008 先生の本音
美住中学校は文化の秋を推している。5年前、前校長の鶴の一声で始まった活動だが、もともと合唱コンクールを秋に行っていたこともあり、先生や生徒達からの評判もよかったため、校長が代わった今でも続いている。
だが、実里にとっての秋は違う。音楽とか読書とかは、嫌いというわけではないが好きでもないのだ。
実里にとって、秋は食欲の秋、そして運動の秋だ。こんな秋晴れの日、部屋にこもって読書なんてもったいない。今日は気温も湿度もちょうどいい、絶好の運動日和だ。
だからこそ、実里は今日の五時間目、昼休み終わりの授業を心から楽しみにしていた。
「じゃあ、演習用の防護術式張るからみんな順番に並んでね」
言霊演習。言霊学と一緒に春ちゃんが教えている、もうひとつの授業だ。
言霊の暴発を防いだり、言霊を使ってくる相手への対処をするため、より実践的な方法でその手段を学ぶ必要がある。そのために導入されたこの授業。その内容は学校によって様々らしいが、美住中では教科担当が言霊の研究者であることもあって、多くの生徒がある程度の言霊を扱えるようになっている。
ただ、言霊を扱う以上はやはり危険が伴う。そのため、怪我をしないように畠山先生が一人一人にシールドを貼っている。
「あーあ、暇だなー」
「まあまあ、落ち着いてよ実里。さっきからもう五回以上聞いたよ?」
春ちゃんから防護術式をかけてもらうみんなの姿を、私と叶恵は教室の窓からのぞいていた。
春ちゃんは、みんなに自習として組み手をさせておいて、私達から先ほどの事情を聞くことにしたらしい。
現在は春ちゃんが準備を終えるまでの待ち時間だが、その光景を教室から眺めているのは酷く退屈だった。
「私もやりたかったなー、言霊演習。なにが悲しくてこんなところから見ていないといけないのよ。今日はこのためだけに学校に来たのに」
「さすがにそれは言いすぎじゃないかな……」
「だって私はどうせ勉強できるわけじゃないし、これくらいしか楽しみな授業もないのよ。あ、そうだ!叶恵、放課後に私と組み手しない?さすがにこのままじゃ消化不良で帰れやしないわ」
「うーん、私もやりたいのは山々なんだけど、たぶん春ちゃん先生に止められると思うよ」
「そんなものばれないようにこっそりやれば大丈夫よ」
「こっそりやるっていうんなせめて俺に聞こえないように話してくれないかな……」
席に座ったまま、玲二は不機嫌そうな顔でこちらを見つめている。今にも私に噛み付きそうなその表情は、本当に機嫌が悪いときの顔だ。玲二もこの時間を楽しみにしていたようだ。
「あ、玲二も一緒にやる?三つ巴のバトルロイヤルでも私は全然問題ないよ?」
「そういうことを言ってるんじゃないよ。お前ら、おとなしく席に座って待ってろってさっきも言ったじゃないか。春ちゃんもそう言っていただろ。そして泰助は寝ない」
今回の騒動の元凶は、すべてを忘れて気持ちよさそうに眠っている。その寝顔に蹴りを叩き込みたくなるくらいには、憎たらしい顔をしている。
「そもそも、なんで私たちまで巻き込まれているのよ。一番事情を聞くべきなのはこのバカでしょ?」
起こされてもまだ起きる様子のないバカを指差すが、反応はない。
「泰助からまともに事情を聞けるんであればそれでもいいんだけどな。それが無理なことくらいはわかってるだろ?それに、一人の意見を鵜呑みにするのはよくない。そう思ったからこそ俺ら四人から話を聞くことにしたんだろ、春ちゃんは」
「にしても私まで巻き込まれなくったっていいじゃない。泰助みたいに言霊使ったわけじゃないのよ?」
「それは多分、龍之介君と言い争ってたのが実里と玲二君だったからじゃないかな。事前に言い争いをしていた人から話を聞いたほうが事情は分かりやすいって思ったんじゃないかな。泰助君と私は言霊使っちゃったから当然として、二人まで呼ばれたのは多分そういうことだと思うよ」
玲二と叶恵、それぞれから冷静な分析をいただいた。ただ、その話を聞いたところで私の感情を抑えられるわけではない。
「それは分かってる。わかってるけど!」
