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わがままな彼女

作者: 霜月准

 


 日曜日。僕は携帯電話の音で目を覚ました。

 無機質な着信音が一定のリズムで三回繰り返されて、音は止んだ。鳴った回数からしてメールのようだった。

 昔は電話やメールの着信音を相手によってわざわざ変えていたから、着信時に流れるメロディによって誰からの連絡なのか分かったものだったが、働き始めてからはそんな面倒くさいことをしなくなってしまった。そもそも学生のときのように、頻繁に誰かとメールや電話をする習慣がすっかり失われてしまっている。

 よってたまに連絡をくれる友人だろうが、仕事先だろうが、光熱費の督促の電話だろうが、携帯電話から発せられるのは「着信音1」というシンプルでありきたりな音だけだ。

 浅い眠りの中で鳴ったその携帯電話は、部屋の静寂を一時破った後も、チカチカと点滅している。薄暗い中で光るそれは、ひどく場違いなもののように思えた。

  寝起きの頭の中で、まだ眠っていたいという欲望が巡っているが、うつろな瞳に映る携帯電話が妙に気になってしまう。

 目を閉じたり開いたりしつつ、しばらく考えた。こんな時、大抵は眠気の方が勝って次に目を覚ますのが昼を過ぎた頃になるのだが、今日に限っては妙に頭が冴えてしまい、何度目を閉じても眠れる気がしない。

 しょうがないな、と僕は観念してベッドから上半身を起こした。

 本や財布や領収書が散乱しているテーブルの上で、未だにしつこく点滅している携帯電話を手に取った。

「今日は会いますか?」

 メールの文面はそれだけが書かれていた。

 差出人は綾音という女の子だ。今時の若い女の子であれば、そんな短い文一つでも絵文字なんかを使って可愛らしく飾るものだと思うけれど、僕が知りうる限りでは彼女がそんなものを使ったのは見たことがない。最低限のことしか書かず、必ずクエスチョンマークか句点で終わる。

「会いますか?」という文面からも想像がつくが、彼女は特に僕と会いたいという訳でもなく、会っても会わなくてもいいという気持ちなのだ。なぜわざわざ尋ねてくるのかといえば、さしずめ僕と彩音を引き合わせた張本人、百合の差し金に違いない。

 もし彩音が僕と会うことを楽しみにしているのであれば、「会えますか?」と書けばいいわけで、こんな書き方をするのは「そっちが会いたいのであれば、別に会ってもいいけれど」というニュアンスなのだと思う。

 全く、冗談じゃない。年下の女になめられてたまるか。

 ちなみに百合は僕の大学の同級生で、彩音は、百合が勤めている図書館に学生アルバイトで働いているといった関係だ。

 僕が頼んだ訳でもないのに、百合は紹介したい子がいると言って、半ば強制的に百合とその恋人で同じく大学の同級生の巧一のデートに付き合う形で僕と彩音は引き合わされた。

 彩音の第一印象は、目が大きくて、肌が白く、肘位までストンと伸びたストレートの黒髪をした、なかなかの美人といったところだ。

 男というものは美人にはやはり弱い訳で、当初僕は顔には出さなかったが、大学のときから付き合っていた彼女と別れて二年が経っていたし、まんざらでもないなと思っていた。

 しかし、彼女はたしかに美人ではあるけれど、華がないといった感じだ。服装は普段バイトでの仕事着といったようなジーンズに黒い無地のパーカー。話しかけてもぼそぼそと小さな声で、メールと同じく最低限のことしか口にしない。そして終止無表情で、こちらがどれだけにこやかに笑いかけても、その冷たい表情が崩れることはなかった。よく言えば図書館で働くことがよく似合っている。少なくとも茶髪の百合なんかよりはずっと落ち着きはあるし、物静かな図書館で働くことがとてもしっくりくる。ただ接客には向いていないだろうけれど、利用者が求める本を淡々と探したり、本の貸し出したりなんかに愛想は特に必要ないのだろう。

 しかし彼女に好意を持つかというと、そこまでは至らない。彼女は人を寄せ付けないような雰囲気があったし、年下らしい可愛げもなく、一緒にいて楽しいと思える時がなく、時間が経つのがものすごく長く感じられる。いくら可愛くても人形のような人間とずっと一緒にいて好意を抱くことなんてできない。そこは人間同士ある程度のコミュニケーションが成り立った上で好意というものは生まれるだろうと思う。

 例えば街で自分好みの可愛い子に一目惚れをして、いざ話しかけて突っ慳貪な対応をされたら、一目惚れして膨らんだ感情はたちまちしぼんでしまうというものだ。

 それから一ヶ月後、僕は二度と彼女に会うことはないつもりだったのだが、再び百合と巧一にうるさく言われ、今度は彩音と二人きりで会った。

 その時も彩音は最初と変わらずに、地味な格好で人形の表情に終始し、どこへ行きたいか、何を食べたいか聞いても、どこでもいい、何でもいいと曖昧な返事しかしない。

 結局適当にドライブをして、パスタ屋でランチを食べて、特に何をするでもなく淡々とした一日を過ごした。

 おいしいともまずいとも言わずに黙々とパスタをすすり、車に乗ってもうつろな目で車窓の景色を眺め、僕が話しかけたら短い返事を返す女の子。

 もしかしたら、そんな子でも付き合いたいと言う男は世の中には意外と多いかもしれないけれど、僕は今のところそんな風には思えない。

 第一彩音の方がちっとも楽しそうじゃない。おそらく彼女からしたら、職場の先輩にあたる百合からの紹介を無下にはできず、渋々四歳離れたつまらない社会人の相手をしているといった感じなのだろう。

 僕らの間には、楽しくて互いに会うというような感覚はなく、ただ義務的なものとして会っているというような感じが漂っている。

 そしてそれから今日まで約一ヶ月が経っているが、その間全く連絡を取り合うことはなかった。

 僕は携帯電話に表示されている簡素な文面をしばらく眺めて、テーブルの上のタバコを一本口にくわえた。

 部屋の中では吸わない。壁にヤニがつくと退去の際金がかかるので、ベランダで吸うように心がけている。雨の日や冬場なんかは部屋で吸ってしまおうかと気持ちが揺らぐが、今のところ約六年間その我慢は続いている。

 時計を見ると、午前九時二〇分。いつも休日に起きる時間より三時間は早い。

 ベランダに出ると、朝のひやりとする風が名残惜しく僕を撫で、高く昇りきっていない日差しがまぶしい。

 折りたたみ椅子に座って、タバコに火をつけた。

 白い煙の行方をぼんやり眺め、再び携帯電話を開いた。

「今日は会いますか?」

 何度も見返すほど長い文でもないくせに、僕はその短い文を睨みつけながら返信を考えた。

 前回会った時から約一ヶ月。そして僕らはまだ二回しか会っていない。

 今回も前回のように、この現状を見かねた百合達が絡んでいるのは十分ありえることだった。

 やれやれ、と思いながら僕は百合に電話をかけた。

「もしもおーし?」

 寝起きのような、気の抜けた声で百合は言った。

 僕は開口一番よけいなおせっかいはやめろと彼女に言った。

「はあ?何のことよ?」

「どうせまた、彩音ちゃんによけいなこと言ったんだろ。俺らが連絡取らないのは普通だし、これ以上俺も彼女と関わらなくていいと思っている。彼女の方も同じ思いだろうと言っているんだ」

