006 不安げに進むその先に
実里が合唱練習を終えて帰宅したのは、夜の八時になろうとする頃だった。当然ながら、すでに日は沈みきっており、街灯がなければなにも見えないほどの暗さになっている。
「ただいまー……」
朝、昼、夕方と練習をして、喋る気力すら残らないほどには疲れきっていた。
「お帰り、お姉ちゃん。今日はかなり遅かったね」
「それだけ合唱練習を頑張っているの。……ところで、お母さん達は?」
すでに夕食の時間は過ぎているが、両親の姿は見当たらない。二人とも仕事をしているとはいえ、ここまで遅くなることはそうそうないだろう。
「はいこれ。私が帰ってきた時にはもう机の上に置かれていたよ」
そういって突きだしてきたのは、五百円とメモ用紙一枚だった。
「実里と朱里へ。今日は緊急の仕事が入ったので帰りが遅くなります。お金を置いておくので、好きなものを買って食べておいてください。お母さんより」
渡されたメモには、こう書いてあった。
メモは走り書きで、所々雑な部分もみられる。よっぽど急ぎの用だったのだろう。
「で、あんたは自分の弁当だけ買ってきて食べたわけね」
「お姉ちゃんが食べたそうな弁当が分からなかったから、自分のだけにしたんだ。私はこれにしたけど、お姉ちゃんもこれでよかった?」
朱里が差し出したのは、既に空になった弁当箱だ。
「まるまる印のすき焼き弁当、ね。あんたも好きね、それ」
甘い物好きの女性に大人気だというまるまる印のすき焼き弁当。朱里はお弁当というといつもこれを食べている。
「この甘さがたまらないのよねー」
「私は好きじゃないんだよね。甘すぎて、一食分食べきれない」
普通の板チョコレート一枚すら食べきるのに苦労する。そんな私にはあまりにも甘すぎる弁当だ。しゃけ弁当のような少し塩気のきいたほうが私の好みなのだが、朱里にはまだ早かったのか、理解されていない。
「お姉ちゃんは何のお弁当を食べるの?あれだったら私が買ってきてあげてもいいけど」
「私がテレポートで買ってきたほうが早いでしょ。……でも今日はいいや。もう風呂に入って寝る」
「練習、そんなに疲れたんだ。お姉ちゃんにしては珍しいよね」
「ちょっと気合い入れて歌の練習したらコレだからね。慣れていないことはやっぱりするもんじゃないね」
絶対に勝つと決めた以上、本番までに時間がない以上、練習時間を出来る限り増やして完成度を高めるしかない。
「そういうことだから、風呂は先に入るからね」
「はーい」
ただ、やみくもに練習しても意味のないことはわかっている。今日やったことを思い出し、今日できなかったことを確認して、明日の練習に繋げる。風呂に行きながら、風呂に入りながらだと、ゆっくり落ち着いて考えることができる。
「うーん、まだ強弱もつけきれていないし、曲のイメージに合った歌い方をできていないんだよね」
風呂でゆったりしながら思い出していくと、今日の練習を鮮明に思い出す。よかった部分、悪かった部分。そして……
「問題は、なんといっても音無ちゃん……よねぇ」
今現在直面している最大の問題まで思い出した。
音無楓。同じクラスになって話す機会はそれほど多くはなかったため、私が持っていた印象はそれほど強烈なものではなかった。ただ、その容姿に釣り合った可愛らしい澄んだ声は、私も羨ましく思っていた。当然ながら、歌も上手いのだろう。合唱コンクールでは、皆の中心に立って、引っ張っていってくれるだろう。と、勝手な推測をしていた。
「超がつくほどの音痴だったとは、知らなかったなー」
きれいな歌声を響かせながら、見事なまでに音程をはずしていく。それに巻き込まれた周りも、自分の音程がわからなくなる。そして、楓の歌うソプラノパートのメンバーはほぼ全員が音程を外す、という壊滅的な状態に陥っている。
