プロローグ
ーーー目の前には、大型の狼が3体。
否、見た目は狼だが、きっと狼という『種』には分類されないだろう。彼らはそれほどまでに巨大過ぎた。
小型の牛程は悠にある体躯に、鋭く尖った牙。野生を宿す眼光には理性はひとかけらも感じさせず、ただただ目の前の餌を食らい、糧にする事しか頭に無い様だった。
足に伸びたかぎ爪で地面を抉りつつ、彼らは3体ともにお互いに軽く牽制しながら唸っていた。
ーーーおいおい、そんなに僕が美味そうに見えるかよ。
そんな光景を前にして、安良田咲間は全く動じずに座り込んでいた。
狼達はお互いに、誰がこの美味そうな餌を食うか静かに競い合っている。いかにも栄養を持っていそうな顔色で、怪我も一つもなく、肉も程よくついたこの極上ともとれる餌。子牛程の体躯を持つ彼らにとっては分け合うには余りにも小さすぎる。3体のうちの1体だけが、このご馳走に手を付けれるのだ。
彼らは知っていた。ーーーこいつは人間だ。しかも今の今まで野生の『や』の字も知らない、所謂『キゾク』とかいう種類の人間だ。筋が少なく、栄養の豊富な極上の肉を持った美味しいカモだ。食べたら、きっと強くなるに違いないーーーと言う事を、彼らは知っていた。
なれば、是が非でも腹に収めたい。仲間を押しのけてでも、その豊富な栄養を取り入れたい。
そうした純粋な欲望が、彼ら3体を今現在、拮抗させていた。
ーーーが、しかし、そんな狼達の拮抗状態など知らぬ存ぜぬと言うかの様に、当の本人は実に暢気に辺りを見回していた。
(…ここ、どこだ?)
森、だ。どことも知れない深い深い森の中だ。空は何故か明るく、太陽の光が緑の天井にちかちかと見え隠れする。
咲間の服装は、例えるなら家からちょっと近くのコンビニに行く様な、ラフなスタイルだった。フード付きの黒いパーカーに、安物のジーンズ、安物のスニーカー。パーカーのポケットからはこれまた安っぽい財布が顔を覗かせている。
容姿は、全く特徴の無い事が逆にこの上ない個性として成り立っていた。中肉中背で黒髪短髪。顔は可もなく不可もなく、特筆すべき点はどこにも見当たらない。だがそれでも強いて言うならば、全体的に中性的な雰囲気が微かに漂っている、というくらいだろうか。
一言で言うなら、影が薄い。生気を余り感じさせない。そんな印象だった。
(…僕、まだ夢の中にいるんじゃないか…いや、ないよな)
咲間は頬をぽりぽりと掻きながら、心の中でふと湧いた推測を一蹴する。
森独特の湿った空気に重苦しい雰囲気。そして狼達の鼻をつく口臭や体臭。夢で済ませるには少しばかりリアルすぎる。
では、この状況は一体何だ?夢でないならば、何が起こっているんだ?
ここは森だ。そして今咲間は狼に囲まれて、命を失おうとしているーーー現状、この場で手に入るのはこれらの情報に限られた。
ならば、過去の情報ならどうだ。原因は過去に有るのかもしれないーーー咲間はそう思い立って、気を失う直前の記憶を簡単にサルベージし始める。
(…確か、皆既月食が起こるからって外へ出て月見でもしようかと思って、赤い月をぼおっと眺めて…)
そう、その日の夜、咲間は皆既月食を見に夜中外へ出たのだ。
何でも数十年ぶりの月食だと言う事で、咲間の周りではこの話題で持ち切りだった。咲間の通う高校なんて『月食が起きてる途中で告白すると、必ず結ばれる』なんて言う信憑性の欠片も無い謎ジンクスが広まるぐらいにはこの話題に好奇心満々だった。
クラス中がその話題で持ち切りになったものだから、咲間がちょっと行ってみようかなという気になったのは当然のことだっただろう。
という訳で、クラス全員で河川敷に集まろうという話を蹴って、一人で余り知られていない丘の上へと足を運んだ。咲間は集団で見る月よりも一人で静かに見る月の方がきっと綺麗だと思ったのだ。
それから、徐々に月が赤く染まっていく様を芝生に寝転がりながら眺めた。幸い夜空は遮るものが全くないと言う程の快晴で、月が異様に大きく見えたくらいだった。
月は次第に通常の色から、異常な色へと染まっていく。夜空は星々が輝き、月はその中心でその姿を変化させていった。
そして、ついに完全に月が真っ赤に染まり、それからーーーー
ーーーーそれからの記憶は、咲間には無かった。まるで眠ったかの様にいつの間にか気を失っていて、気が付いたらこのような状況に陥っていたのだ。
ここまで来た理由乃至過程は全く不明で、ここがどこなのかも不明であると言う事だった。
つまり、『何もかもが理解不能である』という情報が手に入った訳だ。
(…ふむふむ。なるほど)
咲間は納得したかの様に頷いて、こう呟いた。
「これは、異世界転生ってやつか」
「「「ガウ?」」」
やけに晴れやかな顔を浮かべた咲間に、狼達は揃って顔を見合わせた。
異世界モノ。最高です。
このパターンは転生と言ってもいいんですかね。