 電話の向こうで百合のあくびと、隣にいるらしい巧一のどうした?と言っている声まで聞こえてくる。

「なんか総ちゃん勘違いしてる。私はあやちゃんに何も言ってないよ。こないだ総ちゃんとはどんな感じ?って聞いたりはしたけど」

「それみろ。そんな風に言って、どうせ彩音ちゃんに俺と連絡取るようにけしかけたんだろ」

「だから違うったら、もう」

 ふん、と百合は大きな息を吐きながら横にいる巧一に、僕が怒っているだのなんだの言っている。

「この際言っといてあげるけど、あやちゃんは結構あなたのこと気に入っているみたいよ」

「またそうやってデタラメ言って俺をけしかけようとするか」

「ちがうったら。もー頑固男」

 僕は多少イライラしていたし、百合の方も頭に血がのぼりはじめていた。その状況を察して、電話は巧一へと変わった。

「総ちゃんどうしたのさ。まず状況説明してくれ」

 巧一は冷静で穏やかに言った。僕は今日突然に彩音からきたメールについて伝えた。

「たしかに、百合はおせっかいだし、前科もあるけどさ、今回に関しては関与してないと思うよ。せっかくメールくれたんなら、会ってやればいいじゃん」

 巧一は優しい声で言った。そんな甘い声でこれまで多くの女を落としてきたことを僕は知っている。

 とりあえずこの二人は共謀であるから、巧一の言っていることも信憑性は薄いけれど、これ以上つっかかるのもめんどくさくなった僕は、考えてみるとだけ言って電話を切った。

「今日は会いますか?」

 二本目のタバコに火をつけ、携帯電話の画面を睨む。この文面から、彼女が僕に会いたがっているようには思えなかった。でもこれまで自分から僕にメールをしてこなかった彩音だ。これは意味のあることだろうか。

「そっちはどうしたい?」

 散々考えた返事は、結局何の変哲もない安易なものとなってしまった。こんな風に聞いたところで、彼女の返事は「どちらでもいい」となるのは目に見えていたけれど、そうきたらそうきた時で、こっちはどちらでもいいと言う奴に付き合うほど暇じゃないんだ、と自分で納得させて断ってしまおうと心に決めた。

 返事はタバコを吸い終える間もなくすぐにきた。

「私は、会いたいです」

 その意外な文面に僕は思わずどきりとした。

 どういう風の吹き回しだろうか。というか会いたいのなら、最初から「会えますか?」と聞けよと思いながら、僕はタバコを灰皿に押し当てた。

 やれやれ、日曜の朝からどうしてこんなに頭を悩まされなきゃならないのだろう。




 結局僕は、彩音と会う選択肢を選び、彼女のアパート近くのコンビニに車を停めて待機していた。

 中古で買った軽自動車は、馬力こそないが乗り心地はなかなかいい。基本的に乗るのは僕一人だし、仮に乗せる人がいたとしても、友人や会社の上司くらいなので四人乗りで事足りる。

 車内には文庫本が三冊、好きな曲をまとめたCDのケース、着替えの服、スニーカー、のど飴、カロリーメイト、寝袋なんかがある。  

 僕の車は移動できる部屋みたいなものだ。ちょっとした時間つぶしには不自由しないし、急に車中泊をすることになったとしても問題ない。

 文庫本の一冊を読みながら時間をつぶした。

 彩音はなぜ会いたいと言ったのだろうか。それはほんとに彼女の本心なのだろうか。

「あやちゃんは、結構あなたのこと気に入っているみたいよ」

 百合の言った言葉が頭をよぎる。これまで会った彩音の態度をみても、彼女が僕のことを気に入っているようにはとうてい思えない。彼女はよほどのあまのじゃくなのだろうか。

 考え事をしながら、推理小説を読むものではなかった。本の内容がちっとも頭に入ってこない。

 どうせつまらないデートになるのは目に見えているというのに、なぜ僕は彩音と会おうとするのか。もう会わなくてもいいなんて思いつつ、内心では彼女に少なからず興味もある部分もあるということなのだろう。

 なにしろ、無表情で無口で、今日で会うのが三度目となる彼女のことを、僕はまだほとんど知らない。もう少しだけ彼女のことを知ってみたいという小さな小さな好奇心があるといえば否定はできない。

 無口で無表情の彼女が本来の姿かもしれないけれど、彼女はまだどこか僕を警戒しているふしはあったし、僕に見せていない部分があるはずなのだ。誰にでも隠し事はあるし、他人に触れられたくない部分というものはもちろんあると思うのだけど、僕はなにもその心の中の深部にまで入り込みたいと思っている訳ではない。

 何重にも閉ざされている殻の表面だけでも、ほんの少しはがすことができればそれでいい。

 そうしたら彩音という人間のおおよその見通しが立てられる。

 彼女のことをもっと知っていって、やはりつまらない女で、自分とはウマが合わないという結果になることも当然ありえる。

 そうなったらなったで、その時会うのをやめればいい。そして、無駄な日々を過ごしてしまったなと一人ほくそ笑んだらいい。

 日々仕事に追われ、特に趣味もない今の僕は要するに退屈なのだ。

 今のこの時間が徒労に終わったとしても、退屈しのぎにはなるという軽い気持ちでいよう。

 三冊の文庫本の一つの詩集をパラパラとめくりながら、少し気分が晴れたような気がした。

 コンコンと車の窓を軽く叩く音がして、僕は本から顔を上げた。

 彩音の黒い瞳が僕を見ている。目配せで挨拶すると、彼女はドアを開けて入ってきた。

 最初、僕は彼女の人形のような顔にしか目がいかなかったが、彼女が車内に入ってくると、ほんのり甘い香りが漂った。

 これまで会ってきて、彩音が香水をつけてくることなんてなかった。

 彼女の変化は香水だけではない。ヒザ丈くらいのクリーム色のスカートに黒いハイソックス。上半身はストライプのシャツの上に、白いカーディガンを羽織っている。

 いかにも女子大生というような格好で、普通なら大して驚くこともないのだけれど、今まで見てきた彼女の服装から比べれば、明らかに見栄えがするし、お世辞抜きにその服は彼女にとてもよく似合っていた。

 僕はその格好に見とれているような形で、隣のシートに座る彼女を凝視していた。

「どうかしました?」

 さもいつもと変わらないといった様子で、彩音は無表情に言った。

「いや、今日はなんだかオシャレだから驚いた」

 僕がそう言うと、彼女は視線を落とし、自分がどのような服装をしているのか初めて確認するようにまじまじと眺めた。

「こういう服、嫌いですか?」

「とんでもない。そっちの方が、君によく似合っているし、俺は好きかな」

 彩音は、大きな目をじっと僕に向けて、一瞬だけ口元をむずむずと動かした。そして何も言わず、ピンと背筋を伸ばしてまっすぐに前を向いた。

 どういう心境の変化なのかは分からないけれど、今日の彩音はとても魅力的に見えた。

 服装一つで、印象はずいぶん変わるものだと改めて思う。

 これまで二回会った時の僕の反応がイマイチだったからイメージを変えてきたのか、はたまたこういう服装をしてきたのも百合が絡んでいるのか、その意図を推測してもキリがないが、今日は意外と楽しくなるかもしれないと期待が膨らんでくる。

「どこか行きたいところはある?」

 車をゆっくりと発進させて、僕は彩音に訊いた。いつもとは違う今日の彼女なら、何か言ってくるかもしれないと思ったが、彼女はうつむいたまま何も言わず、両手でカーディガンのすそをいじっている。

 あまり期待を抱き過ぎるのもよくないかと思い直し、あてもなく適当に車を走らせた。

「静かなところへ行きたい」

 とても小さな声で彩音が言うのが聞こえた。

「静かな所か、例えばどんな所だろう?」

 信号停車に合わせて僕が言うと、彼女は視線を上げた。

 鼻筋が伸びて、長いまつげに黒々としたガラス玉のような瞳、長くさらさらとした髪。 

 改めてみると彼女はとても綺麗だ。その横顔はまるで美術館に飾られた絵のように思わず見とれてしまう。

 後ろからクラクションを鳴らされ、青信号に気づいた僕は慌てて車を発進させた。

 彩音は車検シールのあたりを見たまま何も言わず、画家のモデルの姿勢を崩さなかったので、とりあえず山の方を目指していった。

 一人でたまに行く静かな高原地がある。段々畑や岩塩が所々にあるくらいで、特別珍しいものなんて何もないけれど、景色は悪くないし、普段は人もほとんど来ないから彼女のリクエストには十分応えられるだろう。