地団太を踏んだところで、今更どうなるわけでもない。起こしてしまった過去は変えられない。そんなことくらいは実里も分かっている。分かってはいるが、何かに当たらずにはいられない。
実里はまだ中学一年生だ。自分の納得できないことを素直に受け入れられるほど、彼女は大人ではない。
「あーもう面倒くさい!私までこんなところで無駄な時間を過ごす必要はないでしょ!ねえ、叶恵もそう思うでしょ!?」
そういって叶恵の方を見ると、ひどく微妙な表情のまま固まっていた。例えるのも難しいが、風呂場でゴキブリを見つけてしまった。そんな表情。
「どうしたの?顔が面白いことになってるよ?」
「実里……後ろだよ、後ろ」
後ろがどうかしたのだろうか。声の震える玲二に言われるがまま、後ろを振り向くと。
そこには、満面の笑みを浮かべたままピクリとも動かない畠山先生が立っていた。
「せ、先生……お早いお帰りで……」
「ええ、あなたたちを長い間待たせるのも酷かなと思いまして、みんなに張り終わったあと、すぐにこちらに来たんですよ。瞬間移動を使って、ね」
普段はかなり砕けた口調で喋る春ちゃんが、年下の私たちに対して敬語を使っている。それに、笑顔ではいたが、その瞳の奥は全く笑っていない。これはまずい。完全に怒っている。
「それで、秋月さん。先ほどの発言について、少し詳しくお聞きしたいのですけど。もちろん、説明していただけますわよね?」
「え、いや、その……」
ついには、先生の周りからどす黒いオーラが見え始めた。これは、本当にまずい。
私は助けを求めて玲二を見る。が、当の玲二は我関せずといった表情で、そっぽを向いたまま無視を決め込んでいる。気が付けば、叶恵もいつの間にか私から一歩距離を置いている。
「ちょっと、二人とも!助けてよ!」
「ごめん、実里」
「……骨は拾ってやるから」
「ちょっとー!」
「どうしたんですか、秋月さん。さっきの無駄な時間とか、面倒くさいとか、そういった発言はどういう意図があって言ったのか、説明してくださいと申し上げているのですが、まさか聞こえていないわけではないですよね?」
能面のように張り付いた笑顔を少しも崩さないまま、春ちゃんはじりじりとこちらに向かってくる。その威圧感に圧されてしまい、体を動かすことができない。
春ちゃんが私に近づいてくるにつれて、どす黒いオーラはより色濃くなり、威圧によって幻聴まで聞こえてくる。
「さあ、答えてください。なんであんなことを言ったんですか!」
「ヒィッ!」
目前まで迫られる。冷酷なまでの笑顔で、呼吸の音すらたてず、どす黒いオーラを放ち続けるそれは、もはや人間とは思えない。私には、迫り来る壁のように思えた。今のわたしなら、蛇ににらまれた蛙の気持ちがよく分かる。
「あの……先生?」
「なあに、実里」
「ゆ……許してにゃん?」
一瞬、時が止まった。
自分自身ですら、何を言っているのかよく分からない。気づけばご丁寧に猫のポーズまでとっている。叶恵と玲二が唖然とするのも仕方ない。私自身も驚いているのだ。
もちろん、目の前の春ちゃんもそれを見ていたわけで。
「許してにゃん♪……で許せるわけがないでしょうが!」
ギリッギリのところで怒りを抑えていたようで、今の出来事で我慢の限界を迎えたらしい。教師としての畠山春が崩壊し、思わず本音が語られる
「本当に面倒なのはこっちよ、こっち!あんた達四人が起こした問題の後処理、いっつもだれがやっていると思っているのよ。担任の私よ、わたし!毎度毎度面倒で仕方ないわよ!それでも、かわいい生徒のためと思っていろいろと頑張っているのに、面倒ってあんまりじゃない!」
「先生、ちょっと落ち着いて……」
叶恵の声も届いていない。
完全にスイッチが入ってしまったようで、春ちゃんの独白はとまらない。
「言霊なんて必要ないっていう年上の先生達から睨まれてただでさえやりにくいのに、言霊を使って、いっつも四人組で問題起こしてくれちゃって……」
「ちょっと、先生。僕をこの三人と一緒にしないでくださいよ。いつもこいつらを止めるのは僕ですよ」
「そうやって止めに入って、この三人より大暴れしたことが何回あったか。二度と忘れられないようにしてあげようか?」