「ほーんと、声はとても綺麗なのよねー。声もよく通るほうだから、一人だけ悪目立ちしてる」
それは、全体の調和が美しいとされる合唱では最悪の評価だった。だが、いまのうちのクラスの合唱は誰が聞いてもそう採点せざるを得ない。合唱コンクールでの優勝など到底無理だろう。
しかし、こればかりは実里が解決できる問題ではない。楓本人の努力がなければどうしようにもない。
そして、楓の問題はさらに大きな爆弾の導火線でもある。
今でこそクラスはまとまっている。だがしかし、このまま一週間経てばどうなるだろうか。一週間しかない状態でなおまとまらない歌声に、不満はどんどん募るだろう。その溜まった不満を爆発させる導火線に楓はなりうるのだ。
「お姉ちゃん、まだ上がらないの?私も早く入りたいんだけどな」
「えー、もうちょっとゆっくりさせてくれてもいいじゃん」
半分ほど寝ていたところに朱里から声がかけられる。
「どうせ湯船でゆっくり寝ていただけでしょ。私だって、今日は稽古で疲れたんだから」
「もう、わかったからちょっと待って。もう上がるから」
「早くしてよ!」
半分寝ながらの応対ではあったが、何を言ったのかはちゃんとわかっていた。すぐに湯船から上がり、そのまま風呂からあがる。
パジャマに着替え終われば、あとは歯を磨いて眠りにつくだけだ。
「あ、そうだ朱里。あんたにひとつ聞きたいことがあるんだけどさ」
「珍しいね。いつもは私が質問する立場なのに。で、何聞きたいの?」
歯を磨きながら、入浴中の朱里に話しかけていた。
「……もしも、さ。朱里のミスでクラスのみんなに迷惑かけたら、どんな気分になる?」
その質問に、朱里は一瞬戸惑った。いままで見てきた、強気な姉とは全く違う姿。声もどこか不安げで、頼りなく聞こえる。
「私だったら、多分落ち込む。どうして自分にはこんなこともできないんだろうって。そして、みんなに申し訳なく思う、かな」
「じゃあ、そのミスをクラスメイトに責められたりしたら」
朱里は真摯に答える。きっと、姉は悩んでいるのだと思ったから。悩んで、自分を頼ってきたのだから。
たとえ、自分の姉であったとしても、自分を頼る人を適当にあしらう人間には、朱里はなりたくなんてない。
「そんなの、余計に落ち込むに決まってる。自分だってなんとかしたくて努力しているんだもん。やりたくて失敗しているわけじゃない。それなのに、失敗を怒られたら落ち込むよ。そして、きっとそのミスを二度と犯さないように気を遣うと思う」
ミスを犯さないように気を遣う。それは、ミスをしないように気を付けることとは全く違う意味。
「つまり、失敗したことに関して一切関わろうとしなくなる」
「と、私は思うよ。落ち込み方にもよるとは思うけどね」
朱里の話を聞いて、実里はさらに不安になる。そんなことになればクラスがバラバラになるのは目に見えている。団結して合唱、なんて不可能だ。
「やっぱり、そうよね……」
「でもねお姉ちゃん」
続けられた朱里の言葉に、実里ははっとした。
「わたしは、……いや、私のクラスではそんなことにはならないって。私は自信を持ってそう言えるよ。だって、私のクラスメイトはそんなことしない。努力してる他人を嘲笑ったり、けなしたりする人間は一人としていないって、信じられるから」
クラスメイトを信頼している。それは何も朱里だけじゃない。実里だってそうだ。叶恵、泰助、玲二。そのほかのクラスメイト達も、きっと誰一人として楓を責めることはしない。そう、断言できるほどには信頼を置いている。
「そっか。……ありがとうね、朱里。お休み」
「役に立ったようで何より。お休み、お姉ちゃん」