 山道へ入り、くねくねと曲がりくねった道を進んでいくと、彩音はうつむいて顔をしかめた。

「大丈夫?」

 僕が訊くと、彼女は小さくうなずいた。

「乗り物酔いしやすくて。大したことはないから気にしないでください」

 僕は少しだけ車の窓を開けた。すき間から五月の穏やかな風が入ってくる。

 目的の高原地に着いて車を停めても、彩音はうつむいたまま車から出ようとしない。

 僕はコンビニで買っておいた、未開封のミネラルウォーターのボトルを彼女に差し出した。彼女は遠慮がちにそれを受け取ると、少しだけ口をつけて小さく息を吐いた。

「外へ出てみよう。外の空気を吸ったら少しはマシだろうし」

 駐車場には僕以外の車は停まっていない。 

 車から出ると、そばの道路を通っていく車の音や鳥の鳴き声や風が木々の葉を揺らす音が聞こえるくらいで、ひっそりとした雰囲気があたりに広がっていた。

 反対側のドアが開き、弱々しく彩音が出てきた。

 彩音をそばにある東屋へ休ませようと思い、僕は黙って彼女の手を引いた。

 彼女は一瞬身体を硬直させたが、何も言わずに僕に手を引かれるまま歩き出した。

 小さく冷たい彼女の手を引き、ゆっくり慎重に歩きながら東屋を目指した。

 あまり強く手を引いてしまうと、腕がすぽっと外れてしまうのではないかと思うくらい、彼女の身体はもろく弱いように感じられた。

 たかが数十メートルの距離を移動するのに、ずいぶんと時間をかけて、ようやく彩音を座らせた。

 彩音はミネラルウォーターをまた少し飲んだが、ボトルの水はほとんど減っていない。

 僕はポケットからタバコを取り出して火をつけた。

 軽トラックがそばの道路をゆっくり通っていく。遠くから山鳥の甲高い声が聞こえてくる。

 ふと、彩音が僕を見ていることに気がついた。青白かった顔はいくらかよくなったように見える。

「どうかした?タバコが嫌だったらすぐに消すけど」

 彩音は首を左右にゆっくりと振った。その動きに合わせて、彼女のまっすぐで柔らかな黒髪が波打つように揺れる。

 その後も、彼女は僕から視線を外さなかった。時折口元がわずかに動くが、その口が開くことはない。彼女は何かを言おうとしているのかなと思って、僕は彼女から視線を外し、タバコをふかせながらながら、遠くの山々を眺めた。

「総一さんは、私といて楽しいですか?」

 根気よく待って、彩音の口からその言葉が発せられるまでずいぶんとかかった。その言葉は、静かな高原の風に乗って、はっきりと僕の耳に届いた。

 僕は、うーんと唸って、二本目のタバコに火をつけた。

「ここ数年女の子と出歩くことはなかったし、まあまあ楽しいかな」

「嘘つかないでください」

 彩音はナイフのように鋭い視線を僕に刺した。数年女の子とデートをしていないというのは本当だったが、どうやら彼女に気を使って嘘はつかない方がいいみたいだ。

「ごめん。じゃあ正直に言うけど、楽しいか楽しくはないかの二択なら、楽しくはないと思う」

 彼女の目が正直に言えと訴えていたから、僕は飾り気のない本音を言った。

 彩音は、ショックを受けるでも悲しむでもなく、表情のない顔で僕を見ていた。やる気のない学生がつまらない講義を黙って訊いている顔のようだ。いやその学生の方が退屈さを全面に出していてまだ表情がある方かもしれない。

「逆に訊くけど、そっちは俺といて楽しいと思うかい?」

 ぶっきらぼうに言いながら、僕はタバコの煙を空に向かって吐き出した。

「割と楽しいです」

 彩音はまっすぐに僕を見たまま、はっきりと答えた。

 意外な返答に、僕はくわえていたタバコを落としそうになった。

「そっちこそ、嘘をつくなよ」

「嘘じゃありません」

 雲の間から日が差して、彩音の瞳がきらりと光った。

「総一さんが楽しくないと思っているのは、私が予想した通りだった。でも、つまらなそうな割には、私に付き合ってくれるし、何かと気を使ってくれている。あなたを見ているのは、退屈しない」

 彩音はそう言うと、ずっと崩さなかった表情をにわかに緩めた。

 その微笑みは、僕にとってまさに不意打ちだった。彼女がそんな柔和な顔をすることができるとは思ってもみなかったし、あまりに自然で美しい微笑みは、それまでの彼女に対する負のイメージをすべて払拭してしまうほど、完全に僕はその微笑にやられてしまった。

 これを意図的にしてきたのだとすれば、なかなか侮れない子だ。

 僕が気の抜けた顔で見つめていると、彩音はまた元の無表情に戻り、遠くで走る車の行方を追っていた。

 高原の冷たく澄んだ風が彼女の髪を揺らす。髪が舞い上がり、彼女の細いうなじが見えた。長いまつげが時折瞬きをして、視線を空や遠くの山々へと動いていき、再び僕の方へと戻った。

「私といても楽しくないんでしょ?あまりじろじろ見ないでください」

 彩音は言った。表情はないけれど、その顔は先ほどまでとは少し違う。その声もわずかだが親しさが含まれているような気がした。

「楽しくはなくても、君の顔を見ていると退屈はしない」

「退屈しないということは、少しは楽しんでいるということですか?」

「そうかもね、だんだん楽しくなってきた」

 彩音は再び微笑んだ。表情の出し方が分からなかったアンドロイドが、ようやく微笑むことを覚え、その使い方が分かってきたという感じだった。

 何度見ても、彼女の微笑は見とれてしまう。その微笑は綺麗というより可愛らしく、微笑んだとたんに大人の表情がふいに幼くなっていく。

 彼女が微笑むたびに僕の心が大きく波打つのが感じられた。こんな感覚は久しく忘れていた。

 四つも年下の子に、翻弄されてしまっている自分が情けない。

「なんとなく、百合さんが総一さんのことを紹介してくれたのも分かる気がする」

「百合になんて言われたの?」

「それは、秘密です」

 彩音は、人差し指をそっと口元にあてた。

「俺は、未だに君のことはよく分からないな」

 僕はため息を吐くように言った。

 彩音は目を少しだけ大きくして、クスクスと笑った。

「正直、最初は総一さんのこと警戒してました。私って人見知りな上、警戒心が強いんです」

「そっか、彩音さんモテそうだもんな」

 からかうように僕が言うと、彩音は眉を寄せて首を傾げた。

「モテるというか、時々男の人にじろじろ見られたり、声をかけられたりすることはあります。知らない人からそうされるのホント嫌だから、なるべく地味におとなしくしてるようにしてるんです。無口なのは元々の性格だけど」

 それはモテるということじゃないかと思ったけれど、そのことは触れずに僕はただうなずいた。

「彩音さんが綺麗だからんね、俺も男だしなんとなくそれは分かる。俺も君のことじろじろ見てしまうのは悪かったかな」

「最初は正直嫌だったけれど、今はもう総一さんならいいです。あんまりじろじろ見られると、少し恥ずかしいですが」

「それは、少しは俺に気を許してくれたと思っていいのかな?」

 彩音は僕の顔をじっと見た。その瞳は高原の澄んだ空気に研ぎすまされ、太陽の温かな光を映し出していた。

 彼女は僕の質問には答えず、ボトルの水を一口飲んで深呼吸した。

「せっかく来たんだし、少し歩きましょ」

 彼女に促され、僕らは歩いた。

 今日一日で、僕は思いのほか彩音のことを気に入ってしまっていた。最初は無口で愛想もないし、会うのが億劫にすら感じていたというのに。

 きっと長い間女の子と出かけるようなことがなかったから、自分の中で女に対する免疫のようなものがなくなってしまっているのもあるのだと思う。

 そして今日彩音が初めて見せた微笑みに僕はすっかり惹かれてしまったし、無口だけれど今日みたいにある程度会話が成り立つのであれば、彼女が無口な所も、自分の中では心地がよいということに気がついた。