「う……」
玲二の反論は一瞬で否定された。それもそのはず、私が知る限りでも、仲裁に入ろうとして3回は私達以上に大暴れしている。もちろん理由があってそうなってしまったわけだが、こういう風に言われてしまうとどうしようにもない。
「あーもう!どーしてこうも問題ばっかり起こすかねー!私の生徒は!」
「ふう、ちょっと言い過ぎたわ。ごめんね」
散々言いたいことを言うと、ようやく落ち着きを取り戻したらしく、いつもの畠山先生に戻っていた。ぺこりと一度頭を下げると、次に私達へのお小言が始まる。
「でもさ、言霊を振るったからにはそれなりの理由があるんだろうと思って、ちゃんと事情を聞くために急いで戻ってきたらこれよ。そりゃあ、私も愚痴の一つや二つ、言いたくなるものよ。先生っていったって聖人君子ではないのよ?」
「いえ……本当にごめんなさい」
「なんか、すみません……」
さすがに、あそこまで先生に言わせてしまったのは、非常に申し訳なかった。
「で、寝たふりをしたままこの騒ぎに便乗するのは楽しかった?泰助」
不機嫌そうな顔から一瞬で笑顔に戻り、その笑顔は泰助へと向けられる。その言葉に反応して、眠っていたはずの泰助はむくりと起き上がった。そのことに気づいていたのは春ちゃんだけで、私だけでなく玲二と叶恵も驚いた表情をしている。
「寝たふり!?いったいいつから……?」
「ちっ、やっぱバレたか。さっすが春ちゃんだな」
大きく伸びをして立ち上がった泰助は、こちらをみてニヤニヤとしている。まるで、自分だけが知っている何かを楽しんでいるような、そんな表情だ。
「先生をおもちゃにして遊ぼうだなんて、ずいぶんと度胸があるじゃない」
「いやー、春ちゃんには悪いなーと思ったんだけど、それ以上に実里を化かすのが面白くて面白くて」
ケタケタと笑う
そこまで言われて、私はようやく思い出す。
先ほどのオーラと効果音。あれは私の幻覚や幻聴などではない。
「もしかして、先生の周りに見えたどす黒いオーラとか、効果音って……」
「そ、俺の言霊だった、ってわけだ。実里の反応が予想通り過ぎて、笑いをこらえるのが大変だったよ。どうだ、面白かっただろ?」
先ほどのオーラも、効果音も、すべては泰助が作り出したもの。つまり、私は泰助に化かされていた、ということである。
同時に、沸々と怒りが湧いてくる。クラス一のバカに化かされたということ、そして、そのことに私が気づけなかったこと。二つの刃が、私のプライドを引き裂いた。ケタケタと笑う泰助の顔も、私の怒りに火をつける。
「泰助……あんた、あとで覚えておきなさいよ……。私を化かしたこと、後悔させてやるわ」
「へっ、上等だよ。やってみろってんだ」
ついには春ちゃんのお説教も忘れて場外乱闘になる。その様子に、春ちゃんは頭を抱えていた。先ほどまでの怒りも完全に消失して、呆れ返っている。
「はあ……。もういいわよ、二人は後で個別にお説教するから」
「ええー、なんでだよ、春ちゃん。ちょっとからかっただけじゃん」
「当たり前だろ。言霊を使ったから問題になったのに、いたずらに使うなんてしたらそりゃ怒られもするさ」
「私は完全に被害者なんだけど……」
「実里、さっきの自分の発言を思い返したほうがいいと思うよ」
先生だけでなく、玲二と叶恵も呆れている。そのせいか、二人が少し冷たかった。
「じゃ、ほら、話聞くからとりあえず座って」
「あ、先生。その前にひとつ聞いておきたいことが」
「どうしたの、実里?珍しく改まって」
「あの時、なんで先生まで謝ったんですか。悪いのは、私たちなのに」
きっと、私だけじゃない。玲二も、泰助も、叶恵も。いや、ここにいる四人だけじゃない。クラス全員が、きっと聞きたかったこと。
もともと、春ちゃんのためにと頑張り始めた合唱コンクールの練習だった。それなのに、春ちゃんに迷惑をかけてしまった。本末転倒。それなのに私達と一緒に謝った。決して、こんなことをしたことを、頭ごなしに怒ったりはしなかった。
何故か。
その問いに、春ちゃんは笑顔で答える。
「そりゃ、決まってるでしょ。私はあなた達の担任なんだから」