風でも、怒っている風でもなかった。光の届かないところに置かれた宝石みたいに、何も訴えない瞳が、夜の闇に濡れていた。
子どものとき、夜中にふと目が覚めた時、廊下の突き当りに据えられた電話台に飾られたサルのぬいぐるみの二つの黒いボタンの目が、昼間と違い、まるで死んだ動物のような生々しい妖しさを湛えてこちらを見つめていた記憶が、怖かった記憶が、唐突に思い出された。
――ゾッとした。
何だか瞳越しに頭の中まで覗かれるような気がして、わたしはサッと視線をそらし、また空を仰いだ。
「――ごめんなさい」
小さく謝る声は、横からじゃなかった。振り返ると、三歩くらい後ろで、メルはもう立ち止まっていた。
「どうしたんだ?」
自分も足を止めて、わたしは聞いた。謝られたことで、ますます訳が分からくなっていた。
「何だか、本当に様子が変だ」
メルは俯いている。
いっそ手を取って、無理矢理にでも街に引き返した方が良いのかもしれない。そう、半ば本気で思い始めたとき、メルはその両手を自分の耳の上にそっと差し入れ、土の中の蛹がたっぷり一日かけて古い皮から抜け出すような艶めかしく丁寧な所作で、ずっと被っていたフードをゆっくりと脱いだ。
冷たい風が吹いた。
フードの下に隠れていた、しっとり濡れたような輝きを放つ豊潤な漆黒の長い髪が、風に巻かれて、後ろに流れた。透けるように白い肌は、輪郭さえも儚げだった。彼女の唇は血のように紅かった。彼女の双眸は、それは、遠い、冷たい、眼差しだった。そして眩かった。長い睫毛に縁取られたグリーンの瞳は、まるで深い海の底から仰ぎ見る月のようにゆらゆらと揺らめいていた。穏やかな光を湛えていた。深い輝きに潤んでいた。
それらは、風が頬を撫でる一瞬間に、わたしの目を捕らえて、釘付けにした。
そこに、最前見た、見慣れぬモノクロの少女は消えていた。無彩色だった夜の世界が、突然麗らかな昼の輝きに満たされたようにさえ感じた。
そんな美しい光景を前にしているはずなのに、わたしの心は真っ暗な沼の底にずぶずぶと沈んでいくようだった。
呼吸が止まった。
瞬きさえままならなくなった。
唇が震えた。
どんな言葉を紡げば良いのか、分からなかった。
「――お前は、愚かだ」
ついに薄く開いた口から零れ出たのは、そんな言葉だった。冷たい怒気を孕んだ、我ながら、氷のナイフのように心無い台詞だった。本当は彼女に対して怒りも失望も感じていなかったのだ。哀しいまま、どこまでも哀しいままだったのだ。
――切なかったのかもしれない。
彼女に嘘を吐かれていたことが、ただただ切なかった。そして、そのことに気付いてやれなかった自分が、たまらなく惨めで、殺したいほど愚かだった。
残酷な言葉を浴びせられたというのに、彼女は取り乱さなかった。悲しい顔すら見せなかった。ただ、困ったように笑った。それは彼女のよくする表情だった。腹の立つことを言われたときも、悲しい報せを聞いたときも、普通の子どもらしくふざけているときでさえ、彼女は眉尻を下げ、優しい目をして、儚げに笑うのだ。ずっと見続けて来た顔だった。見慣れた仮面だった――だからこそ、焦った。自分がその仮面から、どんな気持ちも汲み取ってやれなかったのだという事実に、今更になって、戦慄した。
風は冷たい。明るい月が昇っている。星は見えない。
彼女の頭には、角が生えている。左右の耳の上、豊かな毛髪の隙間から、先の潰れた一対の突起がちょこんと覗いている。
メルは右手の人差し指の先で、その断面にうっすら浮かぶ輪の模様の一つをなぞってみせた。ざらざらとした灰白色の楕円の表面は、中心に向かうほど黒みを増し、極点で真っ黒になった。乾いた血の黒だった。生きた骨の断面だった。
彼女はそれを、自分で切ったのだ。わたしがその事実に思い至る頃に、彼女はもじもじと足をすり合わせ、身を小さくした。恥ずかしい秘密を知られてしまったかのように、頬を林檎のように紅潮させた。
わたしはそれを痛々しいと感じた。だからこそ、彼女のその愚かしさがたまらなくいじらしかった。
「本当はさっき」
メルは言った。
「初めて出会ったあの夜に、こんな寂しいのじゃない、沢山の星の輝きで彩られた星空を見上げて――宝石箱をひっくり返したような空、なんて素敵な台詞をあなたがぽつりと呟いたのを、ふと思い出したんです」
そして申し訳なさそうにわたしを見る。わたしは何も返してやれない。
「イディオは、覚えていませんよね?」
覚えていなかった。
わたしは懐から銃を抜いた。
読んでくださってありがとうございます。