 思えば、今まで付き合ってきた女の子は、皆一貫しておしゃべりな子ばかりだった。学校であったことだの、新しい料理に挑戦しただの、女子会をしただの、髪を切ろうか悩んでいるだの、バイトの先輩が嫌な奴だの、僕にとってはどうでもいいような情報をあれこれと持ってきて、ぶちまけてくる。

 僕自身口数が少ないのも手伝って、彼女たちは遠慮がなかった。女というものは皆おしゃべりなもので、結局文句を言わずに黙って何でも聞いてくれる相手を求めているのだとさえ思っていた。

 それでも関係が続いていけば、ただ話を訊くだけではもの足りず、アドバイスだの同意だのを求めてくる。

 そこで上手な返しが出来ないと彼女たちは落胆し、最終的にはどの女の子も僕のもとを離れていった。きっと今頃彼女たちは、今頃新たに話を聞いてくれるパートナーを見つけていることだろう。

 僕は彩音の手を握った。彼女の手は真冬の空にさらされたように冷たい。

 彩音はちらりと僕を見たが、すぐに前を向き、僕の手をしっかりと握り返した。

 伸び放題の草地をかき分けて、鳥のさえずりを耳にしながら、僕らは黙々と歩き続けた。

 遠くの方で誰かが耕した畑があり、まだ何も生えた様子のない赤茶色の土が均一の間隔で広がっている。

 木々のざわめきは静けさをより一層引き出しているように思えた。

 僕と彩音の足音が、ざくざくと聞こえてくる。

「静かでいい所。私は好き」

 真剣な顔で前を向いたまま彩音は言った。

「言っておきますけど、私ってわがままですから」

 えっ、と僕が訊き返すと、彼女は僕を見て微笑んだ。

「どんな風にわがままなの?」

 僕が訊いても、彩音は微笑んだまま、ゆっくりと首を左右へ傾げてみせた。

 それはこれから、自分で見つけてみて下さい、と彼女は言っているようだった。




「そろそろ、百合と籍を入れようかと思ってる」

 居酒屋で最初のビールを飲んだ後、巧一は申し合わせたように言った。 

 僕は大して驚くでもなく、ふうんとだけ言って付け合わせの枝豆を口へ入れた。

「反応薄いなあ。もっと何かこう言いたいことはないの?」

 巧一はわざとらしくがっくりと肩を落とした。

 たしかに、学生の頃は女の子を取っ替え引っ替えで、恋愛をゲームとして楽しんでいると言ってのけた彼が身を固めるというのは意外だとは思う。

 しかし、僕らはもう二十四で巧一と百合が付き合って三年にはなるし、百合自身結婚願望が強いことは目に見えていたから、百合の内に秘めた思いに巧一が押し倒されたのだと思えば、それも自然のことのように感じられた。

「とりあえず、おめでとう」

 僕はビールを軽く掲げて言った。

「まあ、今すぐという訳でもないけどね。結婚費用貯めないといけないし、両親に挨拶もまだだし。ていうかプロポーズもまだしてないし、指輪すらまだ買ってないからな」

「なんだ全然進んでねーじゃん」

 僕が呆れて言うと、巧一は苦笑しながらビールを飲み干した。

「全部まだまだこれからなんだけど、結婚するなら百合しかいないなと思ってさ。アイツを嫁にするということようやく心に決めたという感じ。俺はまだ気楽な独身でいたいけどさ、百合はそんなに長く待ってはくれないだろうし」

 巧一は、自分で言っている言葉に浸っているような顔をして、枝豆を手に取ってまじまじと眺めていた。

 店員が焼き鳥の盛り合わせを持ってきて、その際僕らはビールの追加注文をした。

「総ちゃんが気楽でうらやましいよ。彩音ちゃんはまだ学生だし、当分は結婚なんて考えなくていいんだから」

 僕が豚バラにかぶりついている時に、巧一がそんなことを言うもんだから、大きな肉の塊をそのまま飲み込んでしまいそうになった。

「ちょっと待て、何でそんな話になる。だいたい彩音とはまだ恋人でもない」

「あれ?そうなの?」

 目をまん丸くして、巧一は言った。

 店員が、唐揚げと追加のビールを持ってきた。

「でも、まだと言うのなら総ちゃんもまんざら恋人になってもいいとは思っているんだろ?」 

 巧一が怪しい光を帯びた目でニヤリと笑みを浮かべ、僕はごまかすようにビールを勢いよく飲んだ。

 顔が火照るのはアルコールのせいだけではないことは自分でも分かっていた。

「最近どうなの?まだ継続して会っているんでしょ?」 

 巧一の結婚話が今回の話題の中心になると思っていたのに、話はすっかり方向転換されてしまった。いや、奴のことだから今回こうして男二人の飲みに誘ってきたのも、僕と彩音の今後について訊くというのがメインだったに違いない。

 結婚の話は、既に奴の中では決心が固まっていて、今更悩んでいて僕に相談をするというような段階のものではなくただの報告。その前振りを餌にして、僕が油断していた所で僕らの近況を伺おうという心積もりだろう。もちろんその背後には、彼の婚約者となる百合が聞き耳を立てているのだ。

 彼の術中に陥るのは不覚だったが、酒もいくらか回り始めていたし、ごまかすのも面倒くさいので、最近の出来事を話すことにした。

 別に巧一達に隠すつもりもなかったし、彼らが人の恋路を訊きたがるのは今に始まったことではない。

 それに誰かに相談をするというのは、よくも悪くも、先へ進んでいくきっかけにはなる。

 今の僕と彩音は最初に比べればだいぶ打ち解けたけれど、そこから停滞線をずっとたどっている。

 むしろ僕は、巧一と百合に相談をしたいという気持ちがないこともなかった。かといって、こちらから相談を持ちかける気にはなれなかった。

 我ながら面倒くさい奴だと思う。そしてそんな性格の僕を巧一は知っているから、きっとこうしておせっかいを焼いてくれるのだと思う。面白半分の所もあるだろうけれど。

 唐揚げをつまんで、それを残りのビールで流し込み、しょうがないなともったいぶって僕は話し始めた。

 三度目のデート以降も、僕と彩音は頻繁にではないが、継続的に会うようにはなっていた。

 彩音は、地味なパーカー姿になることはなく、それなりにオシャレでセンスがよく、彼女の魅力が十分引き立つような服装で来るようになった。

 彼女は派手な格好をしないけれど、道を歩いていて男からの視線を向けられることが度々あった。男というものは可愛い子がいれば、自然と視線が向いてしまうものだということを改めて思った。そして視線を向けられる側は、なんとなく恥ずかしく、あまりいい気持ちがしないということも分かった。中には視線を浴びることが快感な人もいるだろうけれど。もちろん彩音にとっては男の視線は快感ではなく、不快そのものといったように顔をしかめてうつむいてしまう。

 彩音が無口な所は基本的に変わりはない。それが彼女の性格なのだろうし、その人格を否定する気は毛頭ない。

 今まで付き合ってきたおしゃべりな女の子達と違ってそれはある意味新鮮であり、相手の話に耳を傾けることに神経を使う必要もなく、沈黙に気まずさを感じることもなくなっていった。