どうも私は重苦しく悩みすぎていたらしい。朱里の一言で吹っ切れてしまうようなことに悩み続けるなんて、普段真っ直ぐな私らしくもない。クラスが分裂することなど、あってたまるか。合唱コンクールまで時間はないのだ。クラスの内紛を収めるのに使う時間など残されていない。
「さて、悩みも解消されたことだし、さっさと寝よ。明日も遅刻したら玲二になんて言われるか……」
最低でも風の刃の一つや二つくらいは飛んでくるだろう。怖すぎる。これは本当に早く寝たほうがよさそうだ。
布団に潜り込んでから眠りにつくまで、数十秒とかからない。布団に潜り込んで私が願うことはただひとつだけだ。
「……明日、ちゃんと起きれるといいなぁ」
翌朝、鳴り響いたアラーム機能付きの時計に手を伸ばす。時刻は6時過ぎ。昨日はここで寝てしまったのだが、今日は違う。布団から飛び起きると、すぐに支度を始める。とにかく体を動かしてさえいれば、眠くなることはないだろう。
「あれ、今日は台風直撃の予報でも出てたっけ……」
「別に私が早起きしたって台風は来ないでしょ。おはよう、お母さん」
「あ、ええ、おはよう」
驚く母をよそに、自分のやるべきことをやっていく。
今日の朝練では、一度全体で通して歌ってみる予定だ。その前に、もう一度楽譜を確認しておかないといけない。
「まさかそこまでやる気になっているとは思ってもみなかったわ」
そういって、頬杖をつきながらにやにやとこちらを見つめる。こう、食事中にじっとみつめられるのはあまり気分のよいものではない。
「……なによ」
「べっつにー。ただ、ちょっと懐かしいなーと思って」
青春だねーといいながら回想に入っていったので、そのままスルーすることにした。相手にしているときりがない。
「あ、それで今日も帰り遅くなるからね、お母さん」
「あー、私も遅くなりそうなのよ。昨日の案件がまだ片付いてなくて、その後処理まで引き受けることになってね」
心底面倒そうな顔を母は見せる。母は父と同じ会社で警備員をやっている。そこでの面倒事といえば、ろくでもなく厄介なことこの上ない事が多い、といつもぼやいている。おそらく、今回もそうなのだろう。
「何とか断れなかったの?」
「無理ね。昨日の事件現場に真っ先に着いたのが私と父さんだったことと、事件が起きたのがここから近い場所で、周辺地理にも詳しいってことで、今回の案件私と父さんに丸投げって。全くいい迷惑よ」
どんな事件なのか、までは色々あって言うことができないため、かなりぼけた情報しか実里たちには伝わってこない。
「ああ、夜遅くなるなら気をつけなさいよ。二人とも大丈夫だとは思うけど、怪しい団体がうろついているっていう話も聞いたし、その事件のこともあるからさ」
「了解。じゃ、もう行ってくるから」
「はいはい、行ってらっしゃい。鞄忘れないようにね」
今日は準備万全だ。時刻はまだ七時過ぎ。歩いて行っても朝練に間に合うだろう。朱里のおかげで不安も解消された。あとは練習を繰り返す。みんなの声を響き渡らせるためには、これしかない。楓だけでなく、私や、ほかの皆もまだまだ練習が足りていない。
朝早く、学校中に響き渡る歌声。その一つは実里たち一年四組、畠山学級のものだ。誰一人欠けることなくそろって響かせた歌声はまだまだ拙い。だが、その歌に込められた想いは、他のクラスの歌声に負けていない。音が取れていないため、その想いの半分すら伝わらないことが残念で仕方ない。
「楓、またズレてるよ!」
「実里、テンポが速い、指揮をよく見て!」
「泰助、全体的に強すぎ。もっと強弱を意識しながら歌って!」
クラスは、一つに纏まっていく。歌を通して、今までとは比べ物にならないほどに。
合唱コンクールに向けてようやく動き出した一年四組に、問題が起きたのはその日の昼だった。