 必要以上に話すことも、聞く必要もないということはとても楽なことだった。

 彩音は、僕の予想以上に相性がいいように感じられた。

 僕が時折話しかけたり、つまらない冗談を気まぐれで言ったりしても、彼女は何らかの反応を示してくれるし、時には笑みを返す。 

 その稀に見せる笑顔が、僕は特に気に入っている。いつも笑顔じゃないのがまたいい。

 無表情な顔がふと崩れる瞬間、不意に彼女は人間らしさを取り戻す。

 最近気がついたことだが、彩音は歯並びが少し悪い。二本の前歯が少し長くて、両端にはとがった八重歯がある。

 それほど気になるものでもないし、第一彼女は口を開くことが少ないのだから、彼女の歯並びなんてまず注意して見ることなんてない。

 でも、そんな小さな発見が僕はとても嬉しかった。人形のようだと思っていた彩音の人間らしさを発見することは嬉しかった。

 彼女の人間らしさは、そのまま彼女の魅力へとつながる。彼女の小さな一面を発見する度に、より一層可愛らしいと思えて、好きだなと思えるようになっていった。




「いいなあ。なんだかんだ言いつつ、総ちゃんすっかりあやねちゃんにハマってるじゃん。ったくノロケやがって」

 もはや何杯目か分からなくなったくらい、僕らはビールを飲み、すっかり出来上がってしまった巧一は、大きな声で僕をからかった。

「でもさあ、すっかり仲良くなっているというのに、未だに恋人じゃないというのは解せない。本当はもう付き合っているんだろ?」

 僕は曖昧な感じで首をかしげてみせると、巧一は、この奥手野郎が!と言って僕を小突いた。

「正直どこまでいってるの?実はもうやっちゃってるとかないよな?」

 酔っぱらった巧一の絡みはめんどくさい。僕はきまり悪く、かといって嘘をつく訳でもなく、まだ手をつないだくらいでキスすらしていないと酔っぱらいに告げた。

「全く、初恋の中学生かよ。二十四にもなったおっさんが聞いて呆れるわ」

 僕が白状したことは、この酔っぱらいには火に油だったが、半分聞き流して追加のビールと冷奴を注文した。

 巧一が言うことはもっともだし、僕が反論する余地はない。今まで好きだと思った女の子とは、数回デートを重ねて付き合おうと言えばすんなりと恋人になれたし、雰囲気に任せてキスをして、その先へいくことだって容易だったというのに。

 僕は本当に恋愛の仕方を忘れてしまったのかもしれない。今の僕の奥手さは今時の中学生にすら劣るだろう。

 僕は自分で思っている以上に彩音のことを好きになっているし、一緒にいて心地がいいと感じている。

 それなのに、今一歩が踏み込めないでいるのは、彼女がまだ学生だというのもあるかもしれない。

 今まで年齢差なんて大して気にしていなかったけれど、自分が社会人になってから、相手が学生だと言うのは年齢以上の壁に感じてしまう。

 彩音はまだ二十歳で華の大学生。毎日が変化の連続でそれなりに充実しているであろう彼女に比べ、僕は特に大きな変化もなく、大して面白みのない仕事を毎日こなしている。

 こうしてみると、一体今の自分のどこに魅力があるというのだろう。

 世の中では同年代でもバリバリ働いて輝いているサラリーマンだって大勢いる。僕はそんな連中とは違うし、出世願望もやる気もなく、与えられた仕事を淡々とこなしていくつまらない男だ。

 彩音は美人だし、様々な人間の行き交う大学で、気の合う男に出会う機会なんていくらでもあるはずなのだ。

 自分が悲観的になってしまっているのは分かっているし、そうなることが何のプラスにもならないし、前向きに考えなければいけないということも頭では理解している。

 でも彩音と一緒にいても、彼女が僕のことを好きなのか、僕と恋人になってもいいと思っているのかを確信することはできなくて、後ろ向きな考えがふつふつと現れて僕の心を覆い始めるのだ。

 彩音は本当に僕と会いたいと思っているのか、ただの義務的な思いで会っているのではないのか、仮に会うこと自体が嫌じゃなかったとしてもただの友だちとしての感覚なのではないのか。

 どうしてこんなにも自信が持てなくなってしまっているのか、自分でも嫌気がさしてしまう。

 結局、彩音が無口で無表情であるのが、彼女の魅力と捉えることができた反面、彼女自身の気持ちがどうなのかを知る手立ては極端に少ないことも意味していた。

「あーあ。一日だけでも総ちゃんと身体入れ替われたらな。俺だったら一日あればお泊まりコースまでいくのにさ」

 巧一は天井を見上げて切実に言った。細長く伸びた彼の首筋が、百合は好きだといつか言っていたのを思い出した。

 V字型のシャツは巧一の鎖骨から首をきれいに露出させている。

 男の首筋なんて注意して見ることなんてまずないのだけれど、なるほど確かに彼の首筋は白くて青白い血管がわずかに浮き出て、彫刻のようにすっきりとしたきれいなラインをしている。

「まあ、彩音は男と付き合った回数も少ないだろうし、こっちが下手にがっつく感じもよくないかなと思ってさ。焦らずに進んでいくつもりだよ」

 僕が言い訳がましくそう言うと、巧一は天井へ向けていた視線を僕へと戻し、鋭い眼光で僕を睨みつけた。

「男と付き合った回数少ないって、それ本人に確かめたのか?」

 低い声で巧一は言った。僕が首を振ると、彼はテーブルに置かれた僕のタバコを一本抜き取って火をつけた。禁煙は三日しか続かなかったようだ。

「ああいうおとなしそうな子に限って、男の経験多かったりするんだぜ。しかも彼女可愛いしさ。身近な男達はほっとかないだろう。男が苦手って言うのも、今まで多くの男と付き合ってあんまりいい経験しなかったからうんざりしているとも考えられるんじゃないかな」

 巧一の読みも一理あった。無口でおとなしい子が好きだと言う男は多い。街で歩いていると彼女を見る男が多いように、彼女は女としての魅力を十分に持っている。声をかけてくる男だってきっと多いに違いない。

 今僕らの関係は悪くはないと思う。少なくとも今の僕は彼女に嫌われてはいないだろう。

 ただ彼女から今誰とも付き合いたくはないと言われたらそれまでだし、あるいはふと彼女が大学の同級生と付き合うことになりましたと言われても、恋人でもない僕はそれにとやかく言う権利はない。

「マイペースにっていうのもいいけどさ、あんまりゆっくり構えていると、ふらーと彼女はどっかいっちまうよ。今のうちにしっかり捕まえとかないと」

 巧一は寝ぼけたような顔でぷかあとタバコの煙を吐き、その行方を目で追っていた。

 僕は崩れた冷奴を食べ、三分の一ほど残ったビールを飲み干して、よしと一声出して彩音にメールを打った。

「今から少しでも会えないかな?」

 メールを送信して、僕はタバコを吸った。

「思い立ったら即行動。いいねえ、ようやく学生の頃の総ちゃんに戻ってきたじゃん」

 ニヤニヤした顔で巧一はグラスを掲げた。

「学生の頃でも、俺はお前ほど手は早くなかったわ」

 僕が反論すると、彼は首をすくめてみせた。




 彩音の返信は即座に来た。

 相変わらず絵文字のない文章で、「何で?」と彼女は言ってきた。いつだったか忘れたが、いつの間にか彼女は僕に対して敬語は使わなくなった。

 僕は「理由がないと会っちゃいけない?ただ会いたいなと思って」と送信すると、三十分ほど経った後、

「分かった。でもお風呂に入っちゃったので、オシャレはしていきませんから」

 と返ってきた。

 巧一と割り勘でタクシーへ乗り、先に巧一のアパートへ降りた後、いつも彩音と待ち合わせをするコンビニまで行こうとしたのだが、夜中の割り増し料金は、普段タクシーに乗らない僕には予想以上に高く感じられ、どんどんと上がっていくメーターに耐えきれなくなりやむなく途中で降りて歩いた。

 そもそも、今月ピンチなんだと言って八百円しかタクシー代を出さなかった巧一も悪い。

 コンビニへ着くと、店内には既に彩音の姿があった。

 ジーンズとパーカー姿は最初に会った時と同じ格好で、今日はさらにフレームのやたら大きい茶色の眼鏡をかけていたから、より一層地味に見えた。

「ごめんね、急に呼び出して」

 僕が声をかけると、彩音は眼鏡越しの目をぎょろりと向けて、黙って雑誌を棚に戻した。

 その雑誌が「月刊盆栽」というものだったので、若いのに渋いチョイスだなと軽く驚いた。

「盆栽好きなの?」

 僕が訊くと、彼女は首を振った。揺れる髪は、洗ったばかりのシャンプーの香りがした。

「何か欲しいものある?買ってあげる」

 突然呼び出したお詫びの気持ちでそう言うと、彩音はてくてく店内を歩いてポッキーを一箱持ってきた。

 まるで小さな子供が親と一緒に買い物に行ったときのシュチュエーションに似ている。黙ってポッキーを持ってくる彼女も可愛らしい。

 タバコとミネラルウォーターとポッキーを買って、僕らはコンビニを出た。

 彩音は両手でポッキーの箱を大切そうに包みながら歩き、僕はガブガブと水を飲みながら歩いた。

 彼女は相変わらず何も言わなくて、僕もそんな彼女にすっかり慣れてしまっていたので特に気を使って話しかけることもなく、沈黙の中を僕らは歩き続けた。

 特にどこへ行こうというあてもなく、酔った勢いで彩音を呼び出してしまったので、僕は歩きながらどこか落ち着ける場所はないかと探していた。

 しかし、この近くに遅くまでやっているファミレスも居酒屋もなく、ぽつぽつと街灯の明かりがあるだけだった。

 こんな状態で彩音に呆れられてしまったらと思うと、自然と歩調が速くなる。

 思い切って彼女を僕の部屋へ誘おうかとも考えたが、まだ付き合ってもいないのに、それは早急過ぎる気がするし、ここ二、三日掃除もろくにしていない。

 元々物事に反発するのが苦手な僕は、常に受け身になることばかりで、積極性というものがない。

 会社でも上司や規則に逆らうことなく、従順でいることで勤勉であるとか真面目だとかいう評価はされている。退屈な仕事だが、生活していくのに不自由することはないだけの給料はもらえるし、まあまあ満足はしている。

 ただ積極性がないので、それがある意味出世にもつながらず、自分のもとを離れていった女の子の満足も得られなかったというのにもつながっているのかもしれない。

 再びうつむいた感情がにじみ出てきた。その感情を払拭するように、僕はミネラルウォーターを一気にのどへ流し込んだ。

 不意に、彩音が僕の腕をぐいと引いた。一瞬驚いて振り向くと、彼女は口を真一文字にして眉を寄せている。

「疲れた」

 不機嫌な声で彩音はそう言うと、右方向を指差した。彼女の示す方向には、ぼやけた街灯に照らされた小さな公園があった。

「ごめんごめん。少し休もう」

 誰もいない公園は静寂そのもので、何カ所かある街灯の光がより寂しさを強調させていた。

 ペンキが所々剥げている木製の古いベンチに腰をおろすと、彩音は小さな口から深々と息を吐いた。

 彼女が怒るのも無理はなかった。風呂に入ってくつろいでいるところを急に呼び出され、どこへ行くでもなく歩き回るだけでは当然だ。

 でも、いつもは彩音のペースに僕が合わせることが多く、今日は逆に僕のペースに彼女が振り回されていて少し面白い。それに、最近はこうして機嫌が悪い時は、顔に出るようになったのも僕には嬉しいことだった。

「すまない、ちょっと考え事を色々としていたもので」

 僕が謝ると、彩音は僕をちらりと見て再びため息を吐いた。そしてポッキーの箱を開けて食べ始めた。

 静かな公園で、彩音がポッキーを食べる音だけが響き渡る。小さな口で、ぽりぽりとポッキーを食べる彼女は、小動物のようで可愛らしい。

 手持ち無沙汰な僕はタバコを吸った。

 すると彩音は、僕の真似をするようにポッキーをタバコのように指に挟んで持った。

 僕がタバコを口にくわえると、彼女もポッキーを口にくわえた。笑いもせず、茶化す様子でもなく、黒い瞳をまっすぐ僕に向けている。

 僕の真似に飽きた彼女は、口の先に伸びたポッキーを空へ向け、夜空を眺めた。

 彩音は何も言わない。どうして急に呼び出したのかとか、僕が何をしたいのかとか、何か訊いてくれた方が僕も口を開きやすいのだけれど、彼女は黙って星の出ていない暗い空を眺めていた。

 おそらく彩音は僕が何か言うのを待っているのかもしれない。僕がこうして彼女を呼び出すことなんて今までなかったし、メールで言ったように僕がただ会いたくて呼んだとは思っていないはずだ。

 だから僕が何か言わなければ、この先は何も進まない。

 僕は何と切り出してよいのか、酒に酔って鈍くなった頭で思考を巡らせた。

「俺のことどう思っている?」

 なんて訊くのはどうもしっくりこない。

「俺達の関係ってまだはっきりしていないし、そろそろちゃんと付き合おうか」

 これもなんか違う。そもそも、そんなただの口約束みたいなことが今の僕らに必要なのだろうか。

 付き合おうと言って、いいよと言われたら、恋人になったということで安心感は得ることが出来るだろう。

 でもそれではただ自分が安心したいから、付き合おうと言ってしまうのかということになる。そんな風に一時の安心感を得た所で、そんなに長く経たずに恋人という関係は終わってしまうのではないか。

 かといって、言葉で言わなくともお互いが通じ合っているとも言い切れる自信もない。

 なんだか頭が痛くなってくる。

 ここはシンプルに好きだよと言ってしまうのが一番なのかもしれない。

 夜空を見上げると、曇り空のすき間から、ほんの少しだけ月が見える。その小さな月の光は、くっきりと白く強烈な存在感があった。

 彩音はポリポリとポッキーを食べながら、その小さな月を見ていた。月に照らされた彼女の横顔はほんのり白く、小さくて美しかった。

 月が再び雲に隠れてしまうと、彩音はベンチから腰を上げ、歩き出した。

 その先には、がらんと寂しくぶら下がったブランコがある。彼女はそのまま静かにブランコに座った。

「総一さん、後ろから押して」

 いつもよりも大きな声で、彩音は言った。

 彼女の声が、静寂に覆われた夜の公園で響き渡った。

 小さな子供のように、彩音は両手でブランコの鎖をしっかりと握り、両足をぶらぶらと動かしている。

 僕は彼女の背後から、その背中を軽く押した。

 それほど力を入れてはいなかったが、彩音の身体は鎖のきしんだ音と共にふわりと前方へ動いた。

 僕のもとに戻ってきた彼女の背中を、今度はもう少し力を入れて押した。

 彩音の身体は小さく儚げで、軽々と僕の力に押されて動いていく。

 彩音は、笑ったり声を出したりすることはなく、黙ってブランコに揺られていた。

「もういい、とめて」

 三十回ほどブランコを揺らした後、彩音がそう言ったので、僕は慌てて彼女の両肩を掴んだ。勢いの残ったブランコが僕の足にぶつかって、少し痛い。

「ありがとう。ブランコを誰かに押してもらったことって初めてだった」

 ぽつりと彼女は言って、空を見上げた。さきほど月が出ていたあたりは厚い雲に覆われていて月が出てくる気配はない。

「彩音のことが好きになった」

 彼女の細い肩を掴んだまま、僕は言った。

 僕がそう言った後、彼女は何も言わず身体をびくりとわずかに動かし硬直してしまっていた。両手は鎖をしっかりと握りしめている。

 彩音の沈黙はとても長く、僕はその間不安が幾重にもよぎり、鼓動がばくばくと動いていた。

 彩音はうつむいた顔を時折あげたり、またうつむいたり、ちらりと横を向いたりしている。

 彼女の背後にいる僕には、彼女がどんな表情をしているかは分からなかった。

 ただシャンプーの香りがする髪が、彼女の動きに合わせて柔らかく揺れていた。




 彩音の部屋はごく普通の六畳ワンルームで、パイプのベッドと小さな本棚、ひとり用のこたつくらいしか目に付くものはなく、テレビもアイドルやミュージシャンのポスターも、ぬいぐるみもない質素で寂しい部屋だった。

 台所にはひとり用の小さな冷蔵庫があって、流し台には洗われていない食器が散乱していることなく、きれいに片付いている。

 僕はこたつに身を沈め、浴室から聞こえるシャワーの音に耳を傾けていた。

 秋も終わりに近づいてきたこの時期、さすがに長時間夜空のもとにいると身体が冷える。  

 こたつの暖かさが足下からじんわりと伝わってきて心地がいい。

 彩音は、僕の告白には何も触れず、湯冷めしてきたから帰ると言った。

 僕はやはり告白は早まったことだったと後悔して、彼女をアパートまで送ってからそのまま自分も帰ろうとしたが、彼女は僕の手をぐいと引いて部屋へ入れた。

 そして彩音がシャワーを浴びていて、僕は黙ってこたつの中にいるという状況だ。

 これは彩音が僕の告白に応えたと思っていいのだろうか。一人暮らしの部屋に呼ばれ、彼女はシャワーを浴びている。

 普通に考えたら、この状況は期待を持っていいのだろうけれど、彩音の態度はそんな期待など微塵も感じさせなかった。

 おそらく身体が冷えたけれど、近くに暖をとれる場所もないし、仕方ないからウチへ来なさいという意図だと思う。僕をわざわざ部屋へ連れてきたのも、僕の告白の返事を保留にはしないということなのだろう。

 しかし告白をしてきた男を部屋へ連れてきて、シャワーを浴びるというのはあまりに無防備だと思う。

 僕が突然浴室に入って、裸の彼女を抱きしめても文句は言えないだろう。

 でも僕はそうしなくて、おとなしくこたつから動かなかった。

 浴室に入ってやろうかと何度も考えたし、もしかしたら彩音だってそれを望んでいるかもしれないとも思ったけれど、こたつに入ってゆっくりしてて、と言った彼女の顔を思い浮かべると僕はおとなしく待っているしか出来なかった。

 彩音は怒っている訳でもなく、いつものような無表情でもなく、口元をぎこちなく笑わせて、目は赤くなってわずかに潤んでいた。

 あんな顔で見られたら、なんだか金縛りにあってしまったように、こたつから出ることなんて出来なかった。

 こたつ布団は、何かの模様と思ったら、よく見ると様々な仕草をした猫のイラストがプリントされている。

 テーブルの上にはみかんはなく、大学のレポートらしきものが置いてあった。

 小ぶりだがとてもきれいな字を彩音は書く。

 文章も文献を基に筋の通った内容であるから、大学での成績はきっと優秀なのだろう。

  程なくして、バスタオルを首にかけたジャージ姿の彩音が戻ってきた。彼女は僕の隣に腰を下ろし、眼鏡をテーブルに置いて、ふうと息をひとつ吐いて僕を見た。

 彼女の目は涙の跡が消え、黒々とした瞳が蛍光灯に照らされて光っていた。

「ごめんね。ブランコに乗った時、なんか急に涙が出てきた」

 彩音は微笑んだ。

「じゃあ、俺が言ったこと聞いていなかった?」

 僕が慌てて言うと、彼女は首を振った。

「聞いてない訳ないでしょ。ありがとう」

 彩音は目を細めて、優しい声で言った。そのまま、まるで電池が切れてしまったかのように、彼女は身体の力を抜いて僕にもたれかかってきた。

 こんな積極的なことをしてくる子じゃないと思っていたので驚いたが、驚きつつもその細い身体を僕は両手で包み込んだ。

 彩音の黒く長い髪はまだ湿っていて、お湯で温まった身体は小さく湯気を立てている。彼女の呼吸が身体の動きで腕に伝わってくる。僕の鼓動は高鳴り、それが彼女にも伝わっているかもしれない。

「私ってわがままでしょ?」

 弱々しい声で彩音は言った。

「こんな私のこと本当に好き?」

「そんな言うほどわがままかな。こんな風に甘えてくる彩音はすごく可愛いし、好きだよ」

 僕は冷静さを保つように努め、落ち着いた声で言った。

 彩音は頭を僕の胸に押し付けたまま、くすりと笑みをもらした。

「本当は、もっともっとわがままなの。総一さんにはまだ出していないだけ」

「もっとわがままでも、俺の気持ちは変わらない。なんて口で言うのは簡単だけど、こればっかりは実際彩音がそうなってみないと、何とも言えないよな」

 僕は笑ってみせたが、彩音は笑わなかった。

 彼女はじっと、僕の胸に耳を当てていた。

 どんな顔をしているのかは分からないが、落ち着いた様子で静かに呼吸をしている。

「私の話、聞いてもらえる?」

 ためらいがちに、でも意を決したように彩音は言った。僕はもちろんと返した。

「ありきたりな話だけれど、私が小さい頃に両親が離婚して、母親に私は引き取られた。私が高校生の時に母親は再婚したけれど、それまでずっと苦労して私を育ててくれた。離婚した父親は養育費なんてろくに払わずにどこへ行ったかも分からない状態だったから、母はずっと働いていた。帰るのがいつも遅くて、朝も私が学校へ行くより早かったから、ろくに顔を合わさない日が多かった」

 ふと、彩音は顔を上げて僕を見た。その表情はどことなく不安さを帯びていたので、僕は微笑んで、赤ん坊をあやすように彼女の頭をぽんぽんと軽くたたいた。

「私は母が好きだったし、子ども心ながら母がとても大変なんだと分かっていた。だから母に迷惑をかけないことだけを心がけてきて、学校では問題を起こさないように真面目に過ごしてきた。同級生達ともあまり関わらないようにしてきたから友だちなんていなかった。高校生になってようやく家庭が落ち着いてきた所で、家族にうまく甘えたりわがままを言うことなんて出来なくなっていた。もう私の中で甘えることは奥底に閉じ込めてしまっていたから」

 彩音は力なく笑った。その顔はとても悲しい顔だった。彼女の話を聞きながら、僕は彼女の閉鎖的な性格を思った。

「母が再婚した人はとても優しい人だったし、母は家にいることが多くなって、幸せそうだった。でも、私はその家庭の中にはうまく溶け込めなかった。別に新しい父親が嫌いじゃないんだけど、母とその人がとても幸せそうだったから、私はその中には入っていけなかった。なんとなく、私は邪魔者のような気がした。二人はそんなこと絶対言わないし、そんな態度だってしないし、本心でも私を邪魔だなんて思ってはいないだろうけれど、新しい家庭の中で私は浮いていた」

 彩音はそこまで話して、一度深々と息を吐いた。彼女がこんなにもたくさん話をしたことは初めてだった。きっと彼女にとって話すことはとてもエネルギーを使うことなのではないか思った。

 僕は彩音に何も言わなかった。本当なら、彼女になぐさめの言葉なんかをかけてやれたらよかったのだろうけれど、僕はそういうことが苦手で、気の利いた言葉なんて何一つ出てこなかった。そのかわりに、僕は彼女の話を一字一句しっかりと聞き漏らさぬように懸命に聞いた。今まで話をしてきたどの女の子よりも、真剣に彩音の話を聞いていた。

「私が県外の大学へ進学したいと言ったのは、唯一まともに母に言えたわがままだったかもしれない。どうしても学びたいことがあって、この大学じゃないと駄目なのとかなんとか言ったら、母と新しい父は、当たり前のようにその望みを叶えてくれた。本当はあの家を離れることが出来たらどこでもよかったの。なのに就職するとか言い出せなかったから、これは本当に私のわがまま。でも本当はそんなわがままじゃなくて、一緒に買い物に行ってお菓子を買って欲しいとか、公園へ遊びに行ってブランコを押して欲しいとか、私が眠れるまで絵本を読んで欲しいとか、そんなわがままをもっと言いたかった」

 彩音は再び話すのをやめて、僕の顔を黒い瞳で見つめて、僕の胸に顔をうずめた。

「これで分かったでしょ?私は母にできなかったわがままを総一さんにしているの。総一さんは別に母に似ている訳でもないのに、私、素直に甘えてしまっている。母に甘えたかった子どもの頃に戻ってしまうの。私が甘えたりわがままを言える人は総一さんだけ」

 彩音が顔を上げると、彼女は幼い子どものような顔をしていて、黒い瞳が純粋そのものの輝きを放って僕を見つめている。

 僕は彩音の身体を強く抱きしめた。彼女の細く柔らかな身体は、僕の両腕にしっとりとなじむ気がした。

「こんな甘ったれでわがままな私を、好きになってくれる?」

 かすれた声で、彩音は言った。しつこいくらい念押しをする彼女を抱きしめながら、僕は笑みをもらした。

「もう好きになっているってば。無口で、わがままな彩音のことを大切にする」

 彼女は僕の顔を見ずに、洗いたてで少し濡れた髪を揺らしながらうなずいた。

 僕に甘える彼女は、無表情な人形ではなかった。その時の彼女が一番きれいで、可愛らしく、人間らしく感じられた。

「俺に甘えるのに慣れてきたらさ、今度こそお母さんにわがままをいえるようになるんじゃないかな」

 僕が何気なくそう言うと、彼女は目をまん丸くして、口をだらしなくぽかんと開けた顔で僕を見た。

「彩音はもう、母親に甘えることなんてできない。他に甘えられる人が俺であるならそれでいいと思っているかもしれないけれど、きっとまだお母さんに甘えたがっているんだよ。今すぐには無理でも、そのうちきっとそんな日が来る気がする。根拠はないけれど」

 僕の言ったことは、ただの気休めかもしれないし、よけいなことだったのかもしれない。

 でも、彩音がまだ母親に甘えたがっている部分があることはなんとなく分かったし、僕の前で見せる幼い彼女がそれを表している気がしたから、僕が気づいたことを彼女に自覚して欲しかった。

「全く、適当なこと言って」

 彩音は小さく息を吐いた。

「私もうハタチだよ?大学に入って以来実家にもろくに帰ってないし」

「年なんて関係ないよ。三歳だろうが二十歳だろうが四十歳だろうが、いつだって母親は母親だし、いつだって子どもは親に甘えていいと俺は思うよ。甘えすぎたらいけないだろうけど」

 彼女はそっかな、と言いながら恥ずかしそうに目を伏せて、口元に笑みを浮かべた。その際、二本の八重歯がわずかにのぞいていた。




 巧一と百合は、七月七日の七夕に結婚式を挙げた。

 僕と彩音はそれぞれ、巧一の友人、百合の友人として式に出席をした。

 昼間の空に天の川は見えなかったけれど、鮮やかな夏色の空が広がっていて、まさに結婚式日和といった感じだった。

 ライスシャワーの中を、タキシードを着た巧一は照れ笑いを浮かべ、隣にいたウェディングドレス姿の百合は花嫁らしい上品な笑顔を周りの人々に向けている。

 百合がブーケを投げると、式に出席した多くの女性達がきゃあきゃあ言いながら群がって、その中の一人の若い女の子がブーケを手にして嬉しそうに笑った。

 僕と彩音は多くの人が集まっている群れの最後尾で、傍観者のように幸せそのものの光景を眺めていた。

 普段は露出が少ない服を着ることが多い彩音だが、今日はエメラルドブルーのドレスを着ている。 

 今日の彼女はいつもより大人びて見えていたしとても魅力的だったから、式に同席した男性陣の視線もちらちらと彼女へ向けられ、彼女は居心地悪そうに僕のそばを離れようとしない。

 でも、そんな華やかな彩音に引き換え僕はと言えば、礼服も持ち合わせておらず、平凡な紺色のスーツを着ていて、結婚式用のネクタイじゃなければ仕事中のサラリーマンと見分けがつかない。

 きらきらと輝く日の光に目を細めながら、彩音は口元をわずかに微笑ませていた。

 僕と彩音が出会って約一年と三ヶ月。その間に僕は二十五になり、彩音は大学四年生になった。

 彩音は相変わらず口数は少ないけれど、出会った頃に比べるとだいぶ表情は豊かになった気がする。

 大学へ進学して以来実家へ帰っていなかった彼女は、三月の春休みに久しぶりに両親に会ってきたそうだ。その時彼女は母親に甘えたのかどうかは訊いていない。

 彩音のことが好きになり、恋人と呼べるような関係になって、僕は彼女のたくさんのわがままな所を見てきた。かといって彼女が特別他の人よりもわがままなのかといえば、そうでもないのじゃないかとも思えるし、やっぱりわがままな女だと思えることもあるので、なかなか微妙な所だ。

 僕は彼女のわがままをすべて聞いてあげる訳ではないし、時には喧嘩だってすることもあるけれど、それでもわがままを言う彼女のことが好きだし、そのことを誇らしく思えたりもする。

 今のところ何の抵抗もなく彩音がわがままを言えたり、甘えたりすることができるのが僕だけだというのは、特別な感じがするし、そんな彼女のことを大切にしたいと心から思っている。

 そして何かと受け身な僕にとって、少々わがままなくらいの女の子の方がちょうどいいのかもしれない。

 彩音が僕の方をちらりと見た。口元をむずむずと動かしてころころとした瞳を向けてくる時は、彼女が甘えたいと思っているサインだと最近気がついてきた。

「どうかした?」

 僕が訊いても彼女は何も言わなかった。その代わりに、遠慮がちに僕の手を握ってきた。

 その仕草が可愛らしく、僕は彼女の頭を撫でて抱きしめたくなるけれど、それはしないで、代わりに彼女の手をそっと握り返した。

「今、何を考えているのか当ててみせようか」

 甘えてくる彩音に、僕はからかうように言った。

「いい。何も言わないで」

 ぶすっとした声で、彩音は言った。そして握っている手に力を込めた。

 幸せそうな巧一と百合の姿を眺めながら、彩音はきっと僕と同じことを思ったに違いない。

 彼女の思っていることが、まるで握り合った手を通して伝わってくるような、根拠のない確信が僕にはあった。

 その思いは、きっと今言うべきことではないので、僕はそれを胸の奥にしまっておいて、別の提案をした。

「式が終わったら、久しぶりに高原へドライブしようか」

「別にいいけど、それなら今日はお酒を飲まないようにね」

 彩音の言い方は、面倒くさそうなそっけないものだったが、その顔は晴れやかな微笑を浮かべていた。



 終

小説を書いていると、色んな物がモデルとなっているのだろうと気づくときがあります。登場人物は、自分であったり、友人であったり、完全にモデルにしたわけではないのだけれど、ちょっとした仕草や考え方など作品に反映されているものがあります。今回の作品で出てくる高原なんかは、私の地元の北九州がモデルとなっています。たまにドライブへ出かけてその風景を写真に収めたり、のんびり散歩してどこからか聞こえる鳥の鳴き声を聴いたり、空をじっと眺めたり、とっても癒されるいい所です。話は淡々と進んでいく感じで、私自身そんな作風かなとは思うけれど、こんな淡々としたお話にお付き合い頂ければ幸いです。

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[良い点] スラスラと読めました。 彩音ちゃんが可愛らしいです。 描写も凄くて、お上手で羨ましいです。 とても素敵な作品でした。 一つ一つの描写も細かく、頭の中でどんな風に行動しているのか描き易かった…
[良い点] 淡々というか爽やかな読後感がありました。 このままゴールインしてほしいです。 [気になる点] クエスチョンマークか読点で終わる →「読点」ではなく「句点」ではないでしょうか。 「聞く」と